作文・小池キヨヱ「モルヒネとり」            倉橋正直(愛知県立大学名誉教授)



  坪田譲治編『綴方子供風土記』(実業之日本社、1942年)所収。169~176頁。
 戦前、日本内地でも、ケシ畑があり、大規模に阿片を生産していた。阿片の生産地は和歌山県と大阪府に集中していた。和歌山県の生産額が第一位であった。
 この作文を書いた「小池キヨヱ」さんは、「和歌山県有田郡湯浅高一」、すなわち「有田郡の湯浅国民学校・高等科一年」であった。1941年4月に、それまでの小学校を国民学校に改称した。初等科六年の次が高等科一年になる。だから、現在でいえば、中学一年生である。年齢は13才ぐらいになる。13才の少女が、大人にまじって阿片汁を採取する様子を記した作文である。
 最後の所に、「以上二篇指導  浦久保章三」と付記されているので、浦久保章三という教師がもとの作文に添削を施している。

 

 ケシ栽培では、阿片汁の採取に最も多くの労働力を要した。阿片汁の採取の仕事は、大人の腕力を全く必要としない。むしろ、根気のいる作業である。成人男性がかかわらなくても、非力な女性や子どもでも十分、労働力として間に合った。だから、ケシ栽培は、女性と子どもの働きが大きな割合を占めていた。
 この作文を収録した坪田譲治編『綴方子供風土記』は1942年の刊行であるから、戦争中のできごとを記している。戦争で、男の人手がどんどん不足していった。だから、労働力不足を補うために、子どもの労働力を利用したと思われがちであるが、そうではない。ケシ栽培では、女性と子どもが以前から、阿片汁を採取していた。

 

 5月にケシの花が咲く。花びらが落ちて、10日ぐらいすると、ケシ坊主が大きくなる。いよいよ阿片汁の収穫である。ケシ坊主に小刀でキズをつけると、白い乳液が出てくる。それを集め、乾燥させたものが生阿片(しょうあへん)である。酸化して黒くなっている。これを政府が買い取った。生阿片からモルヒネが取れた。モルヒネは医薬品であり、また、麻薬でもあった。モルヒネからヘロインが取れた。阿片の生産物の中では、モルヒネが基本であった。そこで、「小池キヨヱ」さんがいた有田郡あたりでは、阿片汁の採取のことを「モルヒネとり」と呼んでいたのであろう。
 以前、私は和歌山県で聞き取り調査を行った。それによれば、当時、小学校(国民学校を含む)の高学年になれば、阿片汁の採取の仕事を手伝わされた。ほとんどの子どもが阿片汁の採取の仕事を手伝ったので、和歌山県のケシ栽培が盛んであった地方では、学校が臨時に休みになった。農繁期の臨時休業の一種で、これを、当時、「ケシ休み」といったという。

 「小池キヨヱ」さんは、「学校は今日から一週間一せいに休となり、上級生の子供達はみんなそれぞれモルヒネとりに行きます。」と記している。「ケシ休み」は、「五月の終りちかく」にあった。一週間、連続して休校になり、上級生が阿片汁の採取の仕事に参加した。低学年の児童はまだ働けなかったので、阿片汁の採取は上級生に限られた。

 

 ケシ坊主が大きく育ったケシ畑に入ると、独特の臭いがただよっていた。それは芳香とは決していえない。もっと別の、ちょっと薬品のような臭いであった。臭いには、あるいはごく微量のモルヒネ分が含まれていたかもしれない。子どもたちが阿片汁を採取すると、往々にして不快感を訴えた。それは、子どもの背丈が小さいことから来ていた。背の高い大人の場合、ケシ坊主は胸の前ぐらいに位置する。だから、ケシから発する刺激臭をまともに受けなくてすんだ。ところが、背丈が小さい子どもの場合、身体がケシの草叢の中に埋まってしまう。そのため、ケシから発する刺激臭をまともに受けてしまう。その結果、往々にして子どもは気分を害してしまったのである。
 この事情は、作文の中でも触れられている。

 「モルヒネにようて、頭いたくなるやらわからんし、口もにがくなるよってな。」………鼻をつきさす様なにほひがしてむねがわるくなりました。………私はねばねばする口の中で、したを何回も動かしながら、時々せきをしてゐると、小父さんが「あんた頭いたくないかい。」と言はれました。私は「口がにがいけど、頭いたくないよ。」と言って、」

 というように、ケシの刺激臭のことが述べられている。子どもはケシの草叢に身体が埋まるようにして長時間、乳液を採取するので、ケシ特有の刺激臭の影響を強く受けねばならなかった。
 阿片汁採取の仕事は、早朝、まだ朝もやがただよっているうちから行なわれた。「四時に起きて御飯を食べました。」と記されている。子どもが、通常、起床する時間ではない。早朝からの仕事であった。そこで、朝食と昼食の中間にもう一度、食事をとった。これを「小昼」(こひる)と呼んでいる。

 「もうすっかりあかるくなってゐる田の岸には、むしろの上に小昼の用意がしてありました。私たちはみんなよごれた足をのばし、まるくわになって小昼を食べました。私はまっ先にお茶をごくんごくんとのみますと、にがい口がこころよくなりました。」

 阿片汁を採取しているものが、いっしょに小休止して、ケシ畑のかたわらで簡単な食事をする様子が述べられている。
 大人にまじって、阿片汁を採取する仕事は、小さい子どもにとって、たしかに辛い労働だったかもしれない。しかし、この仕事が終わると、五円の小づかいを親からもらえたという。当時、五円は子どもにとって大金であって、この時以外に親からもらえるような金額ではなかった。それで、この五円のお金を大事に握りしめ、町に出かけ、日ごろから欲しいと思っていたものを買った。それが、子ども心に、とてもうれしかった。―――聞き取りに応じてくれた老女のかたが、以上のようなことを、昔なつかしそうに語ってくれた。

 「小池キヨヱ」さんの家はケシを作っていなかった。それで、「私は下野さんへやとはれて行く事になってゐます。」とあるように、「下野さん」という農家のケシ畑に出かけている。13才ぐらいの少女が、大人にまじって阿片汁を採取する。仕事はたしかにきつかった。しかし、ほかの仕事では到底、得られないような報酬をもらうことができた。子どもの労働力がほぼ一人前に評価されるわけであるから、「モルヒネとり」の仕事は、彼女にとって、それなりにおもしろかったのではなかろうか。

 戦前、子どもがケシ畑に入り、阿片汁を採取することは知られていた。しかし、それを具体的に示す史料はなかなか見つけられなかった。また、「ケシ休み」についての研究も大幅に遅れている。「ケシ休み」、すなわち、多くの子どもたちが学校単位で休みを与えられ、阿片汁採取の仕事に参加していたことも、まだほとんどわかっていない。その意味で、「小池キヨヱ」さんの「モルヒネとり」という作文は、「ケシ休み」の状況を生き生きと伝えてくれて、貴重である。