◆ 兵隊は運動会が大好き
    ―日中戦争期、日本人町にける軍民合同の運動会           倉橋 正直


 【1】軍民合同の運動会
 【2】石家荘入城記念運動会
 【3】岩田軍医が撮影した写真
 【4】運動会の余波。中国側へ波及
 【5】国防婦人会の運動会
 【6】占領地で、運動会がやれた特殊な事情

アルバムのページ「当日ノ運動会 軍民合同」

「当日ノ運動会 軍民合同」 岩田軍医の写真



 【1】軍民合同の運動会

 日中戦争で、日本軍は中国の領土を広範囲に占領する。およそ100万の日本軍がずっと戦地に駐屯して、占領支配に当った。これと同時に、多くの日本人民間人も占領地にやってきた。彼らは降伏時、49万人にもなった。当時、日本国籍を有していた朝鮮人・台湾人もまた、占領地に移住してきた。彼らを加えれば、中国戦線にいた「日本人」は60万人以上にもなった。彼らは中国の既存の都市の一角に集中して居住した。こういった日本人町が華北を中心にして、約200もあった。

 『大阪朝日新聞』の『北支版』と『中支版』が近年、復刻された【ゆまに書房。ともに1938年から1944年まで】。それを見てゆくと、日本人町で、兵隊が民間人と一緒になって運動会を催している。兵隊だけで運動会をしている事例はない。駐屯地内で開催された陣中運動会であっても、そこには従軍看護婦・「白衣の勇士」と表現される傷病兵・司令部付きのタイピスト嬢などが参加している。

 日本人町で開催される運動会は、文字通り「軍民合同」の運動会になった。日本人小学校の児童、国防婦人会員の女性、一般の在留日本人などが、こぞって参加した。だから、運動会は、兵隊だけでなく、日本人町の住民にとっても、心が浮き立つ最大規模のイベントであり、かつ娯楽の場でもあった。

 永田部隊運動会  天真爛漫の爆笑!
 黄塵止んで絶好の興亜日和の二十五日、永田(直)部隊では“大陸の建設は体力から”と、将兵全員の大運動会を催した。まづ午前九時、永田部隊長以下全員が同部隊の広場に整列して宮城遥拝後、競技の幕は切られて、日ごろは固苦しい将校と兵士の間も、この日は一様に童心に還り、四百メートルリレー、パン食競争、ラケット競争や同部隊独特のタイヤ転がし、武装競走などに天真爛漫の爆笑を沸かせた。(中略)
 再び開始となれば、この日の呼び物の総員で源平に分れた綱引、同部隊本部附のタイピスト嬢らが襷、鉢巻も甲斐甲斐しく必死の応援で、勇士達は益々元気旺盛、戦線で鍛へた体力に物をいはせて大奮闘。
 優勝した勇士達へは部隊長から各賞品が授与されて、正午全部番組を終了した。午後は天津三業組合の紅裙部隊‥美しい姐さん達を総動員して舞踊、長唄、義太夫などの慰問演奏で大いに喜ばせ、次で在津小学児童達の独唱、童話劇、舞踊、ピアノ独奏など可憐な唱歌に、勇士達は故郷を偲んで感激し、大喝采の裡に同四時、明朗な一日を終った。
 (『大阪朝日北支版』、1940年5月4日)

 まず天津に駐屯していた永田部隊の運動会である。将兵以外には、「同部隊本部附のタイピスト嬢」が参加していただけのようである。「日ごろは固苦しい将校と兵士の間も、この日は一様に童心に還り、」とある。運動会では、将校と兵士の別をあまり気にせず、一緒になって騒げたといっているが、ちょっと信じられない話である。しかし、多少はそういった状況になったのかもしれない。
 運動会が終わってから、屋内に会場を移し、演芸会になる。「天津三業組合の紅裙部隊‥美しい姐さん達」と「在津小学児童達」の歌や踊りを楽しんだ。したがって、運動会そのものには、民間人は参加していない。見物だけである。運動会が終了したあと、演芸会の会場で民間人と交流している。

 臨汾あげて楽しい一日! 日本小学校第一回運動会
 (中略) 臨汾も、今は居留邦人千八百、日本人小学校の生徒も約九十名となって、去る十五日、○○部隊の広場で第一回の日本人小学校の秋季大運動会が催された。
 絶好の秋晴に恵まれ、現地新秩序の次の担当者、邦人小学生を中心に兵隊さんも居留民も、それに支那の学生達まで参加して、日華親善のなごやかな運動会が展開され、来賓席の○○部隊長や梁道尹まで競技に引っぱり出され、盛会であった。なかでも邦人小学生女子の「兵隊さんよ 有難う」の遊戯や白衣勇士の提灯競走、小学生に兵隊さんと国防婦人を組合せた親子競争など、最も喝采を博し、臨汾挙げて楽しい一日を過した。
 (『大阪朝日北支版』、1940年10月31日)

 臨汾(りんふん)は山西省南部の都市である。鉄道が通っていたので、この地域を占領している日本軍にとって枢要な所であった。臨汾にできた日本人小学校の第一回運動会のようすである。小学校の生徒は約90名であったから、学校の規模はまだ小さい。しかし、小学校の運動会は、臨汾に在住する1800人の日本人にとって、町をあげての一大イベントとなった。 運動会の会場は、駐屯する「○○部隊の広場」、すなわち兵営の一角を借用している。 だから、駐屯軍も参加した。臨汾の町にいる中国人学生や行政官(梁道尹)まで参加した。
 「最も喝采を博し」た出し物の一つに、「邦人小学生女子の「兵隊さんよ 有難う」の遊戯」があった。「兵隊さんよ 有難う」という文句が新聞にしばしば出てくるので、あるいは当時、児童が歌うように作られた戦時童謡の一つだったかもしれない。幼い少女たちが、「兵隊さんよ 有難う」という歌に合わせて、無邪気に遊戯をする。いたいけな少女たちのしぐさをまじかに見た兵隊たちは、日本に残してきたわが子のことを思い出し、思わず涙を流したことであろう。
 「小学生に兵隊さんと国防婦人を組合せた親子競争」もあった。国防婦人、すなわち国防婦人会員である。日本人町に在留する女性は、誰でも国防婦人会に加入できた。日本人町には通常、老齢の女性はやってこない。小学生の母親といえば、まだ若かった。また、日本人町に多く来ていた、兵隊相手に稼ぐ売春婦も国防婦人会員になった。
 「親子競走」で、おそらく兵隊は、小学生の児童を背負い、若い日本人女性と手を組んで懸命に走ったことであろう。軍隊では民間人と容易に接触できなかった。ところが、「軍民合同」の運動会では、おおっぴらに幼い児童や若い女性とつきあうことができた。兵隊たちが運動会を無上の楽しみにしていたわけである。
 記事には4枚の写真がついている。写真のキャプションだけ紹介する。
 ① 運動会全景 ② 親子競争 ③ 白衣勇士の競技 ④ 兵隊さんの綱引

 沸返る蒙都  小川部隊創設記念日
 張家口小川部隊では一日、創設一周年記念日を迎へて喜びに沸いた。この日、午前十時、小川部隊長以下、隊員、収容中の白衣の勇士に在張各部隊長、各機関など軍官民の代表者および国防婦人会員数十名も参列して、厳かな式典を挙行。 (中略) 正午より国防婦人会員の接待により、白衣の勇士達を囲んで、和やかに野外料理に舌鼓を打ち、午後一時より、漸く春立ち初めて陽光燦燦たる営庭に、運動会を開催。運命競走、瓶釣り競争など各種の競技に、病癒え傷も快癒した白衣の勇士達が、昔日の元気をとり戻して快走すれば、来賓も看護婦さんも婦人達も勇敢に飛び出して、勇士慰安の競走を展開して爆笑、哄笑が渦巻いた。
 (『大阪朝日中支版』、1939年4月8日)

 日本は現在の内モンゴルのあたりを占領し、そこに蒙疆政権というカイライ政権を作る。張家口はその首都であった。見出しの「蒙都」とは、そのような意味である。ここに駐留する小川部隊が、創設一周年記念日を祝って運動会を開く。参加者は、部隊の将兵、白衣の勇士(傷病兵)、来賓、看護婦、「国防婦人会員数十名」などであった。白衣の勇士たちが、看護婦や国防婦人会員たちと、運動会を楽しんでいる。

 紫金山下に歓声  南京の海軍記念日
 聖戦下に意義深い海軍記念日を迎へた南京海軍陸戦隊・中川部隊では、この日早朝、記念式を行ったのち、盛大な記念運動会を開催。
 全隊員をはじめ、日本人小学校児童、在留一般邦人、海軍病院の白衣の天使も参加。戦ひを忘れぬ陸戦隊員の勇壮な野仕合や看護兵の担架競走、模擬のクリーク渡渉、可愛い児童のマスゲーム、愉快な自転車遅走競技など、終日、軍民一団となって、その歓声は紫金山下に渦巻いた。
 (『大阪朝日中支版』、1939年5月31日)

 南京に駐留していた海軍陸戦隊が、海軍記念日に運動会を開く。陸戦隊員のほかに、「日本人小学校児童、在留一般邦人、海軍病院の白衣の天使」も参加した。「白衣の天使」とは従軍看護婦のことである。「終日、軍民一団となって」、運動会を楽しんだというのである。記事に写真が1枚ついている。そのキャプションは「白衣の天使も邦人も出場、いとも賑やかに」である。運動会のようすを伝える、よい写真である。

 “電髪ヒッコメ”  白衣勇士と看護婦  九江部隊の運動会
 秋晴れの五日、野戦予備病院折井部隊の白衣勇士慰問秋季運動大会が甘堂湖畔の同部隊運動場で賑やかに開かれた。
 もと支那軍の練兵場であったといはれるこの広場には、日の丸の旗が高々とひるがへり、秋空の下、白衣勇士と看護婦さんも、それに特別参加の九江日本小学校児童らも一しょになって、競技のたびごとにドーッとばかり、腹の底から朗かな笑ひを閘げるのだった。
 白衣勇士と看護婦さん合同の“電髪叩き”競技はこの大会の白眉で、絵に書かれた電髪嬢めざして、盲の選手が“電髪ヒッコメ”とばかり、叩きに出かける光景は、時局色を含んで、まことに珍競技、傷の痛みも忘れた白衣勇士らはすっかり童心にかへって、秋の一日をまったく愉快に楽しんだ。
 (『大阪朝日北支版』、1940年11月21日)

 九江は江西省北部に位置し、長江(揚子江)中流の重要な港湾都市である。そこにある野戦予備病院の折井部隊で運動会が開かれる。白衣の勇士(病院に収容されている傷病兵)、看護婦、九江日本人小学校の児童らが参加した。
 “電髪叩き”競技があった。電髪、すなわちパーマ禁止という、当時の世相を取り入れたゲームである。白衣の勇士と看護婦が組んで、「“電髪ヒッコメ”とばかり、叩きに出かけ」た。こんなゲームに打ち興じることで、白衣の勇士たちは、傷の痛みも忘れ、すっかり童心にかえったというわけである。
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 【2】石家荘入城記念運動会

 これまで『大阪朝日新聞』の『北支版』と『中支版』に掲載された運動会に関する史料を紹介してきた。新聞記事ということで、いずれも簡単な記述に限られ、運動会のようすを詳しく知ることはできなかった。雑誌に、運動会を取り上げている文章をたまたま見つけたので、次にそれを紹介する。長いので、いくつかに分けて掲載する。

石家荘入城記念運動会
 十一日は朝から薄曇りの運動会日和であった。高野山前の広場には、早くも幔幕が張られ、トラックもフヰールドもすっかり準備が出来上がった。傷病兵席の稍々斜後方に救護所、救護所から約卅米突離れた西側に、四本柱の香も新しく、立派な土俵が設けられた。
 私は診療班員の救護所勤務を午前と午後に二分し、非番のものには随意休養又は見物するやうに申渡した。

 石家荘は河北省の重要な都市である。ここから、山西省に向う正太線が伸びていた。
 著者の新垣恒政は軍医ではない。同仁会から派遣された民間の医者であって、石家荘で診療に当った。彼は軍人ではないので、石家荘で行われた運動会のようすを比較的詳しく伝えてくれる。運動会は1938年10月11日に開催された。
 「高野山前の広場」とある。駐屯地の近くにある小山を、日本側が「高野山」と呼んだのであろう。会場は、運動会を催すトラック・フィールドと、相撲をとる土俵の二つがあった。著者は医者なので、救護所に待機して運動会の様子を眺めた。

さて石家荘開闢以来の日華合同大運動会の事とて、市内は勿論、市外からも会場目ざして押し寄せた群衆の夥しさ、開会前すでに三万と算せられたが、時の移るに連れて続々と殖え、竟に五万を突破したとの事であった。 

 日華合同大運動会という名目で開催されたので、兵隊や在留日本人だけでなく、石家荘および周辺に在住する中国人も多く見物に来る。見物に押し寄せた中国人の数を、著者は、「開会前すでに三万」、その後、「竟(つい)に五万人を突破した」と報告している。
 集まってきた中国人見物客の多さに驚く。3万人とか5万人という人数に圧倒されてしまう。まず、運動会が挙行された「高野山前の広場」が相当広くなければならない。5万人もの大観衆が集まれるほどの広さがあったということであろう。
 また、中国人の物見高さも相当なものである。当時の中国人は娯楽に飢えていたので、たとえ敵国の兵隊が催す運動会であっても、それがおもしろそうなものだと知って、あえて見物に押し寄せてきたのであろう。

 運動会は特務機関長○○少佐の挨拶で開始されたが、この美しい親善風景を、ほんの一目でもよい、蒋介石に見せてやりたい心地がした。

 運動会は特務機関によって用意された。「蒋介石に見せてやりたい心地がした。」と著者は記しているように、日中戦争の中国側のトップ・リーダーは蒋介石であった。

運動会場では、元気一杯の兵隊、お河童の姑娘、さては無邪気な小学生等々が、皆溌剌と飛んだり、跳ねたり、走ったりした。 

 運動会には、兵隊のほかに、中国人の女学生や、日本人小学校の児童が参加しており、ともに「溌剌と飛んだり、跳ねたり、走ったりした。」

 「処で当日の呼物は、何と云っても各部隊の対抗リレーであった。やがて選手がスタートにつくと、あっちの部隊でも、こっちの部隊でも、応援の拍手が嵐のやうに起り、息づまる程の興奮が場内を制圧した。
 特に目立つ応援団長二人、見事な仮装に「日の丸」の扇子、身のこなしも鮮やかに、大勢の兵隊さん達をリードしてゐる光景は、丸で神宮外苑の野球場そっくりであった。従ってこの一角丈けを見てゐると、自分が石家荘に居る事さへも忘却するかに思はれた。かうして石家荘、東京間の距離を心理的に縮めて仕舞ふ程、アット・ホームな運動会であった。
 スタートは切られた。「部隊の名誉にかけて」と疾走する各選手の顔、顔、顔。バトンを受けてゴールへゴールへと突進する選手、それを見送ってほっとする選手、「頑張れ頑張れ」と声の限りに応援する戦友、其処には、凡そ戦場とは縁遠いユーモア丈けがあった。 

 運動会では各部隊の対抗リレーが最も人気のある競技であった。応援合戦で、会場は最高に盛り上がった。応援団長が派手なしぐさで、多くの兵隊をリードして、応援した。

 占拠後一年にして、かくも明朗な絵巻物を見やうとは誰も思はなかったであらう程、余りにも平和であり、余りにも嬉しい現実であった。
 慶祝気分は漸次高調に達し、小学生の旗体操、各部隊の野仕合、民間有志の百足競争と進む頃には、運動場の周囲を取り巻く全観衆の上を、夕日があかあかと流れてゐた。
 かくてプログラムが愈々終りに近づいて来た時、日本人側の仮装行列、支那人側の高脚踊が群衆の歓呼を浴びて現はれ、日華両国の老若男女を笑殺し乍ら、場内を一周した。(後略)
 (新垣恒政(元石家荘診療班長)「北支宣撫行(廿一)」、『日本医事新報』、879号、1939年7月15日)

 石家荘が占領されてから、すでに一年経過していた。「小学生の旗体操、各部隊の野仕合、民間有志の百足競争」など、さまざまな競技が行われた。終了間際には、「日本人側の仮装行列、支那人側の高脚踊」まで登場した。運動会に雲集してきた数万人の中国人も、きっと楽しんだことであろう。
 史料では、このあと、兵隊たちが相撲をとっている「角力場」のようすが述べられているが、それは割愛する。
 石家荘の運動会のことは、新聞にも報道されていた。

 石家荘の大盛会  日華聯合親善運動会
 石家荘における日華聯合親善大運動会は皇軍入城一周年を記念し、去る十一日同市高野山前広場において、盛大に挙行され、日華市民一同の渾然たる和気藹々裡に午後四時、大成功裡に終了したが、当日の競技の呼物たる軍民合同マラソン競走は満場の熱狂裡に終了したが、(後略)
 (『大阪朝日北支版』、1938年10月15日)

 新聞のほうは簡単な紹介である。雑誌の文には軍民合同マラソン競走のことは出てこない。マラソン競技まで行われたというのであるから、運動会の規模は大きかったのであろう。
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 【3】岩田軍医が撮影した写真

岩田軍医撮影の写真

岩田軍医撮影の写真

 運動会の写真は、新聞に数多く掲載されている。しかし、新聞掲載の写真はみな小さく、また不鮮明である。そこで、岩田錠一軍医が撮影した写真を紹介する。彼はレントゲン技師であったので、撮った写真を自分で現像できた。彼は1938年7月から1941年1月まで、約2年半、中国に出征した。主に江西省九江市の病院に勤務したので、残された写真の大半は九江市で撮影したものである。
 「当日ノ運動会  軍民合同」という説明がある。その前のページに「慰安会」という説明があるので、当日とは慰安会の行われた日のことであろう。運動会の行われた期日はわからない。岩田軍医が中国に滞在していた2年半の間であるしかいえない。6枚写真があるが、同じものが2枚あるので、合計5枚になる。
 8人ほどの小学生が日の丸の旗を持って遊戯している。真ん中に立っている若い女性は小学校の教員であろう。また、別の写真では、丸い輪が両端についたものを、大人と子どもが運んでいる。なにかゲームをしているのであろう。同じものが2枚ある写真では、2列になって走る番を待っている。子ども、兵隊、それに5、6名の白い割烹着を着た女性がいる。みな楽しそうに、競技に打ち興じている。
 高い所から見下ろして撮影した写真がある。運動会の全景がわかる。周囲が荒涼としているので、おそらく兵営の中にある広場であろう。多くの兵隊がいる。ほかに白衣を着た傷病兵、看護婦、子どもなどもいる。中国人の見物客はいない。
 見物したり、参加しているものの大半は兵隊である。兵営の中で行われていることもあって、運動会といっても、にぎやかさに欠ける。むしろ、さびしい印象さえ受ける。このような運動会であっても、参加する兵隊たちにとっては、この上ない楽しみとなった。
 従軍記者を除けば、占領地で行われた運動会のようすを撮影することは難しかった。 その意味で、この写真は貴重である。このように、占領地で運動会は行われたのである。
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 【4】運動会の余波。中国側へ波及

 居留民婦人と中国女児、仲良く  臨汾城外で運動会
 日支親善の薫りも高く、山西省晋南各県の学童選抜大運動会が、二十五日、臨汾城外尭帝廟広場で、盛大に行はれた。出場選手は臨汾、霊石、霍、趙城、洪同、襄陵、曲沃各県の選抜児童や青訓生ら合計五百余名で、会場は日の丸と五色旗で賑やかに飾られ、午前十時の開始前から、各県民が多数、応援かたがた見物に押しかけ大盛況、競技の進行や審判、記録係にはわが勇士達が参加、一方、賞品としてタオル、洗面器、キャラメル、鉛筆、紙などが駐屯皇軍から寄贈され、可愛い選手達を喜ばしてゐたが、 この日、目立った競技種目は、わが居留民の婦人達と支那女児の手をつなぎ合った日華母子競走、兵隊さんにおぶさった男児の競走や、臨汾城内小学校の男児六十名のラヂオ体操や、同女児三十名の見事な団体体操などで、いづれも新生支那第二国民の溌剌たる息吹が窺われた。
 (『大阪朝日中支版』、1939年6月2日)

 山西省南部のいくつかの県から、児童や青年訓練生500余名を臨汾城外の会場に招き、運動会を開く。「競技の進行や審判、記録係にはわが勇士達が参加、」とあるから、日本軍の兵隊が運動会の運営を担当した。
 「賞品としてタオル、洗面器、キャラメル、鉛筆、紙などが」、参加した中国人児童らにわたされた。現在から見れば、これらの賞品はいずれも取るに足りない粗品になるが、しかし、当時の中国人児童にとっては貴重品であった。彼らはおおいに喜んで、それらの賞品を、宝物のように受け取ったことであろう。
 この運動会はいわば日本軍の宣撫工作の一環であった。児童や青年を集めて、運動会を催すことで、占領軍に対し好感を持ってもらおうとしたのである。

 次は、中国軍の対応である。

 窮余の一策  運動会で民衆を釣る  山西軍の珍案  強制募兵
 (中略) 最近、山西軍は窮余の一策として、運動会を開催。これは日本軍が占領地区で支那民衆を中心として運動会などを開いて、好成績をあげてゐるので、敵もこれを真似て、先月下旬、第六十一軍の根拠地、山西省西南大寧南方四キロ桑●村で、人民兵士慰安ならびに戦捷祝賀運動会と銘打って開催した。
 出席者には全部賞品を出すと触れ廻ってゐるので、近郷各村から老若男女一万余が繰出し、第六十一軍長・陳長捷は閻錫山代理として演壇に立ち「わが軍のために、いまや日本軍は山西各所に潰走してゐる。諸子はこの運動会で大いに英気を養って貰ひたい」と勝手な駄法螺を吹き、民衆を喜ばして、終日、盛況を極めたが、いよいよ終るや、観衆の中から十二、三歳以上、四十歳くらゐまでの男子を片っ端から引抜き、兵隊にしてしまった。 (後略)
 (『大阪朝日中支版』、1939年7月20日)

 次は、捕虜になった中国兵に運動会をさせたという話である。

 捕虜更生道場でなさけの運動会  【徐州特信】
 春は皇軍の手でひたすら更生の道を進むかつての抗日支那兵○○の捕虜更生道場“特別工人訓練所”にもめぐり来て、新政府の誕生を寿ぐ喜びが頒たれ陽春和む十日、皇軍情けの大運動会が訓練所の運動場で開催された。
 何がさて鉄砲の射ち方も知らぬのを強制徴兵され、戦線では皇軍に追ひまくられ、さんざん苦労のあげくに捕はれた連中とて、運動会なんて生れて初めて、従って珍無類の競技が続出、後に走ったり、前に進んでは後の者を手招いたり、応援の皇軍勇士も抱腹絶倒、賞品を手にして嬉々としてよろこび合ふ入賞者の姿もほほえましく。
 かくて午前十時から午後五時まで、爆笑また爆笑の一日を過したが、閉会後、所長の発声で万歳三唱、捕虜達は日華両国国旗を振り振り、“愛国行進曲”を高唱、宿舎に引きあげた。
 (『大阪朝日北支版』、1940年4月18日)

 【徐州特信】とあるので、徐州の近くにあった捕虜収容所で開催された運動会のようすである。日本軍の兵隊は運動会が大好きであった。大いに気に入っていた。自分たちが運動会に参加して楽しいならば、捕虜収容所に収容されている中国兵も同じであろうと考えた。そこで、収容所で運動会が開催された。捕虜たちには運動会の経験がなく、大いにとまどったことであろう。

捕虜たちに運動会をやらせる史料を、もう一つ紹介する。

 一粒の種も大切に  東亜新建設の理想  北支労工教習所の努力
 【保定にて矢島特派員発】 (中略) 本年四月、労工教習所といふ名前で○○に開設された俘虜訓練所は、現在までの収容累積千二百人、そのうち千人余はすでに出所して、適材適所に北支の各方面に活躍してゐる。(中略) この労工教習所は北支の俘虜収容所の中でも、一番整備してをり、最近はその好成績を聞き伝へて、視察者が踵を接して来訪してゐる。
 ○○労工教習所を今日までにした専任教官・石原重信少尉(兵庫県龍野町出身)は語る。入所するのは第八路軍、地方雑軍、土匪などで、正規軍は比較的少い。だから何よりもまづ、彼らに鉄砲の味を忘れさすことに苦心する。月一、二回、運動会などをやるのはこのためだ。しかし先輩がゐるので、すぐ教習所生活に慣れる。彼らが兵隊になった動機は単純だから、こちらが親切にすれば、殆んど全部転向する。永く入所してゐた者が出所するときは、お互ひに淋しい気持がする。これが人情だらうが、彼らの大半は労工移民に出たあとからも、手紙を寄越して、「一生懸命働いて、もう金が幾ら溜った」と報告してくる。(後略)
 (『大阪朝日中支版』、1939年10月8日)

 河北省保定付近に設けられた北支労工教習所のようすを伝えてくれる。ここでは中国兵の捕虜を収容し、短期間、訓練して出所させていた。この教習所の責任者は、収容者に「鉄砲の味を忘れさ」せるために、「月一、二回、運動会などをやる」と述べていて、興味深い。運動会で爽快な汗をかくことで、果たして捕虜たちは戦場のことを忘れられたのであろうか。捕虜になった中国兵を収容した捕虜収容所に関する史料は少ない。この記事から、捕虜収容所のようすの一端がわかり、貴重である。
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 【5】国防婦人会の運動会

 これまで運動会と中国側の関係に関する史料を紹介してきた。次は、日本人町に多くやってきた日本人女性と運動会のことである。

 傷の痛みも忘れて打興ず  安慶で勇士慰安運動会
 郷土出身の白衣の勇士慰安のため、増井部隊の肝煎りで、十八日、岡本部隊広場で盛大な運動会が催された。出場者はいづれも在安慶国防婦人会のきれいどころばかり百名―――襷にエプロン姿もりりしく、提灯競走や二人三脚、座頭レースなど、つぎつぎ繰展げ、担架患者の後送レースなどには、白衣の天使に劣らぬ大和撫子の気性を発揮して、手際よくやってのけ、本職の岡本部隊看護兵さんたちも、“ちゃっかりしとる”と賞賛してゐた。
 お髭生やした傷病兵も、パン食ひ競走の滑稽さには、傷の痛みも忘れはてて、爆笑哄笑がひとときつづいた。
 (『大阪朝日中支版』、1939年6月28日) 
 写真1枚。キャプションは「国防婦人のパン食ひ競争」 

 安慶は安徽省に属し、長江(揚子江)に面した大きな都市である。ここで、白衣の勇士、すなわち傷病兵を慰問するために運動会が開かれた。出場者が「国防婦人会のきれいどころばかり百名」というのが変わっている。国防婦人会には、日本人女性ならば、誰でも加入できた。売春婦でも別にかまわなかった。実際、中国戦線の日本人町では、国防婦人会員の多くは売春婦であった。
 「きれいどころ」という表現から、彼女たちの多くが兵隊を相手とする売春婦であったと推察される。そういった女性たちをわざと駆りだして、運動会に出場させる。その目的は、彼女たちの気分転換や健康増進のためでは決してなかった。ずばりいって、彼女たちの「おひろめ」であった。
 運動会は客寄せのための興行として開催された。兵隊や在留日本人たちに彼女たちを売り込んだのである。運動会で元気に走り回る彼女たちを、お客である安慶周辺に駐屯する兵隊や在留日本人たちに見せる。運動会を通じて、どのような女性が来ているか、白昼、堂々と紹介したのである。したがって、この運動会の主役は年若い女性たちであった。 
 100名の売春婦が打ちそろって、運動会を行うことは難しかった。しかし、彼女たちは他方で国防婦人会員でもあった。国防婦人会員として、傷病兵を慰問するために運動会を開くといわれれば、彼女たちの企画に反対することは難しかった。
 「襷(たすき)にエプロン姿もりりしく、」とある。国防婦人会員の服装はほぼ決まっていた。和服を着る。その上に白いエプロンをはおる。エプロンというが、現在の感覚では割烹着である。さらに、国防婦人会と記した「たすき」をつけた。和服・割烹着・タスキが国防婦人会員の服装の、いわば三点セットであって、国防婦人会の会合には、どこへでもこのような服装で出かけた。彼女たちは和服・割烹着姿で運動会にも参加した。この服装では、走ったりするのに不便だったはずである。

次は天津の場合である。

 五月の薫風を受けて、天津の女給さん連、一日運動会を挙行。
 かう跳ねたり、をどったりするのは結構だ。が夢、「あなたのあたしより」なんて甘い手紙で、「営業停止十日間」を釣らぬこと(天津)
 〔大陸録音〕欄、(『大阪朝日中支版』、1939年5月19日) 

 〔大陸録音〕は、『大阪朝日北支版』と『同中支版』のコラム欄である。だから、短い文章で、各地域のニュースを伝えてくれる。ここでは、天津の「女給さん連」が運動会を行ったと報じている。当時、女給は、芸妓、酌婦とともに、売春婦の一つのタイプであった。この運動会の目的も、前掲の史料と同様に、女給という売春婦の売込みであった。この場合も、「女給さん連」の運動会として行ったのではなく、国防婦人会の運動会として行ったはずである。後者の名目でなければ、許可されなかったからである。

 次は、売春婦がみんな国防婦人会員でもあったことから、国防婦人会の会合ごとに、売春婦が市中に「氾濫」するという状況を指摘している。

 「国防婦人会の会合ごとに、市中に商売女が氾濫。個々女性の真実は有難いが、“日本の女”がみな商売人である様なのは、華人の手前、どうかな。こんなになる前に統制するて、なかったのかと、残念に思ふ。(北京)
 〔大陸録音〕欄、(『大阪朝日中支版』、1939年7月29日)
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 【6】占領地で、運動会がやれた特殊な事情

アルバムのページ 写真4枚

岩田軍医撮影の写真

 占領地で、占領軍の兵隊が運動会を開くなどということは、通常ではありえないことである。ところが、これまで紹介してきたように、日中戦争時、中国戦線で通常、ありえないことが多く行われた。どうして、それが可能になったのかを考えてみたい。
 前述したように、中国戦線に日本人(朝鮮人・台湾人を含む)民間人が多くやってきた。彼らは日本人町を作って暮らした。運動会はこのような日本人町で開かれた。その事情を述べる。――― 兵隊だけで運動会を開いても、つまらない。ひげを生やした男たちだけで、徒競走や棒倒し、綱引きなどのゲームをやっても、おもしろみに欠ける。仲間はいつも見なれた顔であるし、日ごろの教練と変わらないような雰囲気になってしまい、兵隊たちにとって、およそ気晴らしや娯楽にはならない。

 兵隊以外の別の人たちが一緒にゲームに参加したり、見物してくれることが望まれた。軍隊内部では、看護婦・傷病兵などが参加してくれれば、うれしい。また、日本人町に在留している日本人小学校の小学生、国防婦人会の若い女性、一般の在留日本人が参加してくれれば、兵隊たちの演じる運動会は俄然、盛り上がる。さらに、周辺の中国人まで、大挙して見物に来てくれれば、運動会は熱気に包まれる。
 このように、兵隊以外の人たちの参加や見物を考慮すれば、運動会の開催できる場所は、おのずから在留日本人が集中して住んでいる日本人町に限られた。したがって、兵隊が参加する運動会は日本人町で開かれた。要するに、中国戦線に日本人町が存在したからこそ、兵隊は運動会を開けたのである。
 それを別のことばで表現すれば、「軍民合同」の運動会であった。「軍」=兵隊だけではなく、「民」=在留日本人や場合によっては周辺に住む中国人まで、一緒になって行う運動会であった。

 日本人町に暮らす在留日本人にとっても、兵隊と一緒に行う運動会は大きな楽しみとなった。占領地にある日本人町では当然、娯楽は少なかった。だから、彼らは運動会を日本人町全体のイベントと見なし、こぞって参加した。

 次は時期である。『大阪朝日北支版』と『同中支版』によれば、運動会の記事は1938年10月に初めて現れる。39年と40年には、運動会の記事が多く出てくる。しかし、1941年になると、急に減る。わずか3件しか出てこない。11月の記事が最後である。太平洋戦争が始まってからは、運動会の記事は全くなくなる。運動会は中国戦線の戦局が優勢の時に限って行われたことになる。
 大規模な運動会の場合、周辺に居住する中国人まで見物に押しかけた。多くの中国人が集まってくることは、「治安」を乱す恐れがあった。しかし、中国側のゲリラ部隊が運動会の会場を襲撃してきたという類の記事は一件もない。ゲリラの攻撃が予想されるような場所と時期には、運動会を開かなかったということであろう。
 また、運動会は屋外で行われる。だから、冬季や炎天下では行われない。気候のよい春と秋にだけ行われた。

戦局との関係をもう一度、考える。――― 戦争が始まったばかりの時期には運動会は開かれていない。兵隊たちは進軍につぐ、進軍で追い回されていた。駐屯地でゆっくり休息するような余裕はなかった。だから、開戦後、1年数ヶ月という期間には、運動会をやれるような条件はなかった。
 1938年末になって、ようやく戦局が落ち着いてくる。日本軍は持続的な占領体制に入る。こういう状況になったことで、治安状況のよい所では運動会が行われる。39年と40年、日本軍の優勢が続く。中国軍の降服はもう間近という楽観的な見方が広がる。日中戦争は、もう勝ったも同然だという思いに日本側はとらわれてゆく。こういった有利な戦局の中で、運動会が多く行われた。

 しかし、実際の戦争は、日本側の楽観論のようには進まなかった。中国側は長期持久戦の戦略をとる。後退戦を戦いながら、日本軍を内陸、奥深くまで誘い込む。日本軍は、表面的な優勢にもかかわらず、戦争の終結を展望できない状況に追い込まれてゆく。
 こういった状況になると、もう運動会を開いて楽しむという余裕はなくなる。こうして、1941年に入ると運動会の件数は激減する。さらに太平洋戦争が始まると、もう運動会を開くような状況ではなくなる。
 このように日中戦争の推移を見てゆくと、運動会が開けたのは戦争の特定の時期に限られていたことがわかる。結局、戦局が有利に展開していた時期に限って、運動会は行なわれたのであった。占領地で、兵隊が運動会を開いて楽しむなどは、しょせん、一時のアダ花にすぎず、カゲロウ(蜉蝣)のように、はかないものであった。
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 (2011年12月17日、愛知県立大学名誉教授)