震災直後何度も写されていた光景が今も変わらず目の前に◆福島にて ボランティア 松本 雅子
2月28日・3月1日、職場関係の福島視察の企画があり、こんな機会は滅多にないし、自分の目で「福島の今」を確かめたいという思いもあり、思い切って参加しました。
日程は1日目、14時に集合後、福島県庁にて『被災地福島の現状』を説明いただき、その後バスで福島市内にある浪江町仮設住宅を見ながら宿舎へ。
2日目は全村避難の飯舘村を通り、除染の様子や仮置き場の様子を見ながら南相馬市へ。南相馬小高区9条の会の方から説明を受けながら、浪江町役場→諸戸漁港周辺→駅前周辺→吉沢牧場→小高地区という日程でした。

緊張と、知りたいと言う気持ちが錯綜した落ち着かない気持ちでした。
福島県庁では、ご自身も被災しながら支援のために飛び回ってみえる案内の方から、資料を見ながら、今福島が抱えている問題を細部にわたって説明いただき、大まかな予備知識を得ることができ、リアルタイムで現状が頭に入ってよかったです。そして、「何より福島を訪れてもらい現状を知っていただくのがいちばん」 と言われ、万難を排して来て良かったと思いました。
全国的に福島の報道が減っている中(その中でも中日新聞はがんばって原発の報道をしてくれています。)、汚染水漏れのニュースが出るたび「どうなっているんだろう」と政府と東電に怒りを覚え、抗議の集会などに参加していましたが、3年たってもほとんどの住民が置き去りにされ、分断され、ないがしろにされている今の現状を知り、さらに歯軋りしたいほどの悔しさと怒りを覚えました。

しかし実際にバスの窓から見た仮設住宅、ゴーストタウン化した町並み、今も船や瓦礫がそのままの汚染地、放牧され汚染した牧草を食べている牛たちを見たとき、それは怒りではなく…悲しみ、切なさでした。無人化した町並み、廃墟を見たとき、これが原発の本当の恐ろしさだと、背筋がぞっとしました。そしてなぜか涙が出てきて止まりませんでした。
誰もいない町で走り回っている車は除染作業の人たちのだと教えられました。大手の建設業者が請け負い、その孫請け、曾孫請けの会社が作業しているのだそうです。ここでも大企業は安全な東京でぬくぬくとし、大きな営利をむさぼっているのです。危険な数値の中、黙々と袋詰めをしている作業員の姿にやりきれない思いがしました。
除染しても風の向きや、汚染水が出続ける限り、また新たに汚染は広がっていくのです。莫大な費用をかけて、汚染土壌を少しでも取り除けば住めるようになると、政府が復興を進めているかのようなポーズを取っているだけに見えてなりません。
浪江町役場では偶然町長さんたちに会えました。事故後3年たっても先の見えない町の復興に尽力されている彼らの苦悩をひしひしと感じました。役場の中に掲げられた「帰町準備室」のプレートに胸が痛みました。帰れる日は来るのだろうか。
請戸漁港付近(津波の被害が最も大きかったところで多くの人が亡くなった)は息を呑む光景が広がっていました。震災直後何度も写されていた光景が今も変わらず広がっていました。大きな船や建物の残骸があちこちに転がり、瓦礫はところどころ集められてはいましたが、それを処理することもできずそのまま3年間も手付かずに放置されているのです。
はるかに福島第1原発の煙突が見えました。唯一の救いは建物だけ残った請戸小学校で、教師たちの機転で何キロも離れた山まで全員で走って逃げ、全校生徒が助かったと言う話を聞いたときでした。
最後に訪れた吉沢牧場では広大な牧場の中、非常に多くの牛たちの姿にびっくり。他の地域の汚染牛も面倒見ているとのこと。ここは、汚染濃度が高いこともあり最初入るつもりはありませんでしたが、何人かが牧場の中へ歩き始め、結局全員中へ入らせてもらいました。
あの大混乱の中、避難命令が出たにもかかわらず、生きた牛を放置することはできないと、吉沢さんたちは検問をかいくぐり牧場に通い水やえさを与え続けました。しかし国からは殺処分の命令が来ました。吉沢さんたちはたくさんの人たちと話し合い、「ここに生き残っている牛は福島原発事故の生きた証人である。被爆実態の調査・研究を通して今後の放射能災害の予防に役立つ貴重な科学的データだ」と位置づけ、大学の獣医学チームとも協力してがんばっています。
何より私たちを見つめる牛たちの目が「僕たちはみんな知ってるよ」と語りかけているようで正視できませんでした。
過去の歴史の中でも日本は幾つもの地震や災害に襲われ、それでも不屈に立ち上がり町を再建してきました。しかし原発事故災害だけは、どうあがいても元どおり再建することはできないのだと改めて思い知らされました。私たち人間の英知を駆使しても、ひとたび事故が起こったら決してコントロールできるものではないと、まざまざと見せ付けられました。
この企画に参加し、ご自分たちも被災した大変な中で、福島の方たちががんばっていることを知り、重く打ちひしがれた気持ちの中で少し勇気が出てきました。私も微力ながら職場の仲間、周りの人たちにこの「福島の今」を知らせ拡げていきたいと思います。