常設展示から◆「集団自決」
ボランティア  桑原 勝美

                                           
 

 「集団自決」とは軍命など軍事的圧力により強制された集団死である(*1)。ピースあいち2階中央の組写真の一番右端に「集団自決」を示す一枚があり、次の説明が付されている。
「サイパン島で、沖縄で、戦闘に巻き込まれた住民が、「集団自決」する悲劇が起こった。沖縄では日本の軍人によって強いられたという証言も残る。」

展覧会場の様子1

2階常設展示から

 

なぜサイパン島で?
 マリアナ諸島が日本の委任統治領にされると(1920年のヴェルサイユ条約発効により)、沖縄を始め全国から多くの日本人が入植。太平洋戦争後期、日本はマリアナ諸島を含む絶対国防圏を設定(43年9月)、守備軍を置き、飛行場を整備。米軍が上陸後(44年6月中旬)、激戦の末、日本軍は全滅、占領される(44年7月上旬)。  サイパン島の居留民は戦闘に巻き込まれ、米軍に追撃されてバンザイクリフ断崖やスーサイドクリフ絶壁から飛び降りるなどして「集団自決」した。バンザイとは、勢いをつけて飛び降りるための姿勢が万歳に似ていた故の呼称。テニアン島でも米軍の上陸後(44年7月下旬)、数多の入植家族が断崖から投身集団死した。

 

沖縄の島々から? 
 沖縄戦最初の地上戦は慶良間諸島の島々から始まる。この地域に海上特攻基地が置かれると、軍隊が配備された渡嘉敷島、座間味島、慶留間島では軍が全体を支配、軍命は全て役場を介して村民に伝えられる。米軍の上陸(45年3月26日)をきっかけに村民は次々と「集団自決」に追い込まれた。
次はその一例:
 軍命により山中に集められた村民は、軍から渡された手榴弾を家族同士で爆発させる、鉈や鎌、剃刀で肉親に切りつける、親しい間柄の全員が殺鼠剤を口に入れ一升瓶に入った水を回し飲みする、手榴弾や殺鼠剤で死ねない家族を男性が木の棒でめった打ちする。

沖縄本島では?
 慶良間諸島を占領した米軍は、沖縄本島の西海岸に上陸(45年4月1日)。日本軍の主力は司令部を首里城の地下に設営、その北方の嘉数高地、前田高地を中心に地下陣地を設け、米軍を待ち構える作戦。米軍が上陸したとき、西海岸の読谷、北谷の村民は無防備のまま最前線に置き去りにされたため、家族など集団で身近な洞穴(ガマ)に避難し、多くの人が集団死を図った。
チビチリガマでの一例:
 帰省中の従軍看護婦が村民に劇薬を注射する、母親が包丁で我が子の頸動脈を切る、石油ランプの油を布団や着物にふりかけて火をつけ、そのガスと煙で窒息死を図る。
沖縄本島では助かった例もある:
 大規模なシムクガマには極めて多くの村民が避難、その中にハワイ移民帰りの2人の老人がいて、ガマを包囲していた米軍兵士と交渉した結果、ほぼ全員が無事に救出され収容所へ向かった。

満州でも?
 日本軍(関東軍)は南満州鉄道爆破事件を機に(31年9月、満州事変)、中国軍を制圧し清朝最後の皇帝溥儀を執政とする「満州国」を建国(32年3月)。関東軍の指導下に満蒙開拓移民事業が開始され(32年)、後に国策として本格的な移民が行われる(37~41年)。太平洋戦争末期、ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州へ侵攻すると(45年8月9日)、関東軍は逸早く前線から後退。置き去りにされた満蒙開拓移民、満蒙開拓青少年義勇軍、民間人などは膨大な数にのぼり、多くの団体、家族が終戦後も続く「集団自決」に追い込まれる。
以下に集団死の一例を示す:
 婦女子、高齢者、子どもを主体とする開拓団が青酸カリをあおる、銃を持った男性が家族を射殺した後、家に火を放って自害、暴民に襲われた開拓団が大河に投身、ソ連軍の強奪、暴行、強姦に抗議して看護婦団が青酸カリにより果てる。

なぜ「集団自決」を?
 サイパン島、沖縄、満州における「集団自決」に共通するのは、米軍の上陸またはソ連軍の侵攻に際して、民間人が敵国軍の前に置き去りにされたことである。住民はデマ・プロパガンダ「鬼畜米英」と戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず。」により洗脳され、敵国軍の捕虜にならず集団死するよう教育されていた。

国際法は?
 「降伏者及び捕虜者は、これを捕虜としてあらゆる暴力、脅迫、侮辱、好奇心から保護され人道的に取り扱わなければならない」。この戦時国際法が日本軍と民間人に周知徹底されていたら、「集団自決」のような悲劇は起こらなかったのではあるまいか。「集団自決」は繰り返してはならない戦争の惨禍を物語る。



(*1)今年(2021年)6月の企画展「沖縄から平和を考える」のパネルでは次のように記している:
沖縄戦での住民の集団死は「集団自決」と言われてきましたが、住民は日本軍の命令、強制によって死に追いやられたものであり、したがって「強制集団死」というのがふさわしいものです。石原昌家氏(沖縄国際大学名誉教授)は次のように述べています。『「公民化教育・軍国主義教育」がベースにあったとはいえ、決して「自発的な死」すなわち「自決」ではありません。したがって、「集団自決」という言葉ほど沖縄戦の真実をゆがめ、誤解と混乱を招く語句はありません。住民の「集団自決」なるものは端的にわかりやすくいえば「日本軍の強制による集団死、せめて「日本軍による強制集団死」とでも表現すべきでしょう。』

<参考文献>
 新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』岩波新書、2016.
 下嶋哲朗『非業の生者たち 集団自決 サイパンから満洲へ』岩波書店、2012.
 森住 卓『沖縄戦「集団自決」を生きる 渡嘉敷島、座間味島の証言』高文研、2009.
 謝花直美『証言 沖縄「集団自決」― 慶良間諸島で何が起きたか』岩波新書、2008.
 新崎盛暉・仲地哲夫・村上有慶・目崎茂和・梅田正己『沖縄修学旅行』高文研、2005.
 藤原 彰編著『沖縄戦 国土が戦場になったとき』青木書店、2001.