名東区にあった空襲                  ピースあいち戦跡班 金子 力



 「ピースあいち」のメールマガジン『シリーズ戦争を考えるための遺跡』①に「名東区周辺には戦災の痕跡を見ることはできない」と以前書きました。ところが、今年の3月に企画展『名古屋大空襲から70年』を見学された方から「猪高村猪子石原にあった空襲」についてのお尋ねがありました。1946(昭和21)年に発行された『名古屋市焼失区域図』には猪高村は名古屋市ではなかったので爆弾・焼夷弾の投下地の表示はありません。その方によると、猪子石原の民家が焼失しているとのことでした。

 戦前・戦中の猪高村の記録がないか調べたところ、昭和34年4月発行の『猪高村誌』があることがわかりました。猪高村は昭和30年4月に名古屋市に合併しますが、旧猪高村の歴史を残すために『村誌』が編纂されていました。猪高村には、高針・一社・上社・藤森・猪子石などの地名があり、丘陵地のあちこちに大小150のため池があったといいます。そんな猪高村が米軍機にねらわれたのはなぜか、その疑問を解くために『村誌』をみていくと、空襲の記述がありました。4回以上あったとされる空襲を表にすると次のようになります。



年月日 1944年12月13日 1945年1月2日 1945年3月24日 1945年6月26日
時刻 13:00 記載なし 22:00 10:00
地名 大字藤森本郷
大字猪子石新田
大字一社字山の田 大字高針、東一社、西一社、上社、猪子石 大字高針字西山大廻間、猪子石字引山中島、猪子石原
被害状況 ・本郷集落は焼夷弾によって20世帯43棟焼失、
・猪子石新田集落は爆弾によって長福寺など十数戸焼失
迎撃中の日本軍機墜落、搭乗員死亡 猪高村最大の被害がでる。家屋の焼失倒壊、爆風による半倒壊、死者6名 ・高針で焼夷弾による火災
・引山で焼夷弾による火災
・猪子石原で焼夷弾による火災
罹災者 54名 23名 30名
防空資料 『愛知県防空総本部12月13日空襲被害』に愛知郡猪高村猪子石の着弾記述 『愛知県防空課3月25日空襲被害状況一覧』死者8名、重傷1名、軽傷2名 『愛知県防空課6月26日空襲被害状況表』に愛知郡猪高村高圧線一部断線の記述
米軍資料 任務番号12番
目標三菱発動機
B-29 73機
爆弾・焼夷弾
任務番号45番
目標三菱発動機
B-29 225機
爆弾・焼夷弾
任務番号226番
目標千種造兵廠
B-29 31機
爆弾


下の地図は『猪高村誌』についているものです。

 名古屋市に合併する前の猪高村の様子がわかります。よもぎ台にある「ピースあいち」の位置を「ピース」と入れてみました。この地図を見る限り、猪高村は山林の中に田畑・ため池・集落が点在する典型的な農村の姿を示しています。ではなぜ、猪高村に爆弾や焼夷弾が落されたのでしょう?
 米軍の名古屋空襲の最大の軍事目標は東区大幸町にあった三菱発動機でした。そこはゼロ戦(零式艦上戦闘機)をはじめ日本軍用機のエンジンを製造する巨大工場でした。米軍の記録では名古屋を襲ったB-29部隊は三菱発動機を目標とする攻撃を1944(昭和19)年12月13日、同22日、1945(昭和20)年1月23日、2月15日、3月25日、同30日、4月7日と執拗に繰り返しています。目標の三菱発動機工場は猪子石原から西へ1.5キロのところにありました。米軍のねらった工場の中心(照準点)から3.5キロしか離れていませんでした。

 30,000フィート(約9,000m)近い上空では偏西風も強く、目標に投下することは困難であったようです。1944(昭和19)年12月13日の三菱発動機への攻撃後、米軍は偵察機から撮影した空中写真を分析して、爆弾の着地地点を調べています。照準点から直径4,000フィート(約1,200m)の円内への着弾は一定数あったものの、1,2000フィート(約3.600m))離れた猪子石に着弾したものもありました。

 下の図は米軍の12月13日、三菱発動機への攻撃で爆弾が着弾した位置を示したものです。(『XXI爆撃集団作戦任務報告書第12番』より)

 

 米軍資料や日本側記録と『猪高村誌』から12月13日と3月24日(着弾は0:00を過ぎて25日)は三菱発動機をねらったものであることがわかります。6月26日は千種区にあった造兵廠をねらった攻撃が行われていることから、その時に投下されたものではないかと思われます。いずれにしても「名東区周辺に戦災の跡は見られない」と書いたメルマガは間違っていたことが、今回のお尋ねで判明しました。訂正させていただきます。貴重な情報をいただきありがとうございました。

 旧名古屋市内、豊橋、豊川、岡崎、半田、一宮など規模の大きい空襲を受けた地域の記録は行政が残しているのですが、守山区はじめ周辺の空襲被害については具体的な事実を示した記録や被災状況はまだ発掘されていません。戦後米軍が撮影した空中写真に爆弾のクレーターが写っていることもあり、そうした写真を基に空襲の事実を明らかにする研究も始まっています。今後とも貴重な情報や証言をピースあいちにお寄せいただきますよう、お願いいたします。

 『愛知郡図』に米軍の攻撃目標と着弾写真、地元の空襲記録から「ピースあいち」周辺の空襲についてわかったことを書きこんでみました。高射砲陣地、照空隊陣地、補給廠などがあったという証言もあります。