◆戦争の記憶③◆あの日の広島  
天白区在住 70代男性             



 あの日のことは今でもはっきり覚えています。広島に「ピカドン」が落とされた時、私たち家族は広島市郊外の向洋(むかいだな)に住んでいました。当時、私の父が勤めていた東洋工業(現在のマツダ)の近くで、私は府中国民学校の2年生でした。当時は夏休み中でも午前中だけ授業があり、8月6日も歩いて30分の学校に午前8時頃に着いて、2階の教室の中にいました。授業が8時30分からだったので、まだ運動場で遊んでいる子どもたちも大勢いました。

 

 8時15分頃、空襲警報が鳴りピカッと光ってから、すぐにドカンというもの凄い音がして机の下にもぐり込みました。土煙がおさまり、教室をみると、窓ガラスは全部割れ、土壁が落ち、竹の骨組みだけで、隣の教室が丸見えでした。すぐに校内放送で防空壕へ行くように言われ、防空頭巾を被り、鉛筆1本を持ち、運動場の隅にある防空壕へ避難しました。
 その日は雲が多いものの晴れて暑い日でした。しばらくすると空襲警報が解除になり、ランドセルや本、ノートを教室に残したまま家に帰りました。教室を出るとき裸足だったためガラスで足を切ったようですが、家に帰るのに必死で、帰ってから傷があるのに気がつきました。

 

 その日の午後からは、広島市内で被爆して大火傷を負った大勢の人が服もボロボロに焼け、「水をくれ」と向洋に逃れて来ており、子ども心にとても悲惨で見ていられませんでした。その夜は停電していて、再度空襲があるかもしれないと家の近くの小さな山の上にあった防空壕に入りました。広島市内を見ると、明るく真っ赤に燃えていたのを覚えています。
 私の父は原爆が落ちた時、会社の前の海辺にいて、爆風で4~5メートルほど吹き飛ばされたそうですが、幸い怪我もなく無事でした。

 

 その頃、町内では、広島市内への空襲に備え火災による類焼を防ぐため建物疎開に2軒ずつ動員されており、その日広島に出かけた人は目だけ出した包帯だらけの姿で帰ってきましたが、数日後に亡くなりました。
 終戦後、22年の冬、私たち一家は親戚のいる名古屋に帰ることになりました。広島駅から列車に乗る時、寒い朝の駅にたくさんの戦争孤児がムシロを被って寝ていたのを覚えています。親は原爆で亡くなり、子どもたちは疎開して助かったのでしょう。当時の広島は悲惨でした。
 今回初めて、「ピースあいち」を訪れ、自分の体験を伝えることで、このような悲惨な戦争を二度と繰り返してほしくないという思いから、お話させていただきました。世界から一日でも早く戦争がなくなる事を願っています。
                (来館中の男性にお話をうかがいました。記 編集部・林)