◆日中戦争とタタミ◆「榻榻米」(tatami)
―在留日本人はなぜ、日本式の生活にこだわったのか             倉橋正直



『東亜新報』1941年10月7日夕刊

『東亜新報』1941年10月7日夕刊 畳屋19軒の広告

 1.はじめに
 日中戦争の時、中国戦線に多くの在留日本人がやってきた。彼らは軍人・軍属ではなく、民間人であった。中国(満州国・関東州・台湾および香港を除く。以下、同じ)からの戦後引揚者は、軍人・軍属が104万人、民間人が49万人であった(朝鮮人・台湾人を含まない。厚生省援護局編『引揚げと援護三十年の歩み』、1977 年、690 頁)。
 なお、満州(中国東北地方)からの引揚者は、軍人・軍属が5万人、民間人が122万人。旧ソ連からの引揚者は、軍人・軍属が47万人、民間人が30万人であった。満州に多くの民間人が出かけていたことは常識になっている。しかし、中国に49万人もの民間人が出かけていたことはあまり知られていない。当時、朝鮮人・台湾人も日本人と扱われたので、彼らを加えれば、中国戦線に出かけた民間人は60万人以上にもなった。 
 最終的に60万人以上にふくれあがった在留日本人(朝鮮人・台湾人を含む)はみな都市部に居住した。在留日本人は民間人ではあるが、軍事占領者の一部であったから、防衛上、中国人と雑居できなかった。彼らは既存の中国の都市(華北が多い)の一角に集中して住んだ。こうして、中国の占領地の都市の多くに日本人町が形成された。
 東亜同文会編『第七回新支那年鑑』(1942年8月)は、187の日本人町をあげている。日本人町の規模はさまざまであった。500人以下が6割、500人から3000人が3割、3000人以上が1割であった。3000人以上もいた大規模な日本人町は19あった。このうち、北京と上海が最大で、ともにほぼ10万人の在留日本人がいた。日本人町は、日本軍の軍事力に支えられているだけであって、本質的に危ういものであった。在留日本人はここで不安定な暮らしを続けた。
 日本人は中国に移住してきても、自国の生活習慣を容易に変えようとせず、衣食住すべての面で日本式の生活をそのまま続けようとした。在留日本人はなぜ、日本式の生活にこだわったのであろうか。日本人町の住まいの方面では、畳の導入・使用が最も重要な位置を占めていた。そこで、本稿では、畳を取り上げることで、この問題の究明を図りたい。なお、日中戦争時、60万人以上の民間人(朝鮮人・台湾人を含む)が、なぜ中国戦線にやってきたのかという基本的な問題の解明は、別稿にゆずり、本稿では触れない。

 2.在留日本人は畳を敷いた生活にこだわる

 「日本人相手に商売をするだけならば、これは日本人として、それほど大したことではない。早い話が、内地と同様だと云へるのである。内地より、多少荒ッポイ新開地気分が含まれる程度で、喰ひ物にせよ、衣服類にせよ、別に取りたてて苦心を要しない。(中略)    
 住宅だとて日本風の建築を好むから、畳屋、経師屋、大工、左官に充分な仕事があるであらう。」(高木陸郎編『北支経済案内』、今日の問題社、1939年3月。331頁)

 「住宅だとて日本風の建築を好むから、」という一節が、微妙なところをよく表現している。日本人町にやってきた在留日本人が、日本式の家屋を新築することはほとんどなかった。なぜなら、彼らは軍事占領者の一部であったから、それまで中国人が使っていた家屋を接収するか(ことばはきれいだが、要するに分どりである。)、ひどくやすい家賃を払って借りられたからである。わざわざ高い費用をかけて、家屋を新築する必要はなかった。だから、個人住宅はほとんど新築されなかった。日本人が中国で新築したものといえば、せいぜい小学校や神社などの公共の建物ぐらいに限られた。
 中国人の家屋を自分のものにして住む場合、家屋はそのまま使った。それに一部、変更を加え、日本人が住みやすいように改造するだけであった。日本人は中国に移住してきても、自国の生活習慣を容易に変えようとしなかった。イス・テーブル・ベッドを使う中国人の生活様式になじめず、畳を敷いた日本式の生活に固執した。だから、家の改造は、まず畳を敷くことから始まった。それを「日本風の建築」と表現したのである。「大工、左官に充分な仕事があるであらう。」と述べているが、「大工、左官」が家屋の新築に従事することは少なく、家の一部の改造・修理の仕事がほとんどであった。
 当然のことであるが、中国の家屋は日本の畳を敷くことを前提にして作られてはいなかった。だから、畳を持っていっても、中国の家屋の間取りと合わなかった。高級な料理店の場合、日本情緒を強調するために、部屋いっぱいに畳を敷き詰める必要があった。そのため、畳の一部を切断し、きちんとその部屋全体を畳で覆ったことであろう。畳を切りそろえて、部屋の間取りにきちんと合うようにするのは、畳屋の仕事であった。
 しかし、この方式は多少、めんどうであった。だから、通常の場合は畳を敷けるだけ敷き、敷けない部分はそのまま放置したのではなかろうか。この場合、畳の厚さが5センチぐらいあるので、その部屋は畳と元のゆかの二段になってしまう。しかし、この程度の不完全さはやむをえないものとされ、受忍されたのではなかろうか。

 「青島で“畳ヤーイ” 品不足で二割値上
 各家庭の復興は先づ畳の取替へから、次々に帰還増加する邦人の注文殺到で畳屋さんは昼夜兼行の転手古舞で需要に応じてゐる有様、邦人帰還後、今日まで新規注文と表替が青島市内だけで五万枚、山東鉄道沿線及び済南方面に送ったものが一万枚の多数に上ってゐるが、まだまだ住宅の増加、紡績社宅の改築などによって需要は増加する一方で最近品薄と原料高により表替へも上敷も全部二割値上となった」
 『大阪朝日中支版』、1938年5月15日 〔『朝日新聞外地版』が近年、復刻された。ゆまに書房。1938年から1944年まで。そのうち、「北支版」と「中支版」を利用する。〕

 青島を占領した直後の状況である。「新規注文と表替が青島市内だけで五万枚、山東鉄道沿線及び済南方面に送ったものが一万枚」と、具体的な枚数まで表記されている。

 「石家荘に邦人氾濫、街も日本色一色化、あっちでもこっちでも日本式家屋出現でこのところ畳屋大繁昌」、『大阪朝日北支版』、1938年6月30日、「大陸録音」欄

 「大陸録音」は、各地域に分かれて記されているコラム欄である。各地域の思わぬ本音が出てくる。石家荘では、「あっちでもこっちでも日本式家屋出現でこのところ畳屋大繁昌」と述べている。「日本式家屋」という表現がある。日本家屋を石家荘の町に新築しているのではない。既存の中国人の家屋を接収し、内部を日本式に改造する。その改造の第一歩が畳を敷くことであったから、「このところ畳屋大繁昌」という事態になった。

 「泥とほこりの町ではあるが、支那側の住民に結核患者は案外少いさうだ、しかし居留民には矢張結核が一番多い、同仁会診療班では居留民が畳の生活を持ち込んで支那式のベッド生活をやらないのが一つの原因になってゐはせぬかと見てゐる、郷に入っては郷に従へ、畳やふとんへの執着も断ち切れるなら早く断ち切ることだ。(石家荘)」、『大阪朝日北支版』、1938年10月30日、「大陸録音」欄

 同仁会診療班は中国戦線に出かけて各種の医療に従事していた。彼らは在留日本人に結核患者が多い理由を、畳やふとんの使用に求めている。これは誤解である。中国人に比べ、日本人の肉食の少なさに注目すべきであった。

 「京漢前線の迎春準備 五十円の門松、一枚七円の青畳 餅に豆腐に母国へ郷愁
(中略) 天津、北京を経て送られる青畳倉庫渡しは一枚七円也の相場で順徳にまで運ばれてをり、」、『大阪朝日北支版』、1938年12月28日、石家荘

 石家荘での正月準備のようすである。正月にふさわしい青畳が、一枚七円の相場で、天津、北京を経て、順徳まで運ばれてくるという。

 3.日本人町における畳屋の数

 

開封商工案内

開封商工案内 1942年 開封日本商工会

 畳屋は家族とごく少数の職人を雇うだけの零細企業であった。独立して経営するのは元来、難しかった。だから、在留日本人が500人程度の小さな日本人町の場合、建築業者が、家屋の改造のついでに畳を扱ってしまい、畳屋の出番はなかった。在留日本人が3000人もいるような大きな日本人町の場合、畳屋はやっと独立して経営できた。なぜなら建築会社は、面倒なので、畳のことは専門業者である畳屋にまかせたからである。
 内地の都市の場合、畳屋の数はずっと少ない。家屋の新築や住民の移動などが少なかったから、畳屋の出番も少なかったからである。これに対し、中国戦線の日本人町では、在留日本人がどんどん増えていった。彼らは家屋を取得すると、必ず畳を敷いた。この時、畳屋を煩わせた。だから、日本人町では、内地の町に比べ、畳屋に対する需要はずっと高かった。このため、日本人町では畳屋の数が格段に多かったのである。
 日本内地では、市ごとに『商工案内』が刊行される。業種ごとに区分された、会社・商店などのリストである。多くはその市の商工会議所が刊行している。ところが、まだ戦争を続けている最中の中国戦線に形成された日本人町でも、『商工案内』が刊行された。刊行年は1942年ごろが多い。軍事情勢が有利に展開していたし、また、日本人町を作って、すでに4、5年経過し、経済的にも多少、落ち着いたからかもしれない。
 それにしても、彼らの楽天主義には驚かされる。その楽天主義は一体、どこから来たのであろうか。実際には日本人町の運命は、その先、数年しか残っていなかった。その意味からいっても、中国戦線にできた日本人町はまさに砂上の楼閣であった。にもかかわらず、日本人町は相当長期に存続できると、彼らはきっと夢想していたに違いない。極楽トンボの極みとしか、いいようがない。
 次に中国戦線の日本人町が刊行した『商工案内』の類から、畳屋の状況を探ってゆく。

 【北京】畳屋19軒。(北支事情紹介資料第9輯『北支最近の経済事情』、華北事情案内所編。1940年9月。114頁)

 また、『東亜新報』、1941年10月7日夕刊に、「北京畳店案内」という題で、畳店19軒が連名で広告を出している。『東亜新報』は北京で刊行されていた日本語の新聞である。19軒という数字は、前掲史料と同じである。畳店の具体的な店名もわかる。

【天津】畳屋 6軒。『大阪朝日中支版』、1938年12月28日
【青島】畳屋 9軒。(青島日本商工会議所編『青島商工案内』、1944年9月、61頁〕)
【徐州】畳屋 2軒。 (徐州日本商工会議所編『躍進徐州 附邦人商工案内 昭和十六年版』、1942年3月、127頁)
【開封】畳屋 6軒。(開封日本商工会発行『開封商工案内』、1942年2月、27頁)
【河南省彰徳】畳屋 1軒。(前掲、開封日本商工会発行『開封商工案内』、115頁)
【済南】畳屋 8軒。 (済南日本商工会議所編『済南事情』、1939年6月、248頁)/なお、1940年5月には、畳屋は10軒に増えている。(済南日本商工会議所編『済南事情』、1941年1月、172頁)
【広東】畳屋 3軒(広東日本商工会議所編『広東商工名鑑』、1942年9月、103頁)

『東亜新報』1941年10月7日夕刊

『東亜新報』 1941年10月7日夕刊

 済南の場合、1940年5月、18,244名の日本人(朝鮮人・台湾人を含む)がいた。そこに、10軒の畳屋があった。1.8万人の人口の町に、畳屋が10軒あった。内地の同規模の町と比較すれば、明らかに畳屋の数は多い。内地の町では、これほど多くの畳屋は生きてゆけない。内地の町の場合、それほど急激に人口は増えてゆかないから、畳屋に対する需要は小さかった。済南の在留日本人はどんどん増加している。以前、中国人が住んでいた家屋を入手し、日本人がそこに住むようになる。部屋に畳を敷く。こうして、畳屋に対する需要が増大する。この結果、相対的に多くの畳屋が生活できた。在留日本人の増加に従い、畳屋の数も増えていった。河南省彰徳に小さな日本人町があった。こういった小さな都市の日本人町にも、時に畳屋が存在した。

 4.畳の調達方法  
次は、日本人町で使用される畳がどのように調達されたかである。日本内地から輸入されるものもあれば、また、現地で製造されるものもあった。

「懐しい青畳も 大陸開発をめざして北支に繰出す銃後北支開発部隊は住みなれた内地の青畳の感じが忘れられぬものの如く、このほど来、北支その他より下関市に対し問合せ中であったが、三十一日、畳三万枚製造輸出に関する纏った照会があったので、朗報に接した下関市産業課では、かねての計画に本づく畳製造の共同作業場を長府前田に急設することになり、準備を進める手はずを決めた。」『大阪朝日中支版』、1939年2月3日   

 3万枚もの畳の注文を受けた山口県下関市は、「畳製造の共同作業場を長府前田に急設」して、対応するという。これは輸入の場合である。

 「○○畳製作工場が最近設備された。この夏は青畳に青簾といふ日本情緒が多くなること請合ひ。(石家荘)」、『大阪朝日中支版』、1939年2月28日、「大陸録音」

石家荘では、畳製作工場をつくり、現地で畳を製作した。

 「お正月前 北京の歳末 上 “忙しくて忙しくて”と北京にある五軒の支那人経営の日本畳屋さんが正月を前に大馬力をかけてゐる。職人は腹掛の代りに長い支那服、所作は漫々的だが、支那の藁と同じ香りを持ってゐるし、多少質は悪くても「新しい畳で正月を迎へたい」といふ気持はどこまでも何時までも日本人から抜けない。
 この日本人気質は商売はいやが上に繁昌、「どうしても正月までに」の料理屋の大量注文で畳の値段は六円から七円、更に八円、たうとう十円とセリ上った。
 それでも注文は次からつぎに殺到する。商売上手の職人さんが「謝々」と頭を下げて注文を全部受けてゐるのを、ハタで聞いてゐると、“果して正月に間に合ふのかしら”と、人ごとながら、少々心配になるほどだ。=写真は畳製造にいそがしい支那人=越智特派員撮影」、『大阪朝日北支版』、1939年12月26日

 中国人は日本人の仕事を身近に見て、その技術を自分のものとしてしまう。彼らはそういった才能に富んでいた。仕事熱心で、しかも価格が割安だったから、日本人が経営する手工業のいくつかは、同業の中国人によって駆逐されてしまう。畳の製造の仕事も本来、日本人の仕事である。しかし、中国人はいつしか、この技術を習得してしまう。こうして、北京には、中国人が経営する日本畳屋が5軒もあった。しかも、彼らは大層、繁昌していたという。なお、前章で北京に19軒の畳屋があったという史料を紹介した。この19軒の畳屋はすべて日本人の経営する店であって、中国人経営の5軒は入っていないと、私は推察する。

 5.日本の敗北後、畳は消滅  
 日本の降伏で、中国における日本人と中国人の立場は逆転する。在留日本人は敗戦国の国民として、もとの日本人町から追放され、身一つで日本に送還された。彼らに代わって、中国人が戻ってくる。もとの家に復帰した彼らは、日本人が持ち込んだ畳を部屋から放り出し、イス・テーブル・ベッドを用いた生活様式にもどる。畳は、中国人の住まいの中で早晩、消えてゆく運命であった。イス・テーブル・ベッドを用いた生活と、畳は適合しないのであるから、やむをえないことであった。
 中国人は日中戦争以前から畳のことは知っていた。すなわち、台湾・関東州・満州国および各地に存在した租界に来た日本人は必ず畳を愛用した。だから、これらの地域にいた中国人は早くから畳を知っていた。したがって、日本の畳のことを表す中国語も、早くから存在したかもしれない。しかし、それは地域的なものであるし、また、その用語を使う中国人の数も少なかった。だから、一般化しなかった。辞書に掲載されるほどの頻度で使われなかったということである。
 現在、畳で辞書を引くと、「榻榻米」(tatami)という語が出てくる。「たたみ」という日本語の音訳である。日中戦争の時、畳は量的に最も多く、中国に持ち込まれた。そのことによって、中国人に強い印象を与える。畳はいわば日本軍の軍事占領の一つの象徴と認識される。その結果、「榻榻米」という語が広く中国人の間に知られ、今日では辞書に掲載されるまでになってしまったのではなかろうか。そのように考えると、「たたみ」という日本語を中国語に音訳した「榻榻米」という語は、日中戦争の置き土産の一つと見なせよう。

 6.中国の長期持久戦の戦略  
 在留日本人が日本式の生活様式に固執したのは、中国戦線の軍事状況が大きくかかわっていた。日中戦争は8年間も続いたが、日本軍の優勢はほぼ一貫して保持されていた。華北では、八路軍がゲリラ戦を執拗に展開していた。しかし、八路軍の装備は劣悪であったから、日本軍の被害はおしなべて軽微であった。また、長江以南で、国民政府の正規軍と対峙していた。中国軍の軍事力も、日本軍に比べれば劣っていたから、長期に対峙はしていたが、日本軍が大きな損害をこうむることは少なかった。
 こうした状況から、戦線は大きく動くことはなく、長期にわたってほぼ固定されていた。軍部は、その軍事力を過信し、中国側の抵抗力を低く評価しがちであった。中国を屈服させることは困難だが、しかし、軍事的な優勢はずっと保持できると思っていた。彼らは中国の軍事戦略をあなどった。
 一方、中国は当初から長期持久戦の戦略を採る。彼らは、たとえ当面は連戦連敗を続けても、日本軍を奥地深く誘い込み、長期に戦い抜くことで、日本の軍事力、ひいては国力までも確実に消耗させ、最終的には勝利を勝ち取るという方針を立てていた。
 日本軍の情け容赦のない攻撃にさらされ、中国国民は塗炭の苦しみをなめた。実際、数千万人の人々が戦争の犠牲となった。まさに史上、最大の被害であった。しかし、蒋介石をリーダーとする中国の指導部は断乎としてひるまなかった。国民の生命・財産の甚大な損失に目もくれず、なお抵抗の気概を失わなかった。彼らは、日本軍の侵略に抵抗するために、非情にも自国民を犠牲にして、持久戦を遂行し続けた。持久戦の戦略とは、かくも厳しいものであった。中国国民もまた、このきびしい試練に耐え抜いたことは特筆されねばならない。
 中国の不利な戦局は、決して単なる負け戦(まけいくさ)ではなかった。持久戦の戦略によって、なかば意図的にもたらされた負け戦でもあった。そうである以上、その負け戦は場合によっては、勝ち戦に転じる要素を持っていた。
 こういったことを、日本軍は軽視した。真剣につきつめて検討しなかった。彼らは、南京陥落、漢口陥落と、人々を動員して提灯行列をさせた。情報を制限して、人々をして無邪気に騒ぎ立てさせるだけであった。日中戦争は果てしもなく続いた。戦争は本当に勝っているのか、果たして勝ち戦なのか、人々にまじめに考えさせなかった。日本軍は目先の勝ちいくさに目がくらみ、中国の捨て身の戦略を見抜けなかった。中国の覚悟の深さを理解できなかった。
 軍部が中国の軍事力をあなどっている以上、中国戦線にやってきた民間人もまた、その影響を受けざるを得なかった。彼らはもともと軍事情勢にうとかった。また、軍部が情報を厳重に秘匿し、人々にまともな情報を提供しなかった。そういった状況では、在留日本人が中国の軍事力をあなどるのは当然であった。その結果、彼らは、戦争がまだ続いているのに、中国に定住、あるいは相当長期に居住できると思い込む。こうした思いあがりがあって、彼らは占領地にあっても、日本式の生活様式を強引に持ち込んだのである。
 これに対し、太平洋戦争の時、東南アジアおよび太平洋の島嶼にも、民間人は多く出かけている。しかし、東南アジアからの引揚者は8.5万人であったから、中国戦線と比較するとずっと少ない。
 東南アジアおよび太平洋の島嶼に出かけた在留日本人は、中国戦線のように占領地に日本式の生活様式を持ち込んではいない。むしろ、この方面では控えめに振舞う。気候風土も異なるが、それが主要な条件ではない。軍事情勢の違いが一番の原因であった。太平洋戦争の場合、まず戦争の期間が短い。また、日本軍の優勢は最初の一年間だけで、あとは劣勢が続いた。戦線も固定せず、日本側の占領地域は少しずつ後退していった。
 こういった不安定な占領地では、出かけていった在留日本人も、そこに安定して長く居住できるとは思わなかった。だから、日本式の生活様式を全面的に持ち込むことに躊躇した。このように、中国戦線と、太平洋戦争時の東南アジア・太平洋諸島では軍事情勢が明らかに違っていた。在留日本人が日本式の生活様式を持ち込むかいなかは、こういった軍事情勢の違いから来ていた。
 また、中国戦線の場合、これまでの歴史的な経緯が働いた。日本は、台湾・関東州・朝鮮および満州国と、中国の一部および周辺地域をすでに植民地あるいはそれに準じる形態で支配していた。これらの地域に出かけていった日本人は、日本内地と同じような生活様式を持ち込み、内地とほぼ同じように暮らしていた。また、中国には以前から租界があった。租界は小さな植民地であったから、そこに出かけた日本人もまた、内地と同じような暮らしをしていた。
 こういった歴史的な経緯もたしかに影響した。優勢な軍事情勢とあいまって、中国戦線にやってきた在留日本人は、はっきりした根拠はないが、それでも日本人町は相当長く存続できるものと勝手に推測した。相当長く存続するものならば、前述の植民地や租界の場合と同様に、日本式の生活様式を持ち込み、日本内地とほぼ同じような暮らし方をしてもかまわないだろうと認識したのである。これが、中国戦線にやってきた日本人が日本式の生活様式を日本人町に強引に持ち込んできた理由である。(2011年10月7日)