ボランティア雑感◆遺品がもたらしたもの
ボランティア 橋爪玲子

                                           
 

 コロナ禍で長くなったおうち時間に始めた我が家の断捨離…。それは、実家を解体した折、とりあえず持ち帰った両親の遺品と向き合うことになりました。
 1945年、愛知第二師範学校の学生だった父(大正14年7月生まれ)は、学徒動員で召集されましたが、戦地に赴く直前に終戦となり助かったと聞いています。「初陣を控えて吾れ想い出を飾る 昭和20年5月30日」と死を覚悟して書かれた古びたアルバムと一緒に日章旗寄せ書きも大切にしまわれていました。
 そして母(昭和3年10月生まれ)は、国府高等女学校の女学生で、次第に授業がなくなり、豊川海軍工廠へ学徒動員され、1945年8月7日の空襲に遭いました。その日、空襲警報が鳴ると一目散に防空壕に向かいましたが、「ここは、一杯だ。」と言われたことが、生死を分けました。その防空壕は、爆弾の直撃を受け、多くの友人が命を奪われました。「優秀な人がみんな亡くなってしまって…」と、母はよく言っていました。

展覧会場の様子1

都築さんと筆者(右)。ピースあいちで。

 3月にピースあいちの2階で、語り手の都築さんが描かれた「絵で語る戦争と平和への思い」を拝見しました。そのなかの一枚の絵に目が釘付けになりました。
 「豊川工廠で遺体を運ぶ途中、防空壕に折り重なって死んでいる女学生たち、その痛々しい姿は、今も脳裏を離れません」と、キャプションに書かれていました。まさに、犠牲となった母の友人たちのことでした。
 実は、都築さんとは以前日進市のボランティア研修でご一緒したご縁があり、今回吉岡さんのお計らいで17年ぶりに再会することができ、当時の様子をお聞きする機会に恵まれました。
 また、7月開催の「少女たちの戦争」展に母の写真等遺品を展示していただけることになりました。

 いつかしようと思っていた遺品整理…当時のずっしりとしたアルバム、教科書や日用品に触れ、しばし手が止まってしまいました。 1943年を境にセーラー服のスカートがモンペに変わってクラスの集合写真に収まる女学生の姿に、思わず涙がこぼれました。
 戦死した方々、原爆、外地からの引き揚げ者等、筆舌に尽くし難い戦争体験者に比べたら、内地で終戦を迎えた両親は運が良かったのかもしれません。それでも、戦後の食糧難をなんとか生き抜き命を繋いでくれました。
 両親の遺品と向き合うことで、あらためて孫の世代に先の戦争の悲惨さを伝えてゆくことが大切だと思いました。

 3月から、念願かなって、ピースあいちのボランティアとして活動させていただいています。お役に立てる分野を探してゆきたいと思っています。どうぞよろしくお願い申し上げます。