◆風船爆弾はここでも?     
 運営委員 稲田浩治

                   



―これは加藤淑子さん(1928.4.16生まれ、満88歳)からの聞き書きです。風船爆弾が「名古屋陸軍造兵廠千種製造所」でも造られていたということは、初耳でした。

 椙山第一高等女学校の二年生の半ばだったかしら。狩り出されて千種の造兵廠へ行きました。今、千種公園になっている所です。東市民病院の向こうの。ですから、卒業式はやれずに、卒業証書はわら半紙の八つ切りくらいのものを後からもらいに行きました。繰り上げ卒業でした。
 家は瑞穂区の旧制八高があった辺りにありましたが、途中から一宮の向こうの起(おこし)の尾張三条に疎開しました。そこから名鉄電車で名古屋駅へ出て、実際は名古屋駅が使えず栄生(さこう)で降りて、それからは歩きだったと思います。広小路通りを仲田へ、そして造兵廠へ。遅刻しそうになると、軍曹が「早く来い」と呼びつけました。サーベルを下げて門に立っていました。今でもその人の顔を覚えています。

 

 造兵廠には第一工場、第二工場、第三工場とかがあって、仕事は現場、事務、給食係、検査係などに分かれていました。現場は油まみれになり大変でした。旧制愛知一中の男子が砲身磨きで、ベルトコンベアのようなものに巻き込まれて、片腕をなくすという事故もありました。
 私は第三工場で検査係をしていました。「神風」と書いた鉢巻を締め、砲身をノギスやマイクロメータで計測、寸法が足りないとか余ると赤い紙を貼って「おしゃか、おしゃか」といって、戻しました。やり直しをさせました。
 本当は食事係をやりたかったですね。御飯を自分だけたくさん盛ったりできましたから。おかずはありません。味噌汁があったかどうか、覚えていません。どんぶり飯で、うどんの細かく切ったものや大麦などを混ぜたものです。そうやって量を増やしたんですね。茶色をしていました。銀シャリは、あこがれでした。
 年上の女子挺身隊の人もいて「學生さんなのに気の毒ね」といたわってくれました。長野や「越後」から来ていましたね。

 
絵はがき

ウィキペディアより

 戦争末期だと思いますが、秘密兵器風船爆弾を造るようになりました。昭和十九年の末ごろでしょうか。昼間はもちろん働くのですが、夜勤があって、主に夜中に造りました。極秘ですから口止めされて、家族にも内緒にしていました。土佐紙をコンニャクイモの糊で三枚、重ね張りし、それをつなぎ合わせ、球形を造る作業でした。偏西風に乗せてアメリカ本土まで飛ばそうというのですから、今、子どもたちに話すとマンガみたいと笑われてしまいますが。
 造兵廠への行き帰りは、憲兵に見張られていました。仲田から歩く時にも鳥打帽などをかぶってうろうろしていました、制服でなく。物々しい雰囲気でした。定期入れには、赤い紙に包まれた青酸カリを入れて、常時持ち歩いていました。死ぬことは怖いと思っていませんでした。この当時、大学生はどんどん外へ出ていましたから。
 今では、みんな楽しい思い出になっちゃっています。くやしいけど。