『今は言える、自由に―広島で被爆した祖父が語る―』
名古屋市立大学4年 愛葉 由依

「原爆の図」展のオープニングイベントで
要旨
本研究では、70年前、広島で被爆し、衛生兵として救護活動・遺体処理活動にも従事した祖父のライフヒストリーを研究する。研究としては十分になされていない軍の下層部にいた、一新兵であった祖父の視点からの広島での出来事を明らかにする。そのなかで、歴史を多面的に理解していくための広島への原爆投下、太平洋戦争という歴史的出来事のある一面を提示するとともに、祖父の語りを生きた物語として残していく。
広島への訪問や、原爆に関する催しへの参加を通して、祖父と行動をともにするなかで、祖父の視点や、心理的側面を探っていくことに努めた。そのなかでは、祖父の自伝的な語りや、祖父と私の対話が行われた。祖父と私の生きた対話に注目していくと、語ることでの治療的効果が双方に見られた。祖父と私がどのような変化をしていったのかについても分析をしていく。
祖父について
昭和20年(1945年)1月3日、満18歳のときに、名古屋市中川区の八熊小学校の教室で、徴兵検査を受け、昭和20年2月の暮れには、令状により、大竹海兵団への配属が決まり、3月に名古屋駅に集合し、ささしまから大竹へ汽車で向かった。当時の広島県大竹町にあった大竹海兵団では、水兵として新兵教育を受けていたが、昭和20年7月頃に、大竹海兵団の衛生兵に転科した。原子爆弾が投下された昭和20年8月6日は、大竹町の大竹海兵団にいた。8月7日から11日までの5日間は、軍の命令で広島市内に入り、救護活動、死体処理活動を行った。この時に、残留被爆をしている。大竹町にあった大竹海兵団の兵舎は、より安全な場所へ移すため、宮島に再建された。この宮島で、8月15日の終戦を迎え、9月には名古屋へ帰還した。
研究方法
文献調査を行ったうえで、2015年の7月から8月にかけて、フィールドワークとして、祖父宅での聞き取り調査、広島での聞き取り調査・参与観察・行動観察、原爆に関する企画に出席・参加するなかでの、聞き取り調査・参与観察・行動観察を行った。本研究では、祖父と行動をともにするなかで、祖父の視点や、心理的側面を探っていくために、この研究方法をとることにした。今年は、終戦70年を記念した催しがいくつか行われたため、そのような場だからこそ聞ける祖父の語りがあると思い、それらへの参加もフィールドワークに含めた。特に、祖父との広島訪問では、70年前に祖父がいた広島という空間での語りに注目していく。
ライフヒストリー
この研究におけるライフヒストリーとは、祖父と私のストーリーである。祖父と私のあいだに生じうる個人間の親密な関係「相互関係」について記述することになる。祖父の感情的・知的経験はもちろんのこと、祖父と共同で対話をするなかでの私の感情的・知的経験までも記録することで、二重の肖像を提供していく。
「救護活動」
ここでは、私の卒論のなかで、今回の「救出」という展示に大きく関係する「救護活動」に関する祖父と私の対話のなかで見えてきたものを紹介する。
私:救助活動も命がけってこと?
祖父:みんな命がけだよ。助ける人も、助けてまう人も。
私:悲しいとかもない?
祖父:悲しいとかもないよ、おそがいとかもない。気持ち悪いとかも思えせん。とにかく、やらなかんでやるだけだ。命令だで。
私:涙も出なかった?
祖父:そんなもん、出えせんわ。やられた人ばっか、’’あぁ、気の毒だったな、やられて’’と思うだけであって。全然だわ。そんなもん、もう、そん時の若さと、軍隊で自由が効かんやつと両方だで。
救護活動中は、なにも考える余裕がなかったほど切羽詰まった状況であったことがうかがえる。1人でも助けてやりたいという思いがあるからこそ、すべてのことを割り切り、軍の命令にただただ従い、無心になって取り組んだのであろう。この対話をするまでの私は、人間的な感情は当たり前にあるなかで救護活動をやっているものだとばかり思っていた。
私自身、これまでは、救護活動中の心情面について、深く聞くことはしてこなかったが、広島訪問を機に、勇気を出して尋ねることができるようになり、それに対し、祖父も思い出さないようにしているとは言いつつも、徐々に語ってくれるようになった。
◎本研究を終えて
会話が持つ治療的効果
「相手に対して」語るのではなく、「相手とともに」語り合う治療的会話により、祖父と私の双方が、互いに影響し合い、精神的に変化し、祖父と私は、ともに、治療者であり、被治療者であった。祖父との対話を重ねるなかで、私自身も祖父が避ける傾向にあった救護活動や遺体処理活動の話題に徐々に深く踏み込んでいけるようになった。研究者が、いまだ語られていない物語を探ろうとすることで、祖父の物語は、空白が埋められ、より詳細になり、変質・進化していった。
被爆者3世という気づき
太平洋戦争、原子爆弾がもたらした影響は、決して過去のものではなく、命を繋ぐという形によって現在にまで及んでいるということを、自分自身が被爆者3世にあたるという事実に気づくことによって発見できた。
22歳の自分という視点から18歳の少年を眺める
あまりにもむごいものを18歳の少年が目にし、感覚が麻痺し、感情を失っていく様子は、22歳の私の目には、少年らしい純粋な心を失っていくようにうつった。当時の祖父は年齢だけで見ると、現在の私よりも4歳も年下ではあるが、逃げ出したくなるような困難を乗り越えてきた当時の祖父の精神面や内面は私よりも、ずっと成熟していたのだと感じた。
ローカルな歴史である祖父のライフヒストリーを研究する意義
入隊して数か月しか経たない海軍の一新兵の目には、一連の歴史的出来事がどのようにうつっていたのか明らかにしてきたことで、祖父の視点から見た軍の上層部による統制、軍の一部の人間だけが知っていた情報、救護活動・遺体処理活動の実情等が浮き彫りになった。太平洋戦争というひとつの歴史的出来事をパズルに例えると、本研究により、その1ピースを提示した。
ライフヒストリーは2人でともに時間を刻んだ生きた歴史であるからこそ、価値があり、人々にとってより身近なものになる。そこにローカルな歴史を祖父と私の対話の中で拾い上げていくことの意義がある。しかし、祖父のライフヒストリーはこれで完結したわけではない。語りによって構成される歴史は、語りが続く限り、詳細に語られ空白が埋められていくなかで、さらに発展し、聞く側にとっても理解が深まる可能性を秘めている。
展望
被爆者・戦争経験者の高齢化が進むなかで、今、それらの人々とともに語り合うことが出来ることを大切にしていきたいと私自身考えるとともに、この分野の研究に関心を持つ人が少しでも増えることを願っている。より多くの被爆者・戦争経験者の貴重な生の声に耳を傾け、それらの人々とフィールドワーカーが対等な立場において共に語るなかで、歴史的出来事を立体的に見る多くの側面を提示し、さらに太平洋戦争中の個々人の他の国々に対する姿勢や関係まで考慮していくグローバルな視点を取り入れていくことで、この研究はより発展していくだろう。