風船爆弾を語り継ぐーラジオ番組発表会に参加して 運営委員 稲田 浩治

去年の11月30日、「ピースあいち」で「私は伝えたい、風船爆弾がつくられていた椙山女学園高校・大学生作成のラジオ番組発表会」が開かれた。
当日のプログラムは、第一部が「高校ラジオ番組の上映」「大学・映像作品の上映」で、第二部が「意見交換会・まとめ(作品を制作した高校生・大学生から/風船爆弾づくりを証言した卒業生から/椙山女学園高校での平和教育実践報告/会場の参加者から)」と、多彩であった。
司会進行は、椙山女学園大学の栃窪先生が務められた。会場は準備段階から詰めかけた女子高・大生と一般客とでぎっしり、静かな熱気とでもいうべき雰囲気に包まれた。
「風船」というと、私はまず、小さい頃富山の薬売りのおじさんがくれた紙風船を思い出す。その人は、毎年決まった時期に大きな風呂敷包みを背負って我が家を訪れ、薬の補充をして立ち去ったが、帰り際に必ず色どりの美しい、つやのある紙風船を置いていってくれた。それを上がり框から畳の上へいざりながら撞(つ)いて遊んだものである。今から思えば、戦後間もない時分のことである。
だから、初めて「風船爆弾」という言葉を聞いたとき、「風船」と「爆弾」とは、私の頭の中でどうしても結びつかなかった。風船が爆弾になるとは、どういうことだろうか。しかし、そんな疑問を残したまま、それ以上知ろうとはしなかった。何か、取るに足りない、稚気に属することのように思われたのである。
ところが、今回の発表会に参加して、私は生々しく「風船爆弾」をイメージすることができた。あまつさえ、その製造に携わった元女学生の証言を通して、場所、工程、作業場の空気、彼女たちの心情などを知り、考えさせられた。

第一部
「高校ラジオ番組の上映」
「大学・映像作品の上映」
「風船爆弾」とは、何か。戦争末期に紙で直径10メートルほどの気球を作り、それに爆弾を吊り下げ、これを高度1万メートルの上空に上げ、偏西風に乗せてアメリカ本土を攻撃しようとした兵器のことであった。ほとんど狂気の仕業である。
この気球は、こんにゃく糊で和紙を何枚も貼り重ねて作り、中に水素を詰め、その下に制御装置とともに15キロ爆弾と5キロ焼夷弾2発をつけて放たれた。
この風船爆弾は、およそ1万個造られ、約9,300発が福島、茨城、千葉の海岸から放たれたといわれ、アメリカ各地で山火事が起き、1945年5月、オレゴン州ではその不発弾に触れた民間人6人が死亡したという。当時の秘密兵器で、「ふ」号兵器と呼ばれたが、この製造に全国各地の学徒動員の女学生が従事させられたとのことである。
さて、椙山女子専門学校の場合はどうであったか。高校放送部制作のラジオ番組「伝えたい風船爆弾の記録」は、その模様を極めて要領よく、リアルに伝えていた。
-「前畑がんばれ」の放送で有名な、ベルリンオリンピックの女子200メートル平泳ぎの金メダリスト前畑(兵籐)さんを育てたプールが、風船爆弾造りの工場だったとは!そこに当時の女学校1,2年生のうち3分の1の120人が集められ、秘密作業に当たったとは!―
驚くべき事実である。あの戦争は学校も生徒も、利用できるものは何でも利用し、犠牲にしてしまっていた。
証言者徳田さん(81歳)の、「先生が最初におしゃったのには、これはすごい兵器なんですよ、秘密の。これさえできれば、今負けているみたいだけども、盛り返すとか」という言葉からは、先生の興奮した口ぶり、それを聞いて気球作りにがんばろうとする女学生の姿が目に見えるようである。
証言者堀井さん(82歳)は、「はたからは見えないんです。塀をしちゃって。ほいで、時々憲兵が回っておりました。秘密作業だから」と、作業場の異様な様子を具体的に語られた。
また、徳田さんは「とにかく、ずいぶん高揚した気分というの。国のために尽くせる、ただそれだけだったんですよね」「言わなかったですね。友達にも言えないというか。戦争中のことは臭いものにふたをするというような、そんな風潮もあったような気がするんです」と、戦中戦後の胸中の思いを吐露された。そこには、軍国少女の純真さがうかがえた。
大学生製作の「ドキュメンタリー私は伝えたい!風船爆弾~学徒動員・女学生の証言」は、高校生のラジオ番組作品と同工異曲といってよかろう。しかし、こちらはもともとドキュメンタリー映画として作られたものであり、取材範囲も旧陸軍の登戸研究所跡(隣の資料館)、江戸東京博物館、椙山歴史文化館などと広く、内容も風船爆弾のみならず、戦争末期の学校教育の様子や名古屋空襲の被害にも及び、それらを活写して説得力があった。
証言者の話では、井上さん(82歳)の、「つらくったって、国のためだからって気持ちでやってましたね。だから、今から思い出しても楽しい思い出しかない。そのとき一生懸命、その純粋な気持ちで働いたという、その気持ちの楽しさ」という言葉が、特に印象深かった。
いずれにしろ、3人の証言者の言葉には当時の軍国主義教育の成果が十分すぎるほど見て取れた。それゆえに、私は少なからず違和感を覚えた。
もちろん、国家も教育も教師も悪い。間違っていた。しかし、個人として自分が女学校時代に何をしたかを反省する機会はなかったのだろうか。仮にも人間の殺傷を目的とする「秘密兵器」の製造に関与していた人たちとは思えないくらい、明るく楽しげに「思い出」を語られるのが、不思議であった。
第二部「意見交換会」
栃窪先生の、ラジオ番組や映画作りに携わったスタッフへの質問から始まった。指名された女子高・大生は、それぞれの立場から次々に発言した。
○「私たちの学校で(風船爆弾を)つくっていたことにびっくり、楽しく誇りを持ってつくっていたといわれたことが一番(の驚き)」
○「何を伝えるかに苦心した」
○「平和の大切さを訴えたいと思った」
○「今こそ戦争体験を伝えなくてはいけないと思った。伝えることの大切さを感じた」
いずれも、短くはあったが、思いのこもった言葉で胸に迫った。
次に、この日のために来館されたお二人の証言者堀井さん、井上さんが立たれた。お二人は、映画のできに満足しておられるようで、多くを語られなかった。
続いて、今回のラジオ番組、映画制作のきっかけを作られた先生のお話があった。校誌を作っていて風船爆弾に興味を持ち、証言者を見つけ出すまでの経過を語られた。これも貴重な証言だと思って聞いた。
要点のみであるが、以下のような発言があり、終了した。
○「ピースあいち」野間館長「一番感動したことは、若い人が語り伝える側に立って語り継いでくださったこと」「純粋な気持ちで(秘密兵器を)造ったとおっしゃった純粋の恐ろしさ」「(秘密保護法が出てくる)今とつながる問題がいっぱいある」
○椙山歴史文化館の椙山館長「語り継ぐことの大切さを生徒は学びました」「椙山歴史文化館には『椙山女学園と戦争』のコーナーもあります」

○椙山の某先生「椙山では平和実践講座を開いて、平和学習に力を入れています」「中学校では沖縄修学旅行を中心とした平和学習、高校では長崎を中心とした平和学習を。「ピースあいち」のプチギャラリーで、その平和教育実践の成果を発表しています。今日から25日まで」
意義深い2時間だった。今回の企画に関係された多くの方々に、心からお礼を申し上げたい。