「この街が焼かれたーおざわゆき『あとかたの街』が描いた名古屋大空襲」展を見て
ピースあいち正会員 金子貞子
私が所属している絵手紙の会に『あとかたの街』の1~5巻まで読んだ人が二人います。二人とも今回の展示会に足を運んでいます。
一人はFさん。Fさんのお兄さんは1945年3月13日に東区外堀町で生まれました。空襲警報の度に家族で防空壕の中に入りましたが、助産婦さんは空襲を恐れて逃げてしまい、へその緒の消毒も十分にされず、そこからばい菌が入って3月19日に亡くなったそうです。わずか一週間足らずの命でした。3月12日と、3月19日の二つの大きな名古屋空襲のはざまで生まれ、そして亡くなったFさんのお兄さん。戦後生まれのFさんですが、3月19日になると家族で仏壇にお供えをしているそうです。
もう一人は昭和4年生まれのMさんです。1945年3月、16歳だったMさんは長野の同郷の先輩二人と南久屋の看護学校に通いながら、大須の産婦人科病院で働いていました。夜中に空襲に遭い、病院が焼け落ちるとき大切な医療器具を運び出しもせずに、枕元に置いていたリュックだけを背負って右往左往するばかりだった自分達のことを責めていました。朝になり、田舎へ帰るために鶴舞駅に向かうとき、煙が立ちのぼる残骸の中にたたずむ人や、死骸の前に座り込む人をたくさん見たそうです。
ただMさんは、この空襲が3月12日か19日か24日か、どうしても思い出せないということでした。私の夫が当時の戦災地図を調べて、「たぶん3月12日の空襲だったのではないか」と伝えましたが、Mさんはどうも腑に落ちない様子でした。今回、86歳のMさんと共に「ピースあいち」3階の企画展を一緒に見ることで、わからなかったその空襲の日がわかりました。

おざわゆきさんの絵と、そのそばに掲示された資料や、被災者の体験談を見ながらMさんは「働いていた病院は七ツ寺の隣にあり、上前津から西へ向かう大須通りに面していた」と当時の記憶をたどります。3階にいらっしゃったボランティアの方も地図を見ながら一緒になって考えてくださいました。Mさんもだんだん何かをつかめてきたようでした。2階へ行き常設展を見ると、「激しい空襲を受けて焼失した大須観音付近の本町通りから 七ツ寺の三重の塔を見る…」と書いた1945年3月20日の中日新聞社提供の写真がありました。焼けて傾くその塔をじっと見つめるMさん。その空襲が3月19日のものだったということがはっきりしました。
Mさんは過去に一度「ピースあいち」に来ています。私も何度も展示を見てきたつもりでしたが、それは展示物の前をただ歩いていただけのことでした。こんなに意識して展示を見たのは初めてでした。「出撃機310機のうち291機が上空に達し、午前2時~3時間の間に高度1350m~2750mから1858トンの焼夷弾と爆弾を投下、上前津・大須付近を中心に大きな被害…」それを読むと、その大量の爆弾の下を、まるで私自身も右往左往し逃げまどっているような気持ちになってしまいます。Mさんや、おざわゆきさんのお母さんのように。