戦後名古屋にGHQの家族として住んでいた時の家を探す
元ボランティア  笹井 裕子





 

 私はピースあいちができてすぐの頃、1年ほどボランティアで参加していました。日本の戦争の歴史は学校で習ったはずなのに全然理解ができておらず、ピースあいちで学びなおし、その後、国内外の戦争史跡を見てまわりました。

久しぶりに訪問したピースあいちで(筆者)

 それから年月が経ち、2023年9月に英語ガイドをしているお友達から戦争中に三菱の工場だったところを見たいというアメリカ人のおじいさんがいる。と相談を受け、ピースあいちで学んだことが役に立てるかもしれないと協力することになりました。

 戦後の名古屋のことは全く知らなかったのですが調べていくと、GHQの進駐軍が名古屋に駐留していたことがわかり、現在の白川公園がアメリカ軍の住宅が立ち並ぶアメリカ村だったということがわかりました。いろんな方がホームページにまとめてくださっていたものを切り取り、写真をかき集め、当日私も同行してガイドをしました。


 白川公園は住んでいた所だろうと思い、写真を見せながら今は公園になっているのですよと案内したところ、ここには住んでいない、もっと坂の上の日本の屋敷に住んでいたと言って、「住宅番号68 ジャン アール モーガン大佐」と書かれているプレートの写真を見せてくれました。ここで私たちは、おじいさんが大佐の息子さんで特別な住居を用意されていたことがわかりました。
 おじいさんのお父さんモーガン大佐は第5空軍として名古屋に駐留し、10歳のモーガン少年もテスト飛行に同行したという話もありましたので、引き続き三菱で飛行機を作らせていたのかもしれません。


 おじいさんがアメリカに帰ったあと、私たちは戦後の接収住宅改装を請け負った創業150年の建設会社 北川組、接収住宅を研究されている大学の先生、名古屋の建築史に詳しい大学の先生、戦争資料館の学芸員の方、今も南山町に残る当時接収されていた国有形文化財の河原田住宅の河原田様に連絡を取り、3か月にわたる調査の結果、八事に近い瑞穂区の大きな邸宅であることがわかり、そのお家の方のご協力により、玄関の写真や当時と変わらない庭の写真などをおじいさんに送ったところ、ここで間違いないと大変喜んでいただきました。

 当時10歳だったおじいさんも今は87歳。ご高齢にも関わらず、今でも名古屋のことを思い出して再訪してくれたことを嬉しく思い、このように協力できたのは、やはりピースあいちでの1年間のボランティアが私の背中を押してくれたのだと思います。