◆「戦争の横顔」・従軍記者が杭州市・西湖畔で、高級ホテル暮らし◆      倉橋正直


『大阪朝日中支版』 昭和13年(1938年)3月25日

『大阪朝日中支版』
昭和13年(1938年)3月25日
全文はこちら(PDFファイル 2ページ 0.9MB)

従軍記者が送ってきた記事の多くは、凄惨な戦場の報告である。その中で、今回、紹介する記事は、おもむきが違っている。日中戦争時、軍事占領したばかりの杭州市で、従軍記者はいわば「早い者勝ちで」、ホテルを接収して、新聞社支局とする。残留していたホテルの従業員13人もそのまま使用する。いわば「切り取り勝手」の世界が実現したという話である。

『大阪朝日中支版』 昭和13年(1938年)3月25日と26日に、「戦争の横顔 児玉特派員手記」として、二回にわたって連載された。見出しを紹介する。

 戦争の横顔① 児玉特派員手記  ホテルお好み次第 “魔法の杖”白墨片手 
 Xマスイーブ 憧れの杭州で支局捜し
 (25日)
 戦争の横顔② 児玉特派員手記  お伽噺の富豪 児先生 
 窓の外は満目日の丸
 (26日)

<従軍記者―ホテルお好み次第>
児玉氏は大阪朝日新聞の従軍記者であった。フルネームはわからない。「記者は五ヶ月ぶりに江南の戦線から帰ってきた。」という書き出しで、記事は始まる。

雨上りの杭州街道の楊柳の並樹道を、僕、東朝の足立、小島君、無電の宮崎さんらは、兵隊さんと一緒に駆足で走った。十二月二十四日の黄昏どきである。

1937年(昭和12年)12月24日、ちょうどクリスマス・イブの日に、日本軍は浙江省杭州市を占領する。杭州を占領した部隊に、児玉記者は同行していた。従軍記者は児玉氏一人だけではなかった。「僕、東朝の足立、小島君、無電の宮崎さんら」と一緒であった。「東朝」は東京朝日新聞である。のちに大阪朝日新聞と統合され、朝日新聞になるが、この段階では別会社であった。一つの部隊に4人の従軍記者が随伴していた。

同行する兵隊が児玉記者にいう。

「朝日新聞ええとこトリなっせいよ、杭州はよかホテルが何ぼでもあるちうけん」
この兵隊さんたちは○○隊である、軍隊が一つの街に入る時は、まづ宿舎とベッドをとらねばならない。
杭州、杭州、ヴェニスの旅人、マルコ・ポーロが「おう。天上の都、地上の楽園!」とイタリア語で唸ったきり、茫然とした西湖は、いま、もう眼の前にある。僕もまた眼をムクであらうか。

従軍記者の児玉氏も、兵隊と同様に、上海方面から杭州まで二百五十里の距離をずっと行軍してきた。長い行軍で、足は棒のようになる。

「おーい。高君。白墨持ってるかあ。」 半分、振り向いた高君の笑顔が頬ぺたを赤くして右手を高く振った。走りながら、さて、白墨は何に使ふ?

高君は、「聯絡員」とか、「支那語の達者な半島生れ」と説明されている。児玉記者は中国語がしゃべれなかった。高君は、中国語の通訳をする朝鮮人の青年であった。児玉記者の通訳、兼、助手であった。

紫色の黄昏の中に西湖は銀色に光ってゐた。たしかにこの西湖の空気には色がついてゐるやうに思はれた。それほどすばらしい夢のやうな紫いろなのだ。僕もまたマルコ・ポーロのごとく、茫然としてしまった。詩人でない僕には、あの時の美しい西湖の黄昏と驚嘆を表現する言葉を知らない。

児玉記者は、西湖の光景のすばらしさをこのように述べている。12月下旬の時期、夕方になると、西湖は紫色のモヤにでも包まれたのであろうか。幻想的な景色である。

「おーい、記者さん、宿舎あったかな、早くよかとこトリんさい」 ハッと我にかへった、さうだ、支局をつくらねば……西湖の岸にはズラリ大廈高楼が夕闇のなかにホノ白く浮かんでゐる。

支局として使う建物を早く見つけねばならない。次に西湖の岸にずらりと並んで立っているホテル群を記してゆく。

西冷飯店、新々ホテル、西湖飯店、大上海、環湖旅店、滄州旅館、大華飯店、新泰旅館、大同旅館等。ああ数へるのがしんどいくらゐだ。

9つのホテルの名前が紹介されている。これらは規模が大きなホテルであって、これら以外にも、西湖の周辺には大小のホテルがいっぱいあったはずである。そのようすを、児玉記者は次のように述べる。

これらの豪華なホテル群落が西湖の水を圧して建ちならぶ壮観、そいつはてうど「妾こそ」「アタシこそ」と、美人競争の舞台に立った彼女達が傲然、孔雀のやうに、胸を張る姿にも似てゐた。しかも人っ子一人見えない寂とした夕闇のなかに、死のやうに横はる、この湖畔の風景はまったく異様なものだった。

人っ子一人見えない寂とした夕闇のなかに、ホテル群がたちならぶ状況を、児玉記者は、「「妾こそ」「アタシこそ」と、美人競争の舞台に立った彼女達が傲然、孔雀のやうに、胸を張る姿にも似てゐた。」と評している。たしかに通常ではありえない、異様な風景であった。

次は、気に入った建物を求めて、勢いよく走り回る兵隊たちのようすである

兵隊さんが勢よくアスファルトに兵隊靴の鋲をたたきつけて走った。「おい。あれはどうぢゃ。」 「うん。すこしセマすぎるたい。あっちに行けば、なんぼでもあるたい。」    「こりや、いいぞ。」 「うん。チト貧弱たい。まだまだゼイタクいふな。ウワハッハハハ。」 「アッハッハハ。」 白墨を右手に持った兵隊さんたちが、もう薄暗くなった湖濱路を、右に左に走るのである。

兵隊たちが相互にかわす会話も記されている。彼らのことばは標準語ではない。どこかの地方の方言でしゃべっている。

「朝日新聞。ここはどうですな。」 指さす髯むじやの兵隊さんの笑ひ顔に見あげると、山陽ホテルの五、六倍、室数は二、三百もあらういふ、ものすごい大ホテル。門の壁には白墨の痕もリンリと「○○」と大文字が闇のなかに浮かんでゐた。   「ウワハッハハッハ。」 何となく僕は腹のそこから、をかしさがこみあげてきた。別府の海岸通を白墨片手に物色する自分の姿を、心の中にふと、ふり返って見た。子供の時、お伽話できいた魔法の杖は触るるものすべてを黄金と変じた。いま指先に踊る一塊のチョークはまた魔法の杖ではないか。

『大阪朝日中支版』 昭和13年(1938年)3月26日

『大阪朝日中支版』
昭和13年(1938年)3月26日
全文はこちら(PDFファイル 2ページ 0.9MB)

同行する兵隊が、これにしたら、どうかと勧めてくれたホテルがあった。しかし、それは大阪朝日新聞支局として使うには規模が大きすぎた。また、ホテルの門の壁にすでに、どこかの部隊が白墨で大きく自分たちの部隊名を記し、使用することを明示していた。だから、この大ホテルは使えなかった。あきらめる。
白墨片手に支局に使う建物を物色して歩いている自分たちの姿を見て、児玉記者は思わず子どもの時に聞いたお伽話を思い出す。今、手に持っている白墨で「大阪朝日新聞杭州支局」と大きく記せば、そこが直ちに支局の建物になった。これは、お伽話に出てくる、触れたものすべてが黄金に変わってしまう魔法の杖ではないかと気づく。それに気づいたことで、児玉記者は「腹のそこから、をかしさがこみあげて」くる。自分はまさに魔法の杖に当る白墨を握って、杭州のホテル群の間を歩いているのだと確認する。

「児玉さん。ここにしませう。ここは優秀だぞ。」 高君が嬉しさうに僕を呼んだ。懐中電灯を照らすと、門の上に「杭州西湖、滄州大旅館」の大看板。

通訳、兼助手の高君の勧めで、滄州大旅館に決める。中国語のできる高君が、残留者がいるかいなか調べる。彼は鉄門によじ登り、中に入ってゆこうとする。

支那語の達者な半島生れの高君は、ガッチリ閉められた鉄門ごしに、「ウエーイ、ウエーイ」と怒鳴った。中庭も室もシーンとして物音ひとつしない。 「よし。登らう。」 いきなり彼氏は拳銃を右手に持って、鉄門の柵に足をかけ、登りはじめた。ガチャガチャと、靴の鋲がぶつかって鳴った。

これに対して、残留していた者が出てくる。ホテルの従業員であった。従業員の一部は、危険ではあるが、ホテルを守るために、あえて残留していたのである。

飛び出してきた支那人三人は、五、六間先に止って、ヂッとこちらをうかがってゐる。高君が威厳を持った声で、「朝日新聞だ。門を開けなさい。」といった。すると三人のうちの四十五、六歳、長身の男が、「おお。大阪朝日新聞! おう。おう。いますぐ開けます。」  みるみる顔色を和げ、アトの二人に早口で何かいった。

こちらが大阪朝日新聞だと告げると、ホテルの中に通してくれる。

われわれはこのホテルに入りたいのだが、諸君に異議はないか。」 高君の言葉に三人は恭しく支那風に頭をさげて、「新聞先生。よくいらっしゃいました。どうぞ、どうぞ、このホテルを全部御使用下さい。われわれも一緒に、ぜひ使って下さい。」といふのだ。

次はホテルの従業員との会話である。

「室数は。」 「おう、九十七室。スペシアル・ルームも加へまして。」  高君は、「え。九十七。ウワー、これや、どうも。」  日本語でいって、僕と顔を見合せて笑ってしまった。  「雇人はいま何人ゐるの?」 「全部で十三人をります。願くは、われわれ十三人とも使っていただきたい。」 「よろしい。食糧は保護する。給料も与へる。みな、ここへ呼び給へ。」 さっきの長身の男が「ウエーイ。みんな出てきなさい。」  しーんとした建物の方に大声で呼んだ。

こうして、児玉記者と高君の二人は、滄州大旅館を支局と決める。

二階の最上等のスペシアル・ルーム、窓に鼻をくっつけてのぞくと、ガラスごしに西湖は湧きあがる夜霧のなかに、蒼茫と水面を光らせてゐた。懐中電灯の光に映しだされた紫檀の机、ソファ、天井のシャンデリアがびっくりしたやうにチカチカ光った。階段を「ホウホウホウ」と掛声かけて布団を運ぶ。湯をはこぶ。「滄州大旅館」はいま甦ったやうに賑やかになった。

二人は、二階にあるスペシアル・ルームを支局とする。ボーイ長は王仁水と名のった。王仁水にいう。

安心を不安のなかに包んだやうな顔色で、まだオドオドしながら答へた。無理もない。「おお、王。心配することはない。われわれは新聞記者だ。このホテルに支局を借りるだけだ。みな十三人とも安心してゐたまへ。」  旅館の主人は一ヶ月前に上海に避難して、ボーイ長以下十三人がこのホテルにとぢ籠ってゐたといふのだ。

ホテルの主人は一ヶ月前に上海に避難する。13人の従業員がホテルに残留していた。

五枚重ねの絹布団を頭からすっぽり被ったら、ほのかに香料のにほひが、支那料理の油の香にまざってした。まっ暗闇の中で自分「児先生」の奇妙なシチュエイションを心の中にふり返ってみたら、も一度、をかしくなって笑ってしまった。高君にいはれて、万一の場合といふので、ピストルを一挺、安全装置を外して枕もとにおいた。
深々とした翠帳のなかで、幅六尺はあらう特大ダブルの支那ベッドの上で、ひやっこい支那絹の感触と掛布団の袖のあたりにしみこんでゐる支那料理?のにほひを嗅いでゐるうち、五分間とは経たぬ間に眠りの波に没してしまった。一町ほど向ふで、銃声が五、六発、鳴ったのを聞いたやうに思ったが‥‥

日本軍が杭州市を占領した当日なので、電気は止まっていた。町の電灯はすべて消えていて、あたりは真っ暗やみであった。滄州大旅館の室内もまた、真っ暗であった。12月末なので、杭州でも、夜は相当、冷え込んだ。二人の日本人が突然、ころがりこんで来る。急なことなので、暖房の用意もできなかった。豪華なスペシアル・ルームではあったが、寒かった。それで、「五枚重ねの絹布団を頭からすっぽり被っ」て、寒さを防いだのである。
中国人の従業員は、児玉記者を「児先生」と呼んだ。児玉という姓を省略したものである。児玉記者と高君はマル二ヶ月間、滄州大旅館に滞在した。ということは、この間、児玉記者は、従業員からずっと「児先生」と呼ばれたことになる。児玉記者にとって、「児先生」と呼ばれたことは、印象が強かったようで、記事の見出しに、大きく「お伽噺の富豪 児先生」とわざわざ記している。児先生には「アルシーサン」と、中国語の発音までつけている。

児玉記者が泊まったのはスペシアル・ルームであった。だから、部屋のつくりは豪華を極めていた。ベッドの周囲には「翠帳(緑色のとばり)」がめぐらされていた。彼が使ったベッドは、「幅六尺はあらう特大ダブルの支那ベッド」であった。
こういった豪華な部屋のつくりは、当時の日本内地にも珍しかった。思いがけず、杭州で豪華な宿泊所ができたので、児玉記者は、自分のことを「お伽噺の富豪」とおもしろがって述べている。たしかに富豪でなければ、このような豪華なスペシアル・ルームを利用できなかった。
翌朝、ホテルの室の窓から、まわりを見わたす。 

窓から見わたすと、どのホテルにも日の丸の旗がパタパタとなってゐた。そしてホテルの窓といふ窓は、からり開け放されて、兵隊さんのシャツ、毛布、サルマタがずらり日光浴の満艦飾だ。そして窓には十年も前からそこに住んでゐたやうにすました兵隊さんの顔が煙草を吹かしてゐた。

西湖の周囲に並び建っているホテルには、どこも兵隊がびっしり入っていた。野戦を戦う兵隊は通常、粗末な家屋に宿泊する。ひどい場合は野宿になる。しかし、杭州市では、みなホテルを利用できた。兵隊たちも、珍しいことと喜んだことであろう。

それからマル二ヶ月、忠実なボーイ長・王、コック長・馬岑修ら「十三人の支那人」との西湖畔の生活ほど楽しい思ひ出に溢れた日はなかったやうに思ふ。

結局、児玉記者と高君の二人は、マル二ヶ月間、西湖畔の「滄州大旅館」に滞在した。
その間、従軍記者として、部隊と行動をともにして、山野をかけめぐることはせずにすんだ。13人もの中国人の従業員にかしずかれて、豪華なホテル暮らしを満喫できた。戦場にあっては、たしかに得がたい幸運であった。
この二ヶ月間を、児玉記者は、「「十三人の支那人」との西湖畔の生活ほど楽しい思ひ出に溢れた日はなかったやうに思ふ。」と総括している。よっぽど楽しかったのであろうと推察するしかない。

児玉記者は1937年12月24日のクリスマス・イブの時に杭州にやってくる。マル二ヶ月、そこに滞在したのであるから、翌年の2月末までいたことになる。この記事が出たのは3月25日であるから、杭州市から、まもなく引き揚げ、帰国したことになる。思い出がまだ強烈に残っている間に、この記事を書いたことになる。

<軍部の代理人・宣伝係、占領軍の一員―従軍記者> 
当時、新聞は戦争反対の立場をやめ、軍部に協力した。むしろ、戦争を煽り立てる側にまわった。朝日新聞はその筆頭であった。だから、そのころの人々は朝日新聞を軍部の代理人、宣伝係とみなしていた。
一方、戦争は人々にとって、大きな問題であった。戦争のようすを、現地から伝える従軍記者の報告は歓迎された。だから、各新聞社は多くの従軍記者を戦場に派遣した。軍部は従軍記者を優遇した。今回の記事から、具体的な状況がわかる。
大阪朝日新聞の従軍記者・児玉氏と、その通訳、兼助手の高君はともに拳銃を携帯していた。決して非武装ではなかった。従軍記者は軍人ではないが、武装した。客観的には占領軍の一員であった。中立的な立場に立つ報道者では決してなかった。
児玉記者と助手の高君の二人だけで、室数97もある大きなホテル(滄州大旅館)を占拠し、そこを新聞社の支局とした。また、残留していたホテルの従業員13名を自分たちの仕事のために雇った。彼らに給料を支払い働かせた。二人は、二ヶ月もの間、豪華なスペシアル・ルームに居住し、それこそ「富豪」のような贅沢なホテル暮らしをした。彼らが武装し、また、占領軍の一部だったからこそ、こういった暮らしができたのである。
現代の戦争ならば、ある地域や都市を軍事占領する前に、航空写真を多く撮っておいて、あらかじめ、どの部署・部隊がどこの建物を占拠して使用するかを決めておくことができる。しかし、日中戦争の時、日本軍はそのような措置を取らなかった。その結果、ある地域・都市を占領した直後に、それぞれの部署・部隊が自分の宿泊場所を「早い者勝ち」で見つけることになった。
各部隊の先遣隊は気に入った建物を見つけると、家の門のところに白墨で大きく、自分の部隊名を記した。こうしておけば、あとから来たものは、その建物を使えなかった。白墨がこの時、重要な働きをした。杭州市を占領した時も、このような方式であった。
従軍記者の支局・宿舎を軍があらかじめ押さえ、それを新聞側に提供しなかった。このため、従軍記者もまた、軍の部隊と同様に、自分の住む家屋を、自分で見つけねばならなかった。

<慰安所も「早い者勝ち」>
従軍記者の宿舎のことがわかったので、いささか蛇足になるが、ここから戦場に出かけた売春婦たちの住居のことを類推したい。 」
従軍記者は戦闘部隊の最後尾に追随した。さらに遅れて売春業者と彼らに率いられた売春婦の一団が続いた。通常、民間人は、戦闘部隊に追随して、戦地に入れない。しかし、売春業者・売春婦は例外的に許された。
従軍記者は、占領直後の町で、気に入った家屋を接収して、支局にすることができた。同様な事情が売春業者にもあてはまった。売春業者は、多少の危険は伴うが、戦闘部隊が占拠した町になるべく早く入ろうとする。早く町に入れば入るほど、よい(豪華な)家屋を接収して、売春の場・施設として使うことができたからである。
家賃も当分の間はタダであった。遅れて来れば、そういうことにはならなかった。売春の場・施設は当初、「慰安所」と呼ばれた。民間人として、町に「一番乗り」で入った売春婦は、ここで、さっそく兵隊相手にかせぐことができた。だから、戦場にやってきた売春業者・売春婦の場合にも、「早い者勝ち」というやりかたがあてはまった。

(2011年11月16日・愛知県立大学名誉教授)

新聞記事を読むことができます。(PDFファイル 2ページ 0.9MB)
  http://www.peace-aichi.com/24-5kurahashi11.pdf