私の生まれたまちにも戦争があった◆1945年8月2日 亀山列車銃撃事件  
運営委員    林 和子              



 故郷、三重県亀山市。このまちに生まれ18歳まで育ちました。田畑、里山に囲まれた、のどかなまちでした。今は、住宅地が広がり、帰るたびにまちの様子が変わっています。
 関西線と紀勢線の分岐点の亀山駅。操車場で蒸気機関車の方向転換する作業を眺めながら遊んだ小さい頃。高校の屋上から眼下に見える線路をあきずに見ながら、線路の向こうに夢を描いていた高校時代。
この線路の上にも、戦争があった!

語り手

 「亀山列車銃撃事件」。終戦間際の1945年8月2日におこったこの事件を知らずに育ち、故郷を出て半世紀。昨年の12月、「空襲を記録する会」の東海交流集会で、『かけはし』に出会いました。
 『明日へつなぐ平和のかけはし3-1945年8月2日亀山列車銃撃事件その2』(亀山九条の会発行)には、次のような証言が載っています。

 

 「亀山列車銃撃事件の悲惨さを物語る象徴のように地元で語り継がれているのが、首のない子どもをおぶった母親です。銃撃で頭がなくなり首のところがザクロのようになってしまった子ども。母親は叫びながら、気が狂ったように大声を出していました。誰かに子どものことを教えられ、変わり果てた姿をみて狂乱してしまったのでしょう。夫が出征するので久居の連隊まで面会に行く途中だったとか」

 

 「1945年8月2日、米陸軍第七戦闘機集団のP51戦闘機150機は硫黄島から離陸し、B29爆撃機に誘導され日本に向かった。この部隊の攻撃目標は、関西方面、愛知県、三重県の飛行場、その途中で発見した発電所、送電線、工場、港、灯台、そして列車や駅も攻撃することとなっていた。空襲警報が出ていたため亀山駅で発車を見合わせていた11時30分発の鳥羽行列車は、警報が解除される前12時に駅を発車。鈴鹿川の鉄橋を渡り、阿野田地内のトンネルに差し掛かった12時10分。眼下に列車を発見した2機が蒸気機関車と客車に銃撃を加えた。機銃弾の威力はすさまじく、線路のレールに弾丸が突き刺さったり、貫通したりしたほどで、客車の側面には横一列に銃弾が残り、天井が破壊され、木製の客車の中は壮絶な状態になった。付近では、機銃弾の薬莢が雨のように落下し、瓦が割れた家もあるほどだった。5両ほどの列車には、ほぼ満員の客。列車の中は血の海となり亡くなった方や重症で動けない方が多数。茶農協の倉庫や、駅のホームや陸軍病院に遺体が安置されていた」

 「亀山を出て少したったら、向かいに座っていた軍人さんの首がカクンと前に倒れました。祖父が私を抱いて座席の下へねじ込んだのとほぼ同時でした」「茶農協100坪位の土間にむしろを敷いて次々運ばれてくる方を並べていきました。息のある方もありましたがほとんど息はありませんでした。運んでくる人たちの頭や肩にきれいなピンクの肉片がついていたのを今でも忘れられません。人数はわかりません」

 「何人の方が犠牲になったのか、今もって判明していない。お名前が判明している方はたった8人。列車に乗り合わせた乗客は、亀山にゆかりのない「通りすがり」の方が多いので、犠牲者の調査はとても困難」「駅のホームや茶農協の倉庫に運ばれた方々は、土葬や火葬された」。

 何十人もの方が、名前も分からぬまま戦後70年が過ぎたのです。

 全国各地で、「この街の戦争」を掘り起し、記録する運動が地道に続けられています。
 「『かけはし2号』発刊後、亀山列車銃撃事件を伝えようという動きが出てきた。『亀山市史』に詳しく記述され、亀山市歴史博物館の展示にも加えられた。」と『かけはし』には記されています。

 

 「ピースあいち」では、2月23日から「この街が焼かれたーおざわゆき『あとかたの街』が描いた名古屋大空襲」展が始まります。東京に次ぐ大きな犠牲と被害を受けた名古屋の空襲の実相。おざわゆきさんのマンガコミック「あとかたの街」をベースに証言や資料、日本側公的資料や米軍資料などから市街地空襲について考えるという企画展です。ぜひ、ご来館いただきたいと思います。