■ 「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」
大陸へ大阪の進軍・日中戦争期の大阪賛歌      倉橋正直


図 「日本軍の占領地域」

『東京朝日新聞』1939年7月6日「事変二周年戦局地図」による

【1】『大阪朝日新聞』の連載記事
【2】広東
【3】上海
【4】九江
【5】漢口
【6】戦前・戦中の大阪
―軽工業が盛ん。対中国貿易で繁栄

【7】 かつての栄光が、
現在では桎梏になる

【編集部より】「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」
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大阪朝日新聞の記事「大陸へ大阪の進軍」 第2回 上海編」

大阪朝日新聞 1940年(昭和15年)1月18日
「大陸へ大阪の進軍」 第2回 上海編
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 【1】『大阪朝日新聞』の連載記事

 『大阪朝日新聞』に、1940年(昭和15年)1月17日から21日にかけて、「大陸へ大阪の進軍」という合計5回の連載記事が掲載される。中国戦線に形成された日本人町の中から、広東、上海、九江、漢口、南昌の5つの都市を選び、各都市に派遣されている特派員がそれぞれ報告するという形式である。

 報告者はその都市に派遣された特派員であるから、書き手はみんな違う。それぞれの都市に大阪製品がいかに多く輸出されているか、また、それを扱う大阪商人がいかに盛んに活動しているかを、各日本人町から報告している。書き手は異なるが、報告の内容は、どことなく似ている。なお、最後の南昌だけは割愛した。除隊した兵士が南昌にやってきて、「阪急食堂」という店を開いたという個人的な話を取り上げているからである。

 記事はいずれもやや長いので、いくつかに分けて紹介する。連載記事の趣旨が冒頭の広東編に掲げられている。史料が不鮮明なため、読めない所がある。そこは●印で示した。

 (前略)聖戦四年の春を迎へて、この頼もしい合言葉は、早くも大陸の土にとけこんで、馥よかな蕾をのぞかせ、●●の花咲く●春遠からじ。希望と熱と力に燃えさかる先達者の雄々しい姿。逞しい●手は『よくぞここまで‥‥』の辺●の地にまでのびてゐる。
 ことに目だつのは、長い歴史と伝統に育まれた「経済大阪」の物凄い進出だ。資本、商才、人三拍子そろった"大阪の興亜進軍譜"は、大陸の都といふ都に、あまねく力強く奏でられ、進むところ、あふるるは大阪調、描くは大阪色、息吹にも大阪のにほひをこめて、さすが商都の名に恥ぢぬ。

 日中戦争は1937年7月に始まった。だから、1940年1月の時点で、すでに2年半、経過した。年があらたまったので、数え年の言い方をすれば、「聖戦四年の春」となった。『大阪朝日新聞』であるから、地元「大阪」の読者に対して、精いっぱいサービスしている。中国戦線への、「経済大阪」の物凄い進出だと述べている。ものすごい進出ぶりを具体的に報告してゆく。
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 【2】広東

 はじめに広東である。

 大陸へ 大阪の進軍① 広東 浪華商品大持て 高い欧米品には愛想づかし 上方情緒の"食ひもの横町"   出口特派員
 椰子茂る常夏の広東にも朗かな新春が訪れた。皇軍の恩愛に育まれつつ、東亜建設の軌道を驀らに突進でゐる広東は、日支提携によって、今や素晴らしく繁栄を取戻し、昨年十一月二十一日には、早くも南支那唯一の大都会として、輝かしい更生一周年記念日を迎へた。皇軍としては入城後、三度目の意義深いお正月である。まづ脳裡に浮ぶのは去年の正月のことだ。

 南方の広東を1938年11月21日に占領する。だから、広東占領はまだ1年2ケ月しかたっていない。広東はたしかに「南支那唯一の大都会」であった。。



"赤い都"がわが正義のメスによって、大手術を受けた直後だったから、市民の九割まではすでに奥地や澳門、香港へと避難し去って、残った街は抗戦の妄念に憑かれた敗敵第四路軍の悪虐な破壊のため、電燈、水道はもとより、交通その他あらゆる文化機関は悉くぶち壊されて、実に廃墟のごとく見るも哀れな姿を曝してゐたものであった。
 その見る影もなかった街が、現在ではすっかり復興し、約九十万の市民の頭上には晴々しくも、へんぽんと日の丸の旗と五色旗がその前途を祝福するかのやうに翻ってゐる。あの南支のデルタをなす珠江の本流を、悠々と航行する大きな木造貨物船や漁船、またロマンチック●●●●●●は新生感を沸きたたせてをり、水陸の殷賑さを眺めるにつけても、僅か一ヵ年の間に、かくもみごとに復興させた日本の偉大な底力に、市民はもとより外国人もことごとく驚嘆してゐる。

 占領直後の広東は、市民の九割が各地に避難していなかった。澳門は、マカオのことで当時はポルトガル領であった。彼らが戻り、約90万人の人口になる。



 領事館警察で調査した十月一日現在の邦人進出の数を見ても、総計七、四三三名に達し、そのうち内地人四、四八○名、台湾本島人二、八七二名、半島人六四八名(居留届提出済のもの)で、出張などで一時滞在者を加へると、約九千名に上り、事変前と比較にならぬ激増ぶりを示してゐる。

大阪朝日新聞の記事「大陸へ大阪の進軍」 第1回 広東編」

大阪朝日新聞 1940年(昭和15年)1月17日
「大陸へ大阪の進軍」 第1回 広東編 写真

 領事館警察は在留日本人を取り締まるために外地に設けられた警察で、各地の領事に指揮されていた。日本独特のものであった。日中戦争が始まったあとも、領事館警察はそのまま存続した。
 広東在留の日本人の人口を述べているが、内地人、台湾人、朝鮮人の合計が総計の数字と合わない。合計は8,000人となる。なお、中国にやってきた在留日本人は、管轄する領事館に届け出ることが義務づけられていたが、戦争中ということもあって、実際には届け出ないものも多かった。広東の場合も、無届者を加えると「約九千名」になると推測しているから、無届者が1,000人ぐらいいたことになる。
 ついでに、4つの日本人町の在留日本人の人口を紹介しておく。朝鮮人・台湾人を含めた数字である。広東(12,320人)、上海(83,405人)、九江(1,379人)、漢口(9,679人)。―――出典は東亜同文会『第七回新支那年鑑』(1942年3月)、109頁、「主要都市別在留日本人数」(1941年4月1日現在)である。
 中国戦線全体では、506,230人となる。この統計は、紹介した『大阪朝日新聞』(1940年1月)の連載記事よりも、時期が遅れる。だから、人数はもっと増えている。それでも、在留日本人の概数は判明する。


内地人は、主として足場の好い台湾を筆頭に九州、沖縄、近畿といった順で、今のところ浪華人はやや淋しすぎるくらゐ少い。だが広東へ広東へと入る宣撫用品は何といっても、わが産業都・大阪製が断然第一位である。

 宣撫(せんぶ)用品については、あとで扱う漢口のところで詳しく説明する。広東に入る宣撫用品(実際には輸入品であるが。)の中で、大阪製品が断然、第一位を占めていた。



 綿業関係の伊藤忠商店、日商、大丸興業、鐘紡をはじめ、薬種の武田、塩野義商店があり、近く高島屋進出の前提である華興公司が開店準備にかかるなど、頼もしくも賑々しい。広州物産、松尾洋行、日華洋行など百貨店では大阪商品の代表である毛織物、メリヤス、毛布、雑貨類、食料品(缶詰類)、セルロイド製品などを直接、大阪の問屋から仕入れてゐるのと、また九州、台湾地方を経て仕入れるのと、いろいろ場合によって異なって、いづれにせよ、●ひとしく大阪商品でないものはないといっていい。

 広東に大阪製品を運び込んでくる会社・商店は、「綿業関係の伊藤忠商店、日商、大丸興業、鐘紡」、それから、「薬種の武田、塩野義商店」、百貨店の高島屋、および「広州物産、松尾洋行、日華洋行」などであった。輸入品目は、「大阪商品の代表である毛織物、メリヤス、毛布、雑貨類、食料品(缶詰類)、セルロイド製品など」であった。



 従来、華僑が徒らに英、米を妄信して自ら生産しようとせず、香港を通じ諸外国品のみに依存して来たものだが、最近、欧州大戦の影響で香港への入荷は殆ど杜絶し、在庫品が鰻上りに高騰しだすと、今さらのごとく愛想をつかしはじめるとともに、価格の安い日本製品すなわち大阪製品へと、俄然、廻れ右をした形だ。中でも毛織物、毛布の需要の多いのは、製品の精巧さが英米製に優るとも劣らぬのに驚いたためであらう。

 大阪製品の中でも、「毛織物、毛布の需要」が多いとしている。



 一方、大阪商品の進出とともに、千日前歌舞伎座裏の寿し屋街や、法善寺境内のやうな料理屋、おでん屋小路をしのばせる縄暖簾のかかった料理屋、食堂が数奇屋好みの表障子をはめ、畳まで敷いて純大阪式の気分を出して、ずらりと軒を並べ、"食倒れ大阪"の●図を、繁華街・●●中路を挟んで、あちこちの横町に描き出し、主人や仲居が"あんたも大阪だっか"‥‥と郷土物語に打興じ、なごやかな浪華風景をかもし出してゐる。
 写真のキャプション、「縄のれんの飲食店」、「商店で大持ての大阪商品」。
 (『大阪朝日新聞』、1940年1月17日)

 4人の特派員は、報告の中で、「食倒れ大阪」にふさわしく、必ず飲食店の盛況ぶりと、中国にやってきた大阪商人の活躍を記す。この記述がないと、大阪賛歌にならないとでも思っているかのようである。「千日前歌舞伎座裏の寿し屋街や、法善寺境内のやうな料理屋、おでん屋小路をしのばせる縄暖簾のかかった料理屋、食堂」といえば、「食倒れ大阪」の大阪人にはすぐにその場所が思い当たるのであろう。
 地元の読者へのサービスの観点から、大阪製品の盛況ぶりをやや誇大に描きがちである。しかし、報告の内容はまちがってはいない。1940年1月の時点で、広東へ大阪製品が怒涛のような勢いで輸出されていた。大阪商品の流入とともに、大量の大阪商人もやってくる。彼らを相手にした食い物横丁も形成される。「食倒れ大阪」の名に恥じぬ、食い物横丁が広東の繁華街の一角にもできていった。
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 【3】上海

 次は、上海である。

 大陸へ 大阪の進軍② 上海 結ぶ両商工都市 租界内にも浪速商標躍進 姑娘の日本語も大阪訛   中原特派員
 興亜の礎となる新政権の樹立を間近に控へて、大陸の力強い息吹とともに上海のわが警備地区の復興はめざましく、日本人も六万を超える躍進ぶり。なかにも際だって目につくのは、大阪人の進出と街頭に溢れる『大阪色』だ。商工都・大上海に自由な翼をのばして、グングン食込む大阪人の意気はすばらしいもので、数百の会員を擁する『上海大阪人会』は在滬経済界の代表を網羅して、対支貿易ならびに大阪商品の販路拡張に涙ぐましい努力を続けてゐる。

 新政権の樹立を間近に控へて」というのは、汪兆銘をトップとする南京政府が1940年3月に樹立されることである。上海在留の日本人を6万人としている。前述したように、41年4月には8万人になる。その後も増え続け、最終的には(日本降伏の時)約10万人になった。
 「在滬経済界」の「滬」(こ)は上海の別称である。したがって、在上海経済界のことになる。『上海大阪人会』は数百人の会員を擁し、在上海経済界で重きをなしていた。



 大阪製の綿布、綿糸、薬品などが昨年六、七月ごろからグッと量を増し、ことに雑貨のうち歯刷子、文房具、魔法壜は日本製品の九割を占め、木製やセルロイド製玩具は支那の子供たちに引張り凧で、飛ぶやうに売れて行く。
 大阪港の対外貿易のざっと半分が支那向であり、そのうち約六割は地元の大阪製であることからみても、いかに上海市場に大阪製品が幅を利かしてゐるかがうかがはれる。

上海に運び込まれた大阪製品は、綿布、綿糸、薬品、歯刷子、文房具、魔法壜、および木製やセルロイド製玩具などであった。これらは、いずれも軽工業の産物である。また、「大阪港の対外貿易のざっと半分が支那向であり、そのうち約六割は地元の大阪製である」というから、上海市場の相当部分を大阪製品がおさえていたことになる。



 これに加へて、共同租界福州路の大阪市上海貿易事務所の真面目な商品宣伝や、坂間大阪市長と傅上海市長の親交が、市民の大阪に対する認識を深め、両商工都市をがっちりと結んで、大阪商品の大陸進出をより円滑に、販路をより広くさせてゐることは見逃せぬ。    邦人密集地帯である虹口目抜きの商店街、北四川路、呉淞路、乍浦路には、実業百貨店をはじめ大小百余の邦人経営の雑貨商で扱ふ商品の九割までが大阪ものなら、アヴェニユー・ジョッフルの合同百貨店までが、殆どみな大阪商品で充満させ、日貨排斥のはげしい租界内で、堂々と浪速商標が躍動してゐるのも嬉しい。

上海にある「大小百余の邦人経営の雑貨商で扱ふ商品の九割までが大阪もの」というのであるから、大阪製品は圧倒的な勢いを持って進出していたことになる。



 大上海がすっかり夕霧に包まれるころ、ここは北四川路、乍浦路の繁華街――軒並に妍を競ふ三百余のカフェ、バー、ダンスホールには、あでやかなネオンで燦然と輝きだす。
 これらがほとんど大阪資本の浪速情緒豊かなもので、その名も「カフェ道頓堀」、「タイガーバー」と、大阪人には懐しい名ばかりで、大ネオンサインが横文字の外国カフェを威嚇するかのやうにきらめいてゐる。
 最近は支那料理屋に肉薄して、●路、乍浦路あたりに日本料理屋の新築が殖えて来た。経営主も板場も、材料もすべて大阪仕入れといふから、やがて小料理屋、さては軒先の屋台店にいたるまで、ちゃきちゃきの大阪料理と情調がただよふことだらう。
 街頭に戯れる姑娘たちが覚束なげに使ふ日本語も、大阪訛の日本語だ。兵隊さんから習ったといふ「大阪音頭」の美しい声が街に流れるのも、大阪の感化であり、目に見えない大阪の力は日に日に根強く大陸にのびて行く。
 写真のキャプション、「実業百貨店の大阪商品」、「呉淞路の大阪雑貨商」。
 (『大阪朝日新聞』、1940年1月18日)

上海の繁華街にも、大阪資本が多く進出していたから、大阪情緒が濃密に漂っていた。大阪商人が多く上海に来ていたので、「ちゃきちゃきの大阪料理」も食べることができるようになる。
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 【4】九江

 次は九江である。

大陸へ 大阪の進軍③ 九江 板場の腕の冴えで 揚子江の鯉も上方料理に ここも大阪商品の山   小山特派員
 事変前まで日本人が僅かに二十九人しかゐなかった九江の街が、皇軍の手で更生して僅かに一年半、物のみごとに日本色の濃い興亜の街に転身し、廬山通ひの外人達を驚かせてゐる。なかでも目を射るのは物凄い大阪人と大阪商品の進出だ。

 九江は江西省北部に位置し、長江(揚子江)中流の重要な港町である。九江の南方に、 有名な避暑地である廬山(ろざん)がある。九江は廬山へののぼり口でもあった。当時、廬山には欧米の外国人も多く別荘を持っていた。「廬山通ひの外人達」というのは、九江の町を経て、廬山の別荘に登ってゆく外国人のことである。
 前述したように、九江在留の日本人は1,400人程度であった。だから、比較的小さな日本人町ということになる。こんな小さな日本人町へも、「大阪人と大阪商品」がものすごい勢いで進出してきた。



 九江の目抜街・大仲路は慾目ぢゃないが、まるで浪華大路の出店のやうな大阪情緒で風靡してゐる。商店街の店頭で化粧品や日用品をみても、メリヤス、シャツや足袋をとりあげても、○○印、○印の懐しい大阪商品ばかり。
 また薬屋さんの軒下に積みあげられた薬の空箱も『大阪東区道修町×丁目××商店』の文字が目をひく。さらに食料品店の陳列棚に目白押しに居並ぶ堺の金露や都菊、さては吹田のアサヒビールなど酒やビールにいたるまで、大阪商品が幅を利かしてゐる。(『大阪朝日中支版』、1939年6月2日)

アルバムの写真「九江市 目抜キ通リ 大仲路」

岩田軍医撮影の写真
「九江市 目抜キ通リ 大仲路」

 「九江の目抜街・大仲路」の写真が残っている。重要な港町ということもあって、あかぬけた商店街になっている。九江の町に運ばれてきた大阪製品には、まず、「化粧品や日用品」、「メリヤス、シャツや足袋」があった。
 「道修町」は「どしょうまち」と読む。伝統的な薬の町である。そこから各種の薬がやってくる。金露(きんろ)と都菊(みやこぎく)は、堺で生産していた有名な清酒である。「化粧品や日用品」、「メリヤス、シャツや足袋」、道修町の薬、堺の清酒―――九江に輸入された、これらの品は、やはり、みな軽工業の生産品であった。

 一方、食堂街に踏入ると、大阪ずしがあり、浪華ずし、大阪屋など浪華商都の代名詞が氾濫し、さすがは食通の大阪人をこなした板場さんだ。食ったら瘤ができるとか、中毒するとかいって、怖れられてゐた揚子江の鯉も?陽湖の鮒も、何のそのだ。
 大阪板場の腕の冴えにまかせて、おほっぴらに食卓にのぼり、粋な島田や銀杏返しの姐さん達のサーヴィスで、押すな押すなの繁昌ぶりで、千日前や道頓堀あたりの食堂街に飛びこんだやうな情緒だ。

岩田軍医撮影の写真

「大陸へ 大阪の進軍3 九江」
記事の写真と前後して撮られたもの

 九江の日本人町は比較的小さかったが、それでも、食堂街は喜んで大阪商人を歓迎した。「大阪ずし」、「浪華ずし」、「大阪屋」は、すし屋の店名であろう。当時の日本人は肉食よりも、むしろ、生の魚のサシミを好んだ。しかし、九江のような内陸に位置する町には、マグロ・カツオのような海の鮮魚はない。
 「食ったら瘤ができるとか、中毒するとかいって、怖れられてゐた揚子江の鯉も?陽湖の鮒も、何のそのだ。大阪板場の腕の冴えにまかせて、おほっぴらに食卓にのぼり、」とあるように、やむなく淡水魚の鯉や鮒で代用した。
 九江は揚子江に面していた。また、?陽湖(はようこ)は九江の南方にある、大きな湖である。揚子江や?陽湖では、きっと大きな鯉や鮒が獲れたことであろう。その鯉や鮒を、生のまま調理してサシミを作った。おいしくはなかったと思うが、それでもサシミに飢えていた九江の日本人は、そういったゲテモノでも、敢えて口に運んだことであろう。千日前や道頓堀といった大阪の繁華街のようだったというのは、もちろんオセジである。



 最近、九江における一般物資の搬入状態は月々ざっと百万円。しかも、その八割までが、大阪商品雑貨ときいた日には、大阪人士の鼻息、思ふべし。
 写真のキャプション、「目貫通りの大仲路に見る大阪色」。
 (『大阪朝日新聞』、1940年1月19日)

 九江に搬入される物資の8割までが、大阪商品雑貨であった。大阪製品の怒涛のような進出ぶりを示している。
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 【5】漢口

 最後は漢口である。

 大陸へ大阪の進軍 ④ 漢口 築く『長江の大阪』 長崎言葉を駆逐した郷土弁  ハリキル三千の浪華商人   稲葉特派員
 子供を小学校へあげると、いつの間にやら『さうバッテン』、『よかタイ』なんどと、長崎言葉がうつってしまって、『この子、けったいな子やなア』と親たちを面食はせたもんですが、この節はそんなことはおまへん。
 また以前は私ども商内(あきない)に出かけて、『さうでッか』、『あきまへん』などと、大阪弁をつかふと、先さんがチラッと上目づかひにこッちの顔を見たりするので、遠慮しいしい、大阪言葉を使ったもんです。
 それがナンと、このごろでは大ッぴらで話ができます。これだけでも、ここに大阪の力と彩りがどんなに濃うなってきたかが、ようわかりまッしやろ。
 これは漢口で老舗を誇る大阪阿部市洋行支配人・山崎勲一氏が浪華ッ子のためにあげた気焔である。実際、山崎さんが力むとほり興亜調に、いま溌剌と躍ってゐる漢口には、逞しい大阪魂が日ごとにとけこんで行く。

 はじめに大阪弁のことが出てくる。日本人町には小学校が設立された。子どもを連れてきた在留日本人は、そこに子どもを通わせた。次の史料が伝えるように、中国戦線にやってきた日本人を府県別で見ると、長崎県出身者が多かった。



 南京の日本娘子軍の出身地は長崎県が断然、優勢。地理的関係も手伝って、近ごろ渡来する日本商人も長崎県人が多い。南京進出のトップを切ったのは、やはり娘子軍だった。
 〔大陸録音〕欄、(『大阪朝日中支版』、1938年5月3日)

 そこで、日本人町にできた小学校に通う子どもも、長崎県出身者が多くなった。小学校に通うようになった子どもは、自然の成り行きで長崎弁を覚えてきて、親を驚かせた。ところが、漢口では大阪から来た者のほうが多かった。だから、長崎弁を子どもが使うようなことはなかった。大阪商人が多く漢口にやってきたので、大阪出身者は漢口でも遠慮なく大阪弁を使えた。



 ここの中心街で事変前よりもウンと賑やかになった江漢通だけでも、日本棉花、そごう、大丸、安宅、岩井、大同、丸紅、塩野義、武長、小西など、大阪系の諸商店がズラリと軒をならべて、大阪街をつくり、目抜通の路にささやかな店舗を張る支那人の軒店にも、堺製のスプーン、ナイフ、フォークが断然、幅を利かせてゐる。

写真 

「大陸へ大阪の進軍4 漢口」の記事に使われた写真

 漢口の中心街の江漢通に店を出している会社・商店の名前が具体的にあがっている。これらの会社・商店はみな、「大阪系の諸商店」であったという。このうち、「日本棉花、そごう、大丸、安宅、岩井、大同、丸紅」といえば、現在では日本を代表する百貨店や総合商社に発展している会社が多い。また「塩野義、武長、小西」はいずれも製薬会社である。武長は武田長兵衛商店の略で、現在の武田薬品工業株式会社である。
 こういった会社の起源は大阪にあった。私はこういった会社がもともとは大阪から興ったことを知らなかった。大阪を起源とする会社の多さに驚いている。これらの会社・商店は、戦前・戦中の大阪経済の繁栄を基礎にして大きく成長し、今日のような隆盛を得たのであった。



 漢口ヘ! 漢口ヘ!  大阪商品の進軍譜は輝く紀元二千六百年を迎へて、いよいよ高らかに宣撫用品として、揚子江をはるばる遡航して市場に入った商品の約八割が、大阪製品であった。だから、漢口で捌かれてゐる日本商品は、とりもなほさず大阪商品であるといっても、差支ない。

 まず、紀元二千六百年とは1940年(昭和15年)のことである。次の「宣撫用品」の説明である。



皇軍入城後の武漢は作戦地帯としての特殊性を帯びてゐるので、他埠に見るが如き居留民でなく、すべての同胞は宣撫用物資取扱者であり、一般商人は一人もゐないといふ建前であったので、現在の武漢は民団はあるが、在住者は宣撫商人と呼ばれてゐる。従って新聞紙上に現はれる商品広告にも必ず『宣撫用物資』なる文字が加へられ、今日も尚ほ、その特殊地域としての事情は継続してゐるのである。
 (大陸新報社『大陸年鑑 昭和17年版』、1941年11月、403頁)

 漢口や広東は、敵軍と向き合う最前線であった。そういう事情から、日本から運び込まれる物資に対して特別な措置が取られた。すなわち、これらの物資は、戦争の被災民に無償、ないし、ひどくやすい価格で販売する物品であって、一般の商品ではないとされた。商品ではないので、関税を納める必要がないことになった。
 こうして、関税なしに日本から、日用雑貨品などが大量に漢口や広東に持ち込まれた。 実際には日本からの物資の輸入であるが、「宣撫用品」であるというタテマエで対処した。 商品ではないというタテマエから、前掲史料のように、漢口では、輸入物品を「宣撫用物資」、それを扱う商人を「宣撫用物資取扱者」と称した。漢口に入ってくる日本製品の約8割は大阪製品であったという。
 関税なしに、やすい価格で大量の大阪製品が漢口に入ってきた。この現象を見て、大阪製品の洪水と無邪気に賞賛しているが、その裏面で中国の軽工業は壊滅的な打撃を受けた。
 漢口や広東における、こういった「宣撫用品」として、関税なしに日本製品を輸入するやり方は、果たしていつまで続いたのであろうか。関税収入は、日本軍の下に作られたカイライ政権にとっても重要な収入源であった。いつまでも「宣撫用品」扱いが続けば、関税収入が入って来ない。したがって、「宣撫用品」扱いも、カイライ政権との間に矛盾を生み出したはずである。



 しかも、商社と呼ばれて、これらの品々を取引してゐる店舗が、実に千余。その過半数は伝統の商魂が興亜調に磨かれ、ますますハリキる浪華商人三千名で切廻されてゐる。

 日本から送られてきた物資を扱う店舗が、漢口に千余軒もあった。その過半数の店舗は「浪華商人三千名」によって切り回されていたという。前述したように、漢口の在留日本人はこの時、およそ9,700人であった。「浪華商人三千名」が真実ならば、大阪出身者が3割もいたことになる。この数字は信用できない。いくらなんでも、大阪出身者が漢口在留日本人の3割も占めていたとは信じられないからである。きっと、特派員は景気づけに、調子のよい数字を出したのであろう。



 飛躍を担う大阪商品陣の主力は、なんといっても日用雑貨品と文房具、食料品、シャツ類、鉛筆、カーボンペーパー、ナイフ、フォークなど、南京錠は堺方面から、それに岸和田方面のメリヤス製品も持て囃される。洋傘、石鹸、化粧品、靴クリームも馬鹿にならず、姑娘の喜ぶセルロイドの櫛、キューピーなども、値が廉いので、東京ものを圧倒してゐる。
 更紗、朱子など支那人になくてならぬ綿布の加工品は、大阪ものでなければ駄目と相場がきまり、人絹布、缶詰も最近では、フランス租界にまで進出してゐる。

大阪製品が具体的に述べられる。「日用雑貨品と文房具、食料品、シャツ類、鉛筆、カーボンペーパー、ナイフ、フォークなど」、南京錠、メリヤス製品、「洋傘、石鹸、化粧品、靴クリーム」、セルロイドの櫛、キューピー、更紗(さらさ)、朱子(しゅす)、人絹布、缶詰―――品目は多方面に及んでいる。
 堺はナイフ、フォークなどの食事に使う道具を生産した。岸和田あたりはメリヤス製品を供給した。更紗、朱子はともに綿布の加工品である。これだけのものが、揚子江をはるばる遡航して、大阪から漢口に運び込まれた。日用雑貨品、食料品および衣料品まで含んでいる。およそ人が生きてゆくのに必要とする物品の大半が含まれている感じがする



 景気よく、泡をふくビール、つき出しの花あられが大阪情緒をにほはせば、カフェ、飲食店も「大阪式」がめっきり数を殖やし、撞球場ではゲーム取りの娘さんが大阪訛りで、気分を出すといったわけ。

 大阪情緒あふれる繁華街の状況については、ちょっと触れる程度である。



この調子で行けば、漢口が『長江のシカゴ』から『長江の大阪』になる日も近い。否、すでに漢口は大阪であるかも知れない。
 写真のキャプション、「漢口の大阪情緒」、「撞球場の看板もこの通り」。
 (『大阪朝日新聞』、1940年1月20日)

 結論は、漢口が「『長江の大阪』になる日も近い。」というものである。あまりに楽観的すぎるように思われるかもしれない。しかし、当時はたしかに特派員をしてそのように思わせるような状況が存在した。漢口に、大阪製品があふれかえるような状況を目の当たりにしたからである。
 なお、『大阪朝日北支版』(1940年1月23日)に同じ記事がある。
 写真のキャプション、「漢口で"土と兵隊"の映画の看板に見入る」。
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 【6】戦前・戦中の大阪―――軽工業が盛ん。対中国貿易で繁栄

アルバムの写真「九江時計台附近」

岩田軍医撮影の写真
「九江時計台附近」

 4つの日本人町は、いずれも遠く離れているし、また、都市の性格もそれぞれ違っていた。広東は日本軍が占領した南中国に、ただ一つだけ存在した大都市である。上海は、長江(揚子江)流域地帯の中心的な大都市であり、日本人町としても、北京とともに最も大きな規模を有していた。九江は長江中流に位置する港町で、漢口方面へ兵站物資を移送するコースの重要な地点であった。鉄道の終点でもあったから水陸の要衝であった。しかし、日本人町の規模は比較的小さかった。漢口は内陸部の最も重要な都市であり、日本軍の最前線を形成していた。
 このように4つの日本人町の置かれた状況はそれぞれ違っていた。しかし、大阪製品の流入状況や、大阪商人の活躍状況に関する記述はほぼ似通っていた。その記述の部分を再掲する。

 「だが広東へ広東へと入る宣撫用品は何といっても、わが産業都・大阪製が断然第一位である。」(広東)
 「大阪港の対外貿易のざっと半分が支那向であり、そのうち約六割は地元の大阪製であることからみても、いかに上海市場に大阪製品が幅を利かしてゐるかがうかがはれる。」
 「大小百余の邦人経営の雑貨商で扱ふ商品の九割までが大阪ものなら、」(上海) 「最近、九江における一般物資の搬入状態は月々ざっと百万円。しかも、その八割までが、大阪商品雑貨ときいた日には、大阪人士の鼻息、思ふべし。」(九江)
 「揚子江をはるばる遡航して市場に入った商品の約八割が、大阪製品であった。だから、漢口で捌かれてゐる日本商品は、とりもなほさず大阪商品であるといっても、差支ない。」(漢口)

 広東に入る宣撫用品では、大阪製品が断然第一位であった。大阪港の対外貿易の半分が中国向けであり、その6割は地元の大阪製であった。日本人経営の雑貨商で扱う商品の9割までが大阪ものであった。九江における一般物資の搬入は毎月百万円で、その8割が大阪製であった。漢口に運び込まれる商品の8割は大阪製品であった。総じていえば、日本人町に運び込まれる物資の8割ぐらいが大阪製品であった。

 では、どうして、このような状況が生まれたのか。次にその問題を解明してゆく。 まず、当時の大阪の状況である。大阪は、日本の近代産業の揺籃期、江戸時代以来、築いてきた経済力を生かして各種の産業を興す。しかし、政府の補助が少なかったこともあって、大阪で興った産業の多くは軽工業であった。比較的小さな資本でも始められたからである。
 大阪は各種の日用雑貨や衣料品の類を大量に生産した。そして、その多くを中国に輸出した。大阪地方で盛んであった軽工業の製品が、中国に輸出するのに適していたからである。戦前、大阪は中国と強く結びついていた。要するに、大阪は軽工業で栄え、かつ対中国貿易で潤っていた。
 日本から中国戦線に送られた物資は、いったい誰が受け取ったかである。いわゆる兵站物資として、まず日本軍が受けとった。また、在留日本人も、いわば準兵站物資として、受け取った。中国戦線に駐屯する日本軍はだいたい100万人であった。1940年ごろ、在留日本人は朝鮮人、台湾人を含めて、50万人ぐらいであった。
 日本軍と在留日本人を合わせて、150万人ぐらいになる。相当な数であるから、日本から彼らにきちんと生活物資を送り届けることは、なかなか容易なことではない。しかし、彼らだけに物資を送るならば、洪水のような勢いで大阪製品を中国戦線に送る必要はなかった。
 大阪製品の購買者の大半は、実は占領地区に暮らす中国人であった。中国企業の多くは戦火を被り生産を中止していた。抗戦地区(蒋介石の率いる重慶政府支配地) 、すなわち、非占領地区とは分断されていたから、そこから物資はやってこない。欧米諸国からの物資は香港まではやってきた。しかし、香港から中国各地に移送する手段がなかったから、欧米諸国からの物資の供給も断絶した。
 ごく短期間ならば、物資の欠乏にも耐えられよう。しかし、日中戦争は何年も続く長期戦となった。占領地の中国人は何年も、物資の供給なしに暮らしてゆけない。やむなく、彼らは日本製の物資を受け入れてゆく。占領地に暮らす中国人の人口は膨大であったから、彼らが生きてゆくために求める物資は多方面にわたり、かつ数量も莫大なものとなった。
 大阪から大量の物資が中国戦線に入ってゆくことになった。膨大な需要が突然、生じた。日本軍と在留日本人の二つだけならば、必要とされる物資の量は比較的少ない。大阪製品が日本人町にあふれることはない。占領地にいる中国人が相手だからこそ、送られる物資も大量となった。もうけも当然、大きくなった。
 中国人は生活のために各種の物資を切実に求めた。広東や漢口では、関税なしに日本製品が中国に大量に持ち込まれた。それも一時的なものでは決してなく、相当長期間、「宣撫用品」扱いは続いた。「宣撫用品」という名称自体、送られた物資が中国人向けであったことを示している。日本軍と在留日本人を「宣撫」する必要などなかったからである。
 日本の企業が戦争景気を謳歌する時代になった。もうかってしかたがなかった。競争相手はいない。関税も一部の地域では免除された。製品の輸送は軍隊が護ってくれる。中国人向けの場合、競走相手がいないのだから、品質は問われなかった。ひどい品質のものでもかまわなかった。占領下の中国人は文句をいえなかった。

アルバムの写真「九江 南門湖ノ舟?(夏ノ頃)」

岩田軍医撮影の写真
「九江 南門湖ノ舟?(夏ノ頃)」

 日用雑貨・衣料品・食料品・医療品などをひとまとめにして、軽工業の製品と呼ぶことができよう。当時、日本内地で、大阪がこれらの物資を最も大量に、また効率よく生産できた。大阪以外の地域・都市では、大阪ほど効率よく物資を供給できなかった。大阪の軽工業が、ちょうど中国に輸出する物資の生産に最も適合していたからである。こうして、中国に輸出する物資の大半は大阪製品ということになってしまった。
 日中戦争の前半、大阪は中国戦線向け物資の主要な生産地となった。以前から、大阪は中国と貿易していた。この経験は有益であった。中国人が求めているものが、ある程度、推測できたからである。
 日中戦争の勃発、その長期化は、思いがけず大阪にまたとない繁栄の機会をもたらした。千載一遇のチャンスといっても、決してまちがってはいなかった。すなわち、日中戦争の長期化によって、大阪製品が中国戦線へ洪水のように輸出できるようになったからである。日中戦争期、中国戦線への物資の供給地として、大阪は飛びぬけた存在となった。大阪抜きには、中国への物資の供給は考えられなかった。大阪がその大半を供給していたからである。いわば大阪あっての、中国戦線の展開であった。
 軽工業で栄えていた大阪が、戦争景気の恩恵を最も多く受けた。中国人の膨大な犠牲の上に, 大阪経済の「黄金の日々」がはしなくも到来する。戦争がこんなにもうかるものだとは知らなかった。思いがけない利益に有頂天となった大阪商人は、戦争がずっと続いてほしいとこいねがった。
 大阪製品が戦時中、中国市場の多くを席捲するようすを、『大阪朝日新聞』の4回の連載記事は正直に、また天真爛漫に伝えてくれる。あるいは地元「大阪」へのサービス精神から、大阪製品が中国戦線に溢れる状況をいささか誇大に描いているように思われるかもしれない。しかし、決して誇大な報告ではなかった。大阪の経済人が夢にまで見た状況を、特派員たちは正しく伝えていた。まごうことなき大阪賛歌になっている。

 日中戦争の前半、大阪は戦争景気でわき立つ。現在からかえりみれば、大阪経済の黄金期であった。しかし、栄華を誇った時期は短かった。せいぜい3、4年であろうか。やがて、太平洋戦争が始まる。アメリカ軍の潜水艦の恐怖から、中国への航行は危険になり、だんだんと途絶してゆく。さらにアメリカ軍の空襲によって、対中国貿易で繁栄した大阪も焼け野原になる。大阪経済は壊滅する
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 【7】 かつての栄光が、現在では桎梏になる

 戦後、大阪は復興してゆく。その際、特段、新しい産業は興らず、産業の性格は大きくは変わらなかった。戦前・戦中の軽工業主体の経済がほとんどそのまま復興してゆく。軽工業で繁栄した大阪―――それが現在では大阪を苦しめている。戦前の長所が、現在の短所になった。

 名古屋を中心とする中京地区は、かつて織物工業がさかんであった。西は岐阜・一宮、東は浜松まで含んでいた。私は浜松で育った。近所に大小の織物工場がいっぱいあった。「ガチャマン」ということばが有名である。織物機械が、一回、ガチャッと動くと、経営者は1万円もうかるという意味である。当時の1万円は、現在の数十万円の価値があろう。戦後しばらくは、織物工業が繁栄した。
 ところが、1970年代になると、同地域の織物工業は次第に衰退してゆく。アジア諸国で織物工業が勃興してきたからである。アジア諸国の労働者は低賃金で働くので、同じ品質の織物がやすく生産できる。こうして、さしも繁栄していた織物工業は次第に衰退してゆく。現在ではもう見る影もない。織物工業の繁栄はすっかり昔話になってしまった。
 織物工業の衰退に反比例して、オートバイや自動車の生産が始まる。オートバイや自動車生産は、うまい具合に時代の波に適合していたので、大きく発展する。現在では、名古屋から浜松にかけて、日本有数の自動車生産地帯に変貌した。このように産業の交替がうまく行われた。だから、名古屋から浜松にかけての地域は、今も繁栄を続けることができた。

アルバムの写真「南門湖畔ヨリ市中ヲ望ム」

岩田軍医撮影の写真
「南門湖畔ヨリ市中ヲ望ム」

 本当は、大阪もまた、このような産業の転換をある時期に成し遂げねばならなかった。 大阪は、他の都市と同様に、戦争でいったん焼け野原になる。戦後、復興するが、やはり軽工業が中心になる。大阪の産業構造はそのまま存続してしまう。大阪は軽工業や家電産業でおおいに栄えてきた。
 ところが、近年にいたって、韓国・台湾や中国が急速に工業化し、追いついてくる。韓国・台湾や中国は優秀な軽工業の製品を次々と生産してくる。しかも価格はやすい。そうすれば、大阪製品は必然的に売れなくなる。こうして、主に軽工業に頼る大阪経済は衰退し始める。これに家電業界の衰退も加わる。パナソニックに代表される家電業界の苦境である。
 こういった状況に救いはない。時間の経過とともに、大阪経済はどんどん衰退してゆくだけである。大阪経済の本格的な衰退によって、失業率は跳ね上がる。生活できなくて生活保護に頼る人もまた増大してゆく。現在、生活保護を受けている人の比率は大阪が全国で第一位である。大阪経済の疲弊の現われである。そのような破滅的な経済状況に大阪は陥った。今日はなんとか食べてゆけるが、明日は転落しそうな人々が確実に増えてくる。彼らは救いを真剣に求める。既成政党では救われないと自覚する。

 そこに今回、橋下徹氏が登場する。彼の大げさな言説に頼るしかなくなる。橋下氏と彼の党派を支持してゆく。大阪府と大阪市の二つの地方公共団体があって、行政に二重のムダがある。それをなくしてゆこうというのは一向、かまわない。たしかに行政のムダはなくしてゆくべきである。しかし、両者を統一して「大阪都」を作っても、根本的な解決にはならない。
 解決は、従来の衰退した産業(軽工業を基盤とした)に代わって、大阪で何か新しい産業を興すことである。これを提起しない限り、現在の大阪の苦境は解決しない。よく成長戦略という。言うはやすく、行なうは難しい。容易に行えるような成長戦略ならば、どこの国でも、また、どこの地域・町でも、すばやくそれを取り入れるであろう。みんな、目を皿のようにして、次の時代につながる成長戦略を探しているからである。
 結局、大阪の状況に適合した、特殊な産業を見つけ出してゆかざるを得ない。しかし、すぐには見つけられない。大阪経済の再生・復活は難しい限りである。その意味で、橋下氏の改革は本質的に難しいと、私は判断している。
 現在、大阪に現れている現象は、早晩、日本全体の問題になると、私は心配する。今日、日本の軽工業や家電業界は、躍進する韓国や中国にほぼ追いつかれてしまった。自動車生産はまだかろうじて優位を保っている。この優位を、果たして今後、いつまで保てるのであろうか。はなはだ心もとない気がする。それだけ韓国や中国の追い上げは急である。
 自動車産業の優位性さえ失われた時、日本全体が現在の大阪の境遇に陥ってしまう。大阪に橋下徹氏が登場したと同じ構造で、今度は全国的規模で橋下氏のような人物が現れるであろう。かつてのファシズムの登場と同じ原理である。窮乏に瀕した大衆が「救世主」の登場を待ち望んでいるからである。
 日本版ファシズムへの行程を簡略化していえば、次のようになろう。すなわち、大阪の軽工業や家電業界が衰退する。大阪の住民は生活に不安を感じるようになる。彼らは力のある新人(具体的には橋下徹氏)を渇望する。大阪で起こったことであるが、それは決して大阪だけにとどまる現象ではない。
 何年か遅れて、今度はそれが全国的規模に移行する。日本の産業が全体的に衰退する。日本国民の生活レベルが低下し、将来に対する漠たる不安を感じる。新しい政治グループ・個人に期待する。―――これが予想される一つの行程である。あるいは単純化しすぎると批判されるかもしれない。たしかに実際にはもっと複雑な行程をたどろう。しかし、こういった行程が実現していく可能性もまた軽視すべきではなかろう。私の心配は深まるばかりである。
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〔2012年1月12日。愛知県立大学名誉教授〕




 ■編集部より■

 ピースあいち・メールマガジンに寄稿いただいている倉橋正直氏の「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」の記事の掲載は、25号まで(2011年12月号)なんと数えると7回にのぼります。
(内容は下記に記載)
 ピースあいちでは、昨年「太平洋戦争勃発の日からの新聞全綴り」の寄贈を受けました(現在、3階の寄贈品展で展示中)。この膨大な資料も活用し、倉橋氏にシリーズ「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」として引き続き寄稿をお願いしました。

① 2011年3月26日 16号
◆ なんとも不思議な広告
戦争中の『東京朝日新聞』を見ていたら、なんとも不思議な広告を見つけたので紹介する。
・・・(↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201103/vol_16-5.html
画像(PDF)はこちら。
  http://peace-aichi.com/objects/20100315asahipapilio.pdf
② 2011年5月26日 18号
◆ 作文・小池キヨヱ「モルヒネとり」
戦前、日本内地でも、ケシ畑があり、大規模に阿片を生産していた。阿片の生産地は和歌山県と大阪府に集中していた。和歌山県の生産額が第一位であった。
・・・(↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201105/vol_18-5.html
③ 2011年7月25日 20号
◆ 観音寺の興亜観音
私は『朝日新聞外地版』復刻版(ゆまに書房)を見ていた。偶然、「興亜観音竣工す」という記事を見つけた。はじめに、その記事を紹介する。・・・ (↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201107/vol_20-7.html
④ 2011年9月27日 22号
◆ 「張作霖氏坐乗列車爆破現状絵葉書」―関東軍が作成・販売させた絵はがきセット
岩田錠一軍医が残した絵はがきの束の中に、おもしろい史料があった。関東軍は、1928年6月、張作霖を爆殺する。その現場を写した写真を絵はがきセットにしたものである。9枚の白黒の絵はがきが、封筒に入っていた・・・・
・・・・(↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201109/vol_22-9.html
⑤ 2011年10月26日 23号
◆ 日中戦争とタタミ 「榻榻米」(tatami)─在留日本人はなぜ、日本式の生活にこだわったのか
日中戦争の時、中国戦線に多くの在留日本人がやってきた。彼らは軍人・軍属ではなく、民間人であった。日本人は中国に移住してきても、自国の生活習慣を容易に変えようとせず、衣食住すべての面で日本式の生活をそのまま続けようとした。在留日本人はなぜ、日本式の生活にこだわったのであろうか。日本人町の住まいの方面では、畳の導入・使用が最も重要な位置を占めていた
・・・・(↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201110/vol_23-6.html
⑥ 2011年11月25日 24号
◆ 「戦争の横顔」・従軍記者が杭州市・西湖畔で、高級ホテル暮らし
従軍記者が送ってきた記事の多くは、凄惨な戦場の報告である。その中で、今回、紹介する記事は、おもむきが違っている。日中戦争時、軍事占領したばかりの杭州市で、従軍記者はいわば「早い者勝ちで」、ホテルを接収して、新聞社支局とする。残留していたホテルの従業員13人もそのまま使用する。いわば「切り取り勝手」の世界が実現したという話である。
・・・・(↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201111/vol_24-5.html
画像(PDF)はこちら。
  http://peace-aichi.com/24-5kurahashi11.pdf
⑦ 2011年12月25日号 25号
◆ 兵隊は運動会が大好き─ 日中戦争期、日本人町における軍民合同の運動会
日中戦争で、日本軍は中国の領土を広範囲に占領する。およそ100万の日本軍がずっと戦地に駐屯して、占領支配に当った。これと同時に、多くの日本人民間人も占領地にやってきた。・・・日本人町で、兵隊が民間人と一緒になって運動会を催している。兵隊だけで運動会をしている事例はない。駐屯地内で開催された陣中運動会であっても、そこには従軍看護婦・「白衣の勇士」と表現される傷病兵・司令部付きのタイピスト嬢などが参加している。日本人町で開催される運動会は、文字通り「軍民合同」の運動会になった。日本人小学校の児童、国防婦人会員の女性、一般の在留日本人などが、こぞって参加した。だから、運動会は、兵隊だけでなく、日本人町の住民にとっても心が浮き立つ最大規模のイベントであり、かつ娯楽の場でもあった。
(↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201112/vol_25-13.html


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