連載⑨「日本国憲法を学びなおす」

小さな島国の宝物~日本国憲法の話をしよう その2

野間美喜子  (2003) 

                                           
 

 1993年2月5日にテレビ朝日で、『日本国憲法を生んだ密室の9日間』という番組がありました。面白い番組で、マッカーサー総司令部の憲法草案作成にあたった人たちの中で、生存する6人に、9日間でどうやって憲法をつくったのか、具体的にインタビューしていました。その中心だったケーディス前民政局次長が言っていたことです。

新聞記事があるか新聞記事があるか

憲法草案要綱 憲法研究会案(1945年12月26日)

歓迎された日本国憲法

 マッカーサー司令部のつくった憲法に、非常に影響を与えたものがある。それは、高野岩三郎、鈴木安蔵、森戸辰男ら日本の学者たちをメンバーとした憲法研究会で、以前から研究されていた憲法草案だ、と言うのです。
 自由民権運動の流れをくむ自由主義的な、優れた憲法案でした。それを「非常に参考にした」と言っています。そしてそれは、ほとんどが今の日本国憲法に似ています。

 例えば、「天皇の主権を否定して統治権は日本国民より発するものとし、天皇は国民の委任によりもっぱら国家的儀礼を行い、内閣が対外的に国を代表する。」「国民は健康で文化的な水準の生活を営む権利を有する。」など、今の憲法の象徴天皇制みたいなものまで考えた憲法案でした。

 確かにつくった期間は9日間。悪く言う人は、「葉巻タバコをくわえながらつくった憲法だ。」と言うんですが、日本の国民にとっては待ち望んだ憲法でした。世論調査の支持率などを見れば明らかです。国民は非常に歓迎している。学者も歓迎し、マスコミも歓迎している。
 お腹がすいていて水が飲みたいというときに、「パンと水をどうぞ」と言われた。それは押しつけられたとは言わないんですね。同じように、日本の国民にとってこの憲法は、押しつけられたとは言わない。明治憲法にしがみついていて、国体を護持したい、明治憲法の修正で済ませたい、と思っていた人たちにとっては、押しつけられたものかもしれませんが。

新聞記事があるか

帝国議会で修正を加えた「帝国憲法改正案」は1946年10月29日、枢密院で2名の欠席者をのぞき全会一致で可決され、天皇の裁可を経て、11月3日に「日本国憲法」として公布された。(写真はいずれも『誕生 日本国憲法』国立公文書館 2017より)

 しかも、非常に真剣な議論を第90回帝国議会でしています。この議会は、初めての普通選挙である1946年4月の衆議院選挙で選ばれた人たちが議論をして可決をしています。そういう意味では、手続き的にも押しつけられたものではありません。むしろ後でお話しするように、国会で何の議論もしないで、「再軍備しろ」と言われて警察予備隊から自衛隊をつくらされた、この方がよほど押しつけられたものだと思うのですが。
 第90回議会では、今の国会よりだいぶましな議論をしています。自衛のための戦争も放棄するのかしないのか、国連との関係はどうなるのか―――。いま聞いても「なるほど」という議論をしています。この憲法を通そうとする人たちは、首相になった吉田茂さんも国務大臣になった幣原喜重郎さんも、一生懸命、「これはもう侵略戦争だけではなくて、自衛のための戦争も放棄するんだ」と言っています。

 国連との関係についての質疑も、非常におもしろいんですね。国連には、どこかの国が何か悪いことをしたときには、国連軍が軍隊を出して制裁をするという「集団安全保障」があります。それについても議論しています。
 「将来国連に入ると、日本が武力を提供しなければならない義務が生じてくるかもしれないが、日本の非武装とはどういう関係に立つんでしょうか」と聞いています。
 幣原国務相は、「国連に入るときは、第九条がある以上は、この武力の提供義務について、留保して入らなければいけない。もし、どこかの国に国連が制裁を加えるために協力をしなければならぬ、というような注文が日本に来る場合があるとすれば、それは到底できぬ。留保に従って、それができないというような方針をとっていくのが一番よかろう。」と言っているんです。
 PKOだから自衛隊を出さなければならないという議論は、もうとっくに卒業している話がまだ出てきた、ということなんですけれど。

 憲法はそれから58年、さまざまないじめにあいながら、変えられずに続いてきました。これは、実質的に日本の国民が憲法を選び取ったと見ることができるのではないか、とも言われています。
 たとえば、憲法の典型と言われたワイマール憲法も、12、3年でナチスドイツによって踏みにじられました。いろいろな国の憲法は変えられてきている。けれど、日本はずっと変えずに大切にされてきた。それは、実質的に日本の国民が憲法を制定した―――事実、制定したのですが―――と、言えるのではないかという意見です。

「東洋に落とされた真珠」が変えられていく

 憲法制定当時、憲法九条で放棄したのは侵略戦争だけではなくて、防衛戦争も放棄したということは、みんなが言っていました。国会でも言っていた、学者も言っていた。はっきりしていた。それは数々の記録にあります。
 例えば、吉田茂は第90回議会で、憲法第九条についてこう言っています。「自衛権についてのお尋ねですが、戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定をしてはおりませんが、第九条第二項において、一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります。」
 そのはっきりしていたことが、実はいろいろな情勢からゆがめられていくのです。

 一番大きな原因は、国際環境の変化です。具体的に言えば、米ソの冷戦が始まってくる。東ヨーロッパには人民民主主義政府が樹立され、民族解放の戦いがインドネシア、ビルマ、朝鮮、中国で起きている。1947年に、いわゆるトルーマン・ドクトリンと言われる共産主義封じ込め作戦が、アメリカの政策として打ち出されました。
 その頃、アメリカの対日占領政策に大きな転換がありました。「東洋のスイスたれ」と言って、日本に永世中立のような理想的な平和憲法をつくらせておきながら、ソ連との冷戦構造が厳しくなってくるにつれて、アメリカは日本を反共の砦にしたいという考え方になってきます。
 1949年に中華人民共和国が樹立されて、共産党政権がアジア大陸にできると、いよいよアメリカは日本をアメリカの軍事基地として利用していこうという政策になり、日本に再軍備を迫ってきます。

 戦後のほんとうに一時期、ファシズムへの対抗軸として、連合国の自由民主主義的な団結があった時期に、日本は「東洋に落とされた真珠」と言われるような理想的な憲法をつくった。それは先ほども言ったように、戦争に対する人類史の到達点であったわけですけれども、現実の政治の中で変えられていくんですね。

 1950年6月に朝鮮戦争が始まると、その二週間後に、マッカーサーは警察予備隊の設置を吉田首相に指令します。そして国会の議論もない、いわゆる政令によって、7万5000の警察予備隊ができます。そして翌年1951年9月にサンフランシスコ講和条約が結ばれると同時に、日米安保条約が結ばれます。沖縄に基地を残したまま、全面的な講和条約が結ばれたわけです。そして警察予備隊は1952年に11万人の保安隊になり、1954年には自衛隊になりました。
 言うなれば、戦後の国際環境の変化の中で、アメリカとの関係において押しつけられてしまった再軍備と、一方、戦争と軍備一切を放棄した平和憲法という相矛盾したものを日本は抱えてしまう。本当は、サンフランシスコ講和条約の段階で別の道を選択することもあり得たはずでしたけれど、日本は日米安保条約を結ぶことによって憲法の側には立たなかったのです。

 そして、この二つの矛盾したものを矛盾しないと何とか説明するために、憲法解釈を変えていく動きが始まっていきます。
 鳩山(一郎)内閣は、「憲法は、戦争は放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない。」と言って逃げた。しかしまあ、憲法制定時の議論とは全然違うことを言うものですね。そして、「憲法の禁止している戦力は、近代戦争を遂行し得る能力を備えるものであり、それ以下のものなら憲法は認めている。」と言っています。しかし、「近代戦争を遂行し得る能力とはどの程度のものか?」という質問には答えない。

 「近代戦争を遂行し得る能力が一つの線引きだ。」と言っていたのが1952年。そのうちに、「自衛のために必要な限度を超えるものは憲法違反だ。」と言い出したのが1954年です。
 「自衛に必要な限度を超える」というのは、基準にはなりません。相手が強ければ自衛のために必要な限度というのは増えてきますから、実質的に何の基準もないことになります。
 自衛のために必要な限度を超えるものは違憲で、超えないものは合憲だというのは、何も言っていることにならないんですが、そういう「こんにゃく問答」を繰り返しながら、軍備を増強してきました。

 

 そして結局、「憲法九条は、自衛のためには、戦争も放棄していないし戦力も放棄していない。自衛隊は自衛のための戦力だから合憲だ。」という政府の解釈が確立してきます。国民もだんだん自衛隊に慣れてきた。こういうふうに歴史は動いてきたわけです。 (次号に続く。)

(その1は、こちらから)