連載⑧「日本国憲法を学びなおす」

小さな島国の宝物~日本国憲法の話をしよう その1 野間美喜子  (2003) 

                                           
 

展覧会場の様子1

ピースあいちニュース25号(2017年4月)より

私の愛する日本国憲法
 私は昭和14(1939)年生まれ、最後の戦争体験世代といえます。私たち家族は昭和19年に東京から三重県津市に疎開してきました。
 昭和20年に入ると父が「津も危ない」と言って、亀山に再疎開しました。その一週間後、津が爆撃されたのです。通っていた幼稚園の友だちも先生も、みんな死んでしまった。一週間の違いで、私は生き残りました。

 憲法との出会いは昭和21年、小学一年生のときでした。担任の先生が「日本国憲法ができた。これでもう戦争はない」と、その前文を読んでくれたのです。
 暗く、重苦しい時代から新しい平和の時代へ。教室が希望に輝いていました。「友だちを失ってしまう、そんなつらい思いはもうしなくてもいい。この憲法があるから平和なんだ。」と思いました。

 

 あの戦争のことを、私たちはきちんと考えておかなければならない。戦争の犠牲を忘れてしまうことは許されないのではないか、とずっと思い続けてきました。
 戦争の事実を歴史の中にきちんと残して、次の世代の平和のために役立てる責任が、私たちにはあるのではないか。

 もう一つ考えているのは、21世紀、冷戦が終わったこれからの時代は、国境や人種を超えた大きな問題が課せられているということです。
 平和の問題だけではなくて、環境、貧困、食糧、人口の問題など、グローバルな視点で、どうすれば人類共存の体系を作り上げることができるかという、非常に大きな課題に直面しています。このテーマを解く鍵が、日本国憲法にあるのではないかと、私は思っているわけです。

 憲法はこの58年の間、憲法に好意を持たない人々から強い攻撃を受けてきたにもかかわらず、全体として見れば、大多数の国民によって支持されて有効に機能してきています。
 憲法の平和主義に強い確信を持って21世紀に承継していくために、憲法の平和主義が生まれた背景、歴史―――その苦難の道を振り返ってみましょう。そして、憲法の平和主義に向けられたさまざまな反憲法的な考え方の誤りを明らかにしていきたいと思います。

地球と人類が生き残るために
 日本国憲法の平和主義が生まれてきた背景からお話ししましょう。

 人類は非常に長い間、多くの戦争をしてきました。西洋史や社会史を習うと、覚えるのは何年に何戦争があったという、ほとんど戦争を軸とした年表でした。
 19世紀後半頃までは、「戦争はやってもいい」というのが国際法的な考え方だったのです。力が強い者はいつでも戦争をしていいし、他国を攻撃して物や人を持って来てもいいという考え方が、つい数百年前までありました。外国に行くと、凱旋門とかオベリスクとか、戦争に勝った証の物が誇らしげに飾られているのを見ます。

 でも、実際に戦争で苦しむのは、普通の人たちです。普通の人たちのあたりまえの願いは、何とか戦争をなくして平和な世界をつくりたいということでした。
 市民の力がだんだん強くなってきた近代から現代にかけて、侵略戦争は悪いことなんだ、何とか侵略戦争を違法化しよう、という考え方を人類は作り上げてきました。今ではあたりまえの話ですが、それすらなかった時代がずっと続いてきたのです。

 1791年のフランス革命憲法は、「侵略戦争は違法である」と初めて明文化し、「侵略戦争の放棄」を謳ったものです。ドイツの哲学者カントも『永遠の平和のために』という本を書いて、侵略戦争の違法化に努めてきました。
 しかし、それでも戦争はなくならなかった。それは、侵略戦争と防衛戦争の区別がつかないことの実証でもありました。

 今世紀に入って、第一次世界大戦が起こりました。第一次世界大戦を経験した人類は、「侵略戦争の違法化を徹底させよう。」そして「軍縮をしよう。」ということで、1920年に国際連盟をつくります。
 そして1928年には、自衛の戦争を除いて戦争を禁止した不戦条約を結びます。

 「侵略戦争は禁止」ということにはなったのですが、そうなると、今度はすべての戦争が、「自衛」の名のもとに行われるようになりました。太平洋戦争でも日本は、「自存自衛のために立つ」と言った。そういう考え方では、なかなか戦争は防げません。

 そしてやはり、第二次世界大戦に突入してしまいました。その最後の時に、人類はあの不気味なきのこ雲を見たのです。広島では14万人、長崎では7万人と言われる人が瞬きする間に死んでしまうような、この世の地獄を、人類は初めて見ました。
 近代戦争は普通の戦争ではないんですね。核戦争に勝つということは、ほとんどあり得ない。勝者も敗者もない、地球が全滅するような兵器の出現によって、もう「侵略戦争はいけない」とか「自衛のためはいい」とか、そういう段階は超えてしまった。

 どうすればいいのか。地球と人間が生き残るためには、何としてでも戦争の防止を確実にしなければならない。そのためには、戦争そのものを違法化する。そのいちばん有効な手段は、戦争手段の撤廃―――軍備を持たないことだと考えたのです。
 人間が、歴史が、そういう方向へ流れ始めた。人類史の新しい段階に入った。それが凝縮されたのが、日本国憲法第九条だと言えます。

 戦争を再び繰り返さないために、国家の憲法で何を決めておけばよいかと言えば、国家はあらゆる戦争をする権利を放棄して、軍備一切を持たないようにする以外に、確実な方法はない。それを日本は世界に先駆けて実践し、平和憲法をつくった。
 これが、憲法第九条の歴史の中の位置付けだと考えるべきです。

 政治的に見ると、別の意味も考えられます。終戦にあたって日本が受け入れたポツダム宣言は、日本の「民主化」と「非軍事化」の二本を義務として課したものです。アメリカには、占領政策遂行のために、日本の天皇制を利用しようという考え方がありました。天皇制を残すとなると、再び日本が天皇の名のもとに何かやるのではないか、というアジアの人の不安、世界の不安があった。
 だから、連合国はより徹底した日本の非武装化を考えた、という見方です。

日本の「民主化」と「非軍事化」を目指す
 憲法は占領軍から押し付けられたものだから、国民は自分たちの憲法を改めてつくり直さなければいけないということが、ずっと言われ続けています。では、日本国憲法はどうやって生れてきたのか。その経過を見ておくことは、重要な意味を持ちます。

 

 すでに言いましたが、ポツダム宣言を受け入れて日本が敗戦をした時には、日本の「民主化」と「非軍事化」が義務でした。ですから、天皇主権の明治憲法を変えなければならないことは、もう誰の目にも明らかでした。
 が、日本の政府はそこまでの気持ちはあまり持っていなかった。何か変えなきゃいけないだろう、という感じでぐずぐずしていた。それで、連合国がしびれを切らした。

 

 1945年10月11日、連合国の最高司令官マッカーサー元帥は、組閣したばかりの幣原内閣に対して憲法を改正するように示唆します。ようやく重い腰を上げた幣原内閣は、松本烝治国務大臣を中心とした憲法改正案を考える委員会をつくります。そして、憲法改正の方向を探っていくわけです。

 どうやったかといいますと、明治憲法の修正という形で案を考えたんです。民主主義というのは、国民主権を軸としたものです。にもかかわらず、基本的な構造の全く違う明治憲法をちょっと直せばいいぐらいに思っていたんですね。「松本私案」というのが検討されていくのですが、それを翌年1946年2月1日に毎日新聞がスクープしました。

 

 それがいかにも旧態依然として、非常に酷い中身だったものですから、これは日本の政府に任せておいてはだめだということで、1946年2月4日から12日までの9日間で、総司令部が憲法草案を起草します。
 それを知らない幣原内閣は、2月8日に松本委員会のつくった憲法を連合国側に示します。担当者に「改正という名に値しない」と言われた程度の物だったにもかかわらず。そして、2月13日、マッカーサー草案が政府に示されました。

 

 その時、政府はこの案を採用するもしないも自由だったのです。けれど、政府がこの案に賛成しないのであれば、総司令部は国民に直接示して真意を問う、という話だったんですね。
 びっくりした内閣は、それをもとに3月6日に憲法改正要綱案を発表し、4月10日にそれをテーマとした衆議院選挙を行い、そして6月から議会が始まって、10月に衆議院で可決され、10月26日に枢密院を通過して、11月3日に憲法が公布された。
 こういう非常にあわただしい経過をたどって、日本国憲法はできました。
 さて、それをどう見るか。                (次号に続く)