◆所蔵品から◆資料ナンバー7732 新聞綴りより
毎日新聞1944年7月28日「学童の疎開先割当決る」の話
資料班

毎日新聞1944年7月28日「学童の疎開先割当決る」
今月は、学童疎開に関する新聞記事をご覧いただきます。
昭和19年(1944年)7月28日の毎日新聞です。
千種区 東区 北区 西区……と、区ごとに見出しを立てて学校名・人数・疎開先が書かれています。区ごとの学校数と合計人数も書かれています。
当時の名古屋は13区でした。今あって当時は無かった区は守山区・名東区・天白区・緑区です。当時あって今は無い区は「栄区」です。


「学童の疎開先割当決る」千種区・東区
近づいて見てみましょう。「千種区」「東区」です。
ピースあいちのあるあたり(名古屋市名東区)は当時は名古屋市の外がわで、近いのは千種区でした。人数は、少ない学校で93人、多いところは466人で、8校の合計が2030人です。
話がずれますが、名古屋市の区ごとのデータが並んでいるような時、現在でも千種区が最初、次が東区……という順番になっています。
東区は、疎開先に注目してみたいと思います。2行目の筒井国民学校は、「西春日井郡山田村」に疎開することになっています。現在は名古屋市西区になります。3行目の白壁国民学校は「瀬戸市、品野町」。今では瀬戸市は名古屋の隣の市です。
1944年時点で瀬戸市がすでに「市」であるというのは意外に思いました。瀬戸市のホームページによると、「昭和4年」(1929年)から「市」になっています。
3行目の高岳国民学校の「足助町」は、愛知県の中でも東の方です。

「学童の疎開先割当決る」中川区
中川区もご覧いただきます。中川区は名古屋市の南西部です。(さきほどの千種区と東区は当時の名古屋市の北東部にあたります)
4行目の六反国民学校は高山市(岐阜県)に、露橋国民学校は「岐阜県吉城郡古川町、細江村」に疎開することになっています。吉城(よしき)郡は岐阜県のいちばん北にあった郡で、古川町と細江村のあったところは今は飛騨市です。
露橋国民学校といえば、ピースあいちの子ども展で展示している「疎開かるた」を制作した子どもたちがいた学校です。彼らがが実際に疎開していたのは、美濃市にあるお寺です。疎開先が変更されることもあったようです。
話がずれますが、六反(ろくたん)国民学校(後の六反小学校)の読み方を調べようと検索をしたら、所在地は中村区と書かれていました。地図で見ると中川区との境界のすぐ近くです。移転したのか区割りが変わったのか、詳しいことは調べられていません。

「学童の疎開先割当決る」栄区
栄区の疎開先も見てみましょう。
南久屋・久屋・御園・本町・白川・中ノ町の6校の疎開先が三重県の宇治山田市です。
さきほどの飛騨市・高山市が、疎開先の北の端だとすると、いちばん南になるのが宇治山田市、今の地名だと伊勢市になります。伊勢神宮があるのが伊勢市(宇治山田市)です。

「学童の疎開先割当決る」集計
最後の集計です。「集団疎開」「縁故疎開」それぞれの合計が出ています。
ここまででカウントしているのは「集団疎開」の数字です。縁故疎開する学童の方が人数は多い(37,179人と45,170人)です。

新聞綴り 背表紙

新聞綴り 「昭和十九年七月~十二月」

新聞綴り 「昭和十九年七月~十二月」1ページ目

新聞綴り 「昭和十九年七月~十二月」該当ページ(7月28日四面)
今回の新聞記事は、寄贈品の新聞の綴りの中からご紹介しています。
昭和16年(1941年)12月から、昭和23年(1948年)1月~2月までの新聞がまとめられています。
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