「1945年6月9日 熱田空襲 8分間で奪われた2000人のいのち」展関連イベント
運営委員 高橋 よしの
ピースあいち企画展の関連イベントとして3月28日1時30分から『熱田空襲―ミニ解説と体験の語り継ぎ』がありました。前半に金子力さんが解説、後半は田中玲子さんが熱田空襲の語り継ぎをしました。
桜にさそわれ、散歩したくなるようなあたたかな春の午後、会場は52名の参加者でいっぱいでした。参加者の熱気に圧倒されそうな金子力さん。アメリカ国立公文書館蔵の米軍の資料や、様々な文献からの資料をもとに名古屋空襲の実態を鮮明にしていきます。
①なぜ、愛知時計電機が爆撃されたのか?
②なぜ、8分間で名古屋最大の2000人以上の犠牲者がでたのか?
③防空体制はどうなっていたのか?
これらの問いを解き明かしていきました。
愛知時計電機は、現在は水道やガスのメーターを生産していますが、第一次世界大戦の頃より、それまでの精密機械の技術をかわれ、魚雷の信管(爆弾のスイッチ)を作っていました。真珠湾を攻撃した九九式艦上爆撃機も製作。愛知時計電機は、100%海軍から飛行機の発注を受けていました。エンジン(発動機)は大幸町の三菱重工業、機体は大江というように、名古屋には飛行機や兵器を作る工場が多くあり、米軍のターゲットになっていました。昭和19年6月には、アメリカ軍は攻撃目標をリスト化し、愛知時計電機を「198」と登録。こうして愛知時計電機は爆撃の対象となったのです。ターゲットの日程は1944年12月13日からはじまりました。
3月10日東京、12日名古屋、14日大阪、17日神戸、そして19日やり直しの名古屋。300機のB29からの焼夷弾で4大都市を焼き払いました。丸の内のビルの工事現場から昨年も不発弾が出てきましたが、3月19日の夜間低空からの爆撃で落とされたものです。
5月14日は名古屋城が焼けた日。B29の500機が襲いました。1機11人乗りですから、上空には5500人がいたことになります。
6月9日は愛知時計がターゲットになりました。アメリカ軍はエンパイヤ作戦と呼び、雨の時(目視不可)は夜間複数の中小都市を焼夷弾で襲う、晴れの時(目視可)は昼間に軍需工場に爆弾を投下する作戦です。その作戦は、その日からスタートした同時多目標攻撃。その日は、熱田愛知時計の他に、西宮の川西鳴尾製作所と川崎明石製作所も攻撃目標とされていました。
なぜ、8分間で2000人以上の犠牲者がでたのか。
その理由の一つは、爆弾の型と量による破壊力の大きさ。
AN-M56 4000ポンド軽筒爆弾(2トン) 121発。他に、AN-M66 2000ポンド通常爆弾(1トン)23発投下。投下トン数は265トン。42機が、9時17分から23分までに、これだけの爆弾を愛知航空機船方と愛知時計電機に投下したのです。米軍資料によると、工場の95.7%を破壊、損害を与えたとあります。
B29が通常搭載する爆弾は250キロ爆弾です。その8倍の重量の爆弾は、全重量の80%の火薬が装填されていて巨大な破壊力がありました。鉄筋4階建ビルの地下室まで貫通するほどでした。
二つ目には、空襲前に空襲警報が解除されたこと。
7時45分に警戒警報が発令されます。
8時24分に空襲警報発令。紀伊半島から熱田を爆撃するB29部隊が北上しているのに気づけず、
8時45分に空襲警報解除。
生産を止めてはいけないと言われている工場では作業が開始されます。9時6分近江八幡を通過したB29部隊は名古屋に向かいます。
9時15分空襲警報が発令されますが、9時18分には空襲が開始。多くの人が、逃げられず工場内で爆撃にあったのです。
日本の防空体制はどうなっていたのか?
日本の防空体制は、日本に接近するB29はレーダーでつかめますが、本土侵入後はつかめません。名古屋周辺の地上防空部隊(高射砲陣地など)は配置されていましたが、民間の防空監視哨・陸軍高射砲部隊による「目と耳」で上空を監視するしかなかったのです。
「愛知県は学徒動員で亡くなった犠牲者(原爆を除く)は日本で一番多いです。それだけ若い人たちが動員され、空襲で亡くなったのでした。愛知時計電機の空襲で亡くなった方たちの死を無駄にしない日本にしていかなければいけないと思います。」と、金子さんは締めくくりました。
後半は語り継ぎ手の田中玲子さんが、堤茂子さんと桜井純さんの空襲体験の証言をもとに熱田空襲の実態を明らかにしていきました。
田中さんご自身の父が三重で空襲にあっています。しかし、お父さまが生きていらっしゃる時、戦争について何も聞かなかったそう。「自分が知ろうと思わないと、知らないなあ」の思いから語り継ぎを始めたとのこと。それも、父と同じ年齢の人にしようと。

熱田空襲を語り継ぐ田中玲子さん
堤茂子さんが空襲にあったのは学徒動員で、愛知時計電機船方工場で働いている時。13歳でした。金属ねじの余分なところを削り取る仕事でした。その日は、空襲で気を失い、気づいてからは遺体を踏んで現場を離れ、家に帰ったことなど、堤さんの語りの映像を使い、語りを進めます。「一番戦争がこわいと思う自分が(戦争から)逃げていてはいけないと思い、話しました」と、堤さんが大切にしている思いを伝えてくれます。
桜井純(あつし)さんの空襲や遺体安置所の様子を描いた何枚もの絵と、それに書かれた言葉「鉄筋4階にも直撃弾が突き抜ける。地下は血の海でした」を田中さんは紹介。それは、熱田空襲の状況をリアルに伝え、考えさせてくれます。桜井純さんは熱田空襲後の救助活動が警察官としてのはじめての仕事だったそうです。
「戦争は被害と加害の一対のものだと思います。戦争を体験した親をもつ最後の世代としての責任があり、平和を願い、戦争を語り継ぎます」と、田中さんはご自身の思いを語りました。
6月9日の爆撃で2トン爆弾が2発、愛知時計電機に隣接する千年小学校(国民学校)の校舎と運動場に投下されました。その時の上空写真がアメリカ軍の資料に残っていて、それも展示されています。千年小学校の栗本校長先生は、ひょっとしたら学校沿革史に当時のことが記録されているのではないかと調べてみると、記録がありました。それも、合わせて、展示されています。栗本先生(61歳)はこのイベントに参加し、熱田空襲のことを子どもたちに知らせ、戦争を考えるバトンを渡したいと話されました。