観音寺の興亜観音      愛知県立大学名誉教授 倉橋 正直                             



【1】新聞記事の紹介
 私は『朝日新聞外地版』復刻版(ゆまに書房)を見ていた。偶然、「興亜観音竣工す」という記事を見つけた。はじめに、その記事を紹介する。



 「興亜観音竣工す  愛知県碧海郡明治村字根崎観音寺由良住職は戦没将士の冥福を祈るべくさきに松井石根大将が現地から持ちかへった尊い皇軍将士の血潮に染った土の分与をうけて丈余の興亜観音を建立の誓願をたて近く盛大なる竣工式と供養を執行する」(『大阪朝日北支版』、1940年5月25日)



【2】観音寺を訪ねる
 2011年5月15日、愛知県安城市に観音寺を訪ねた。住職にお会いして、新聞のコピーをお見せした。新聞で報道されている興亜観音があるかいなか、おたずねした。あるとのことなので、さっそく見せてもらった。
 観音寺は保育園を経営しているが、小さい寺院である。宗派は浄土宗である。本堂には阿弥陀如来が祀られていた。別室があり、そこに、大小二体の観音像が祀られていた。中央に30センチぐらいの小さな観音像があった。住職の説明によれば、昔、この観音像が近くの川辺に流れ着く。それを拾い上げて、お寺に持ってきて安置した。その観音像にちなんで、お寺の名前も観音寺と名づけられたという。だから、この小さな観音像が、このお寺のいわば「本尊」である。しかし、いかにも小さいし、また少し高い所に安置されているので、お参りに来た信者には、観音像の様子はよくわからない。
 そんなこともあって、もっと大きな観音像を作ることになったのであろう。大きな観音像が右側に置かれていた。台座を含め、およそ150センチの高さの木造の観音像である。なかなかよくできた観音さまである。
 観音像はたしかにあった。しかし、像には、何の説明もなかった。観音像が安置されている厨子には一切、装飾はなかった。ただ、金色に塗られた板をバックにして、黒っぽい観音像がひっそり立っているだけである。そのため、あっさりしているという印象を受けた。これが、新聞で報道された、いわゆる「興亜観音」の現在の状況である。
 新聞記事にある「由良住職」とは、案内してくれた現住職の父ということであった。70年前の新聞記事であるから、父親はすでになくなっている。
 現住職は、なくなった父親から、この観音像について、なにも説明を受けていないとのことであった。記事に掲載された住所が正確なので、新聞記事がこの観音寺のことを伝えていることはまちがいない。文書類も、なにも残っていないとのことであった。要するに、私が持参した『大阪朝日北支版』の記事で、現住職ははじめて、この観音像の由来を知ったというのである。
 三河地震(1945年1月)により、お寺は多少、損傷を受けた。また、これとは別にお寺は火事にもあっているとのことである。観音像の木肌は黒っぽくなっている。これも火事の影響かもしれない。近年、観音像の台座だけは修復したとのことである。たしかに台座の部分だけは色合いが違っていた。緑色があざやかであった。
 父親は、なぜ観音像から興亜観音という名前をはずしてしまったのか。なぜ興亜観音の由来に関する文書類を残さなかったのか。また、息子の現住職に興亜観音の由来を口頭でも伝えておかなかったのか。―――数々の疑問がわいてきた。そこで、この問題を考えてみたい。


【3】松井石根大将と興亜観音
 松井石根(まつい・いわね 1878~1948)は愛知県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。日露戦争に従軍。1933年10月、陸軍大将に昇進。1935年8月、予備役に編入。1937年7月、日中戦争の開始。1937年8月15日、召集。軍務に復帰。上海派遣軍司令官(1937年8月15日~1937年12月1日まで)。1937年10月30日~1938年3月5日まで、中支那方面軍司令官。
 上海戦を戦う。さらに、1937年12月、首都・南京を攻略。いわゆる南京大虐殺を起こす。南京大虐殺は、欧米各国に広く知られた。日本軍の蛮行は、世界的な非難を浴びることになった。しかし、南京大虐殺のことは、当時、日本国民には知らされなかった。そのこともあって、松井石根大将は上海・南京戦を勝利に導いた総司令官として、大きな人気を得た。 
 南京陥落後、松井はたちまち国民的英雄になった。日露戦争の時の乃木大将や東郷元帥に比肩するような人気を得た。人々は、偉大な軍司令官・松井石根を称えた。彼に揮毫を頼む人も多かった。私も以前、愛知県のある神社に行った時、石で作った鳥居の片方の柱に、松井石根の名前が大きく彫り込んであるのに気がついた。このように、松井石根は郷土の英雄として、愛知県内ではとりわけ人気が高かった。
 しかし、松井の胸中は複雑であった。世界中に喧伝された南京大虐殺の責任者であるという自覚があったからである。世間的には大きな成功をおさめたにもかかわらず、彼はどこか負い目を感じてしまう。おそらく、そのことが背景にあって、その後、大きな勲功をあげた高級軍人としては珍しい行動をとる。
 1938年3月、帰国。熱海市伊豆山に住む。住まいの近くに観音像の建立を企図する。愛知県常滑の陶工・柴山清風に観音像を製作させる。松井は、激戦地となった上海近郊の大場鎮(だいじょうちん)や南京地域の「戦場の土」を取り寄せる。この「戦場の土」を混ぜて陶製の観音像を作らせた。
 柴山清風は1939年12月に焼成して、高さ3.3メートルの興亜観音像を完成させた。松井は、1939年3月と11月に、常滑の柴山清風の陶房に来ている。興亜観音の製作過程を見に来たのであろう。名古屋に育った松井にとって、同じ愛知県に属する常滑に出向くことはたやすいことであった。
 完成した観音像は「興亜観音」と名づけられた。1938年、「興亜院」という中央官庁が設置されたように、「興亜」は当時の流行語であった。「興亜」は、「アジア諸国を興隆させる」という意味であるが、言外に「日本を盟主として」、あるいは「日本の指導によって」という意向があった。だから、日本の指導によって、アジア諸国を興隆させるという意味であった。「興亜」の旗印、スローガンの下に、日中戦争や太平洋戦争は戦われた。  
 1940年2月24日、「興亜観音」の開眼式が盛大に行われた。興亜観音は屋外に安置され、顔は南京の方角を向いていた。松井は、興亜観音像の近くに庵を建てて住み、毎朝、観音経をあげていた。勲功をあげた高級将校が引退後、このような生活を送るのは稀有なことである。松井の気持ちを推し量ることは難しいが、やはり、南京大虐殺のことが影響していたと考えるべきであろう。日本が降伏した場合、南京大虐殺の責任者として、松井がその監督責任を問われることは十分、予想できたからである。
 敗戦後、松井は戦犯として裁かれる。7人のA級戦犯の一人として、1948年12月23日、死刑となった。やはり南京大虐殺の責任を問われたのであった。ちなみに、松井が建設した興亜観音像は、現在もなお熱海市伊豆山にある。


【4】興亜観音と名づける
 観音寺の住職が新たに観音像を作る準備をしている時に、ちょうど松井大将が興亜観音を建立する話が伝えられる。松井大将は当時、最も有名な軍人であった。戦地から将兵の血に染まった土を取り寄せ、観音像を作ろうという彼の企画は、軍国の世相に適合していたから、新聞などで大きく取り上げられたことであろう。
 前述したように興亜観音像は愛知県常滑で、柴山清風という陶工によって作られた。観音寺がある所(現在の住所表示では、安城市の南部)は常滑からそれほど離れていない。由良住職は、何かのつてで、松井大将が興亜観音作成のために、常滑に何回か来たことを知っていたかもしれない。
 このような事情があって、由良住職は松井大将のところに手紙を書く。すなわち、大将が戦没将兵の霊を慰めるために、興亜観音を建立しようとしているのを新聞の報道で知った。尊い志に感服する。自分の寺でも、今回、観音像を新造しようとしている。ついては、大将が戦地から取り寄せた、尊い「将兵の血に染まった土」がまだ残っているならば、その一部を分けてもらえないだろうか。その土を観音像の体内に収め、なくなった将兵の霊を慰めたい。名前も興亜観音とつけたいという内容の手紙を送ったのではなかろうか。
 松井大将はこれに応え、残っていた「土」の一部を、喜んで観音寺に送る。松井大将の興亜観音の開眼式は1940年2月であった。それから間もなくの同年5月末か6月に、観音寺の興亜観音も竣工した。
 このような経過で、観音寺の観音像は「興亜観音」という名前で誕生した。松井大将から譲られた尊い「土」を収めて新造された観音様ということで、当時は有名になったのではなかろうか。近在の評判になり、多くの人々がお参りに来たことであろう。由良住職の措置は時流に迎合するものであったから、大きな成功を収めた。これはまだ日中戦争が戦われていた時代(1940年)のことであった。

  

【5】戦後の方針転換
 その後、時代はめまぐるしく動いてゆく。1941年、太平洋戦争が始まる。1945年には日本は降伏する。かつて威風が世をおおっていた松井大将は、一転して戦争犯罪人とされ、裁判にかけられる。南京大虐殺のことも、敗戦後、初めて日本国民に知らされる。松井石根は明らかに南京大虐殺の総責任者であったから、処罰は免れないと考えられた。松井の人気は地に落ちる。
 この段階に至って、由良住職は反省する。1940年に観音像を新造した時、興亜観音と名づけ、松井石根大将から「尊い皇軍将士の血潮に染った土の分与をうけて」、観音さまに収めた。当時にあっては、それは妥当であったが、しかし、一面からすれば、たしかに時流に乗ったやりかたであった。今日、日本が降伏し、松井石根が戦犯として死刑になった新しい状況を迎えた。以前のやり方はもう通用しない。改めるべきだ。
 このような反省に立って、お寺の興亜観音に改変を加える。まず、興亜観音という名称をやめる。それまで観音像の近くに麗麗しく掲げられていたであろう「興亜観音」という名札をはずす。こうして、観音寺の観音さまは、「興亜観音」ではなくなり、普通の観音さまに変わる。要するに、もと「興亜観音」となった。
 観音寺の観音像は木造である。松井大将から分けてもらった「戦場から送られた土」を、陶器の場合のように材料の一部として混ぜ合わせて用いることはできない。「興亜観音」と名のる以上、当初は、「土」を小さな袋に入れ、観音像の体内に納めたのであろう。この「土」は現在もそのまま体内に収納されているかもしれない。しかし、「興亜観音」をやめるということで、場合によっては、この時、「土」もいっしょに処分されてしまったかもしれない。詳しい調査をしていないので、「土」の有無はわからない。
 それから、「興亜観音」の誕生のいきさつを記した文書類を一切、廃棄する。実際、現在の住職の話では、この観音さまに関する書き付け・文書の類は一切残っていないとのことであった。以前の住職が意図的に放擲したからこそ、きれいさっぱり整理されてしまったのである。
 さらに、あとをついで住職になった息子に、観音さまが当初、「興亜観音」と称していたことを告げなかった。現住職は口頭でも一切、観音像の由来を知らされていなかった。私が持参した『大阪朝日北支版』の復刻版の記事を見て、彼ははじめて観音さまの由来を知ったことになる。以上のように、前の住職が、戦後、早い時期に「興亜観音」の過去を封印してしまったと、私は推察する。

  

【6】観音像の新たな復活を望む
 観音寺の観音像も歴史の風波にさらされてきた。1940年に「興亜観音」として建立された。前述したように、「興亜」ということばには戦争のにおいがつきまとう。観音さまは、もともと人々を戦(いくさ)の場に駆り立てはしない。救いを求める人々の願いを優しく受けいれる。たけだけしい「興亜観音」という名前は、観音さまに似つかわしくない。
 戦後、「興亜観音」という名前がとれたことで、観音さまは、戦争にまつわる状況から抜け出し、本来のやさしさをとりもどす。
 観音寺の観音さまは慈愛に富んだ顔立ちをされ、見る人を魅了してやまない。魅力的な仏像である。観音像の由来が明らかになることで、この観音像に対する人々の興味・関心が深まるとよい。多くの方々のご参拝をお願いするものである。(2011年5月26日)


◆ 観音寺の住所:愛知県安城市根崎町西根64-1