◆竹内浩三Who◆浩三さんの生誕祭に参加                      ボランティア 桐山 五郎



 アジア・太平洋戦争の末期、比島で戦死した詩人、竹内浩三(1921~45)の生誕祭(5月10日)が、故郷の三重県伊勢市で開かれた。同じ日に、彼の詩(二編)を記したモニュメントの除幕式(浩三の生家跡)もあった。

語り手

本堂赤門正寿院の外観

 1921(大10)年5月12日、浩三は、山田(現伊勢市)で生まれた。毎年この12日前後の日曜日を選んで、生誕祭が開かれる。会場は、外宮と内宮とを結ぶ街道沿いの浄土宗赤門寺正壽院である。赤門寺の壁は深い朱色で塗られ、その色が印象に残る。

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赤門正寿院の本堂

 今年の生誕祭も、本堂のご本尊さまの前で行われ、用意された椅子は満席で、市の内外から約130人が集まった。戦後70年の節目の今年は、画家のよしだみどりさんの司会と語りで進められ、地元の小・中・高校生が浩三の詩や短編から、自分が選んだ一編を朗読した。
 初めに女子中学生が、浩三の詩「わかれ」を、ゆっくりした調子で読んでくれた。浩三は、よく山田弁で文章を書く。浩三の文は、山田弁で表現すれば一層引き立つ。雨の夜、出征直前の新宿。「…雨の中へ、ひとりずつ消えていく…おい、もう一度、顔みせてくれ…」、暗い中に、溶けるように人影が消えていく情景を表現した。
 こうして、浩三の詩が生徒たちによって、次々と読みすすめられた。
 終盤に「勲章」の朗読があった。兵士になった男が、戦場で手柄をたて、いっぱい勲章をもらった。61歳になって退役した彼は、勲章にふと疑問を抱く。やがて、疑問は大きく膨らむ。浩三21歳、1942(昭17)年の創作。86行の短編小説(岩波現代文庫「戦死やあわれ」より)であるが、最後の3行に、突然この短編の主題が飛び出し、そして、ストンとお話は終る。

 

 この短編を読んでくれたのは、浩三の姉コウさんのひ孫にあたる男子高校生である。最後の3行までは話の展開の面白さにひかれて聞いているが、そこにくると聞き手は虚を衝かれ、何人もの人が同時に声を出して笑った。その笑い声が消えないうちに、「あれっ」…口が半開きのまま終幕する。浩三の意図した通りに、男子高校生のねらい通りに、朗読は見事に終った。

 

 主催した「赤門三ツ星会」の人々は、次のように言う。
 「浩三さんは、70年前になくなり、今、生きておれば93歳になる。浩三さんの文や詩、日記は、23歳までに創作され、記述されたもの。だから、若い人には、浩三さんの思いに共鳴できる作品が、たくさんある。ぜひ読み継いで欲しい。今年の生誕祭は、それを願って企画しました。」

 70年前に、23歳まで生きた若者が、日記や創作した作品を残して戦場に消えた。その残していったものが、今も生きている。それを実感する生誕祭であった。

 

 生誕祭の最後に、浩三さんの詩を世に広めるきっかけつくった高岡庸治さんが紹介された。元松阪市社会教育課課長で、「戦没兵士の手紙集」を発行(昭41,1)した責任者だ。松阪市は、戦没遺族の協力を受けて、戦没兵士の手紙を収集した。その手紙の中に、巻頭を飾ることになる、浩三の「骨のうたう」があった。発行されると、松阪市と姉のコウさんのもとに、問い合わせがくる。たくさんのメディアが取り上げ、反響は全国に拡がった。