ピースあいち訪問記◆「実相」という言葉のもつ意味に近づく
岩田 若菜(守山区在住)
とにかく心の満腹感で胸がいっぱいになりました。展示内容が読み応えのあるボリュームで充実していて満足でした。
戦時下における日本は伝える情報を制限し、思想を偏らせ、狭めていくことである種正常な判断能力を鈍らせていた。お互いに監視しあい、人と異なる動きや発言をすれば非国民だと騒ぎ立てるような風潮が蔓延していた。「忠君愛国」という言葉は信じがたいほど人々の心に浸透し、脅かしていたのだ。
戦地へ赴くことや、御国の為に戦うことを美徳として信じて疑わず、天皇という存在に陶酔しきっていた。現在では、信じがたいこれらの事実は築かれた月日、年月とともに、子どもから大人まで信じて疑わず、心身ともに時代が育て上げてしまったのだ。
愛知一中のように決起大会でその場の盛り上がりムードを作ってしまい、現状を正しく理解することなく志願した若者がいた。志願を引き止める両親の思いは、当時の日記からも、息子に願いや真意が悲しくも届かなかった。届かないほどの若者の年齢だったからだ。
展示されていたハガキや日記を目にして、さらに実感に変わった。ハガキは検閲があり、耳触りの良いことしか記すことができない。一方、日記には本心を垣間見ることができ、現代と変わらない人間がいて、同じように感情や考えをもつ人間なんだとリアルな生きざまを実感した。同時に報道番組や新聞で度々見聞きする「実相」という言葉の持つ本当の意味が少しかもしれないが理解に近づいた気もするし、「伝える」ということには、やはりこだわらなければならないし、こだわり続けたほうが良いと再認識した。
現代の日本における風潮を考えると、同じ道を辿っているのではないかと不安になる。信じるべき指導者の選択を誤ればなおのことだ。民主主義に基づいていても、平和はいとも簡単に崩れかねない。指導者は戦争を起こさない、続いている戦争は停止できるようにもっと働きかけて、訴えていかなければならない。広島・長崎を最後の被爆地にする努力は、国民一人一人がどんなことでもできるはずだ。
SNSの発展で、何を言っても良い、発言の自由だという同調圧力が強まり、無秩序になっていたり、自分と違う意見の人は敵だと考えて、執拗に揶揄したりして、収拾がつかない状態になっている。多文化共生など理解が追い付かず、言葉だけが先行し流行化してしまうと、本来の趣旨とは取り違えた理解が進んでいるような気もする。どのようなことにしろ、簡単に定義として収めるのは難しいから、一人一人の理解は異なるものと知っておかねばならない。
私たちは思っているほど戦争のことは知らないのかもしれない、理解が足りないかもしれない、と自覚することから始めなければならない。そして、知ろうとし続けなければならないと本当に思う。私もまだ一歩しか踏み出せていない。