8月1日(木) 「空襲・暮らしの体験」 間瀬時江さん(89歳)
間瀬さんは知人から戦争体験を聞き取り、それを絵に描いてこられた。これが今回のお話のベース。この絵の背景については、娘さんが米軍の作戦を調査し、お話の奥行を深められた。
参加者の注目を集めたのは、国宝名古屋城焼失と空襲下、男手のない中での女性・子どもの生活苦の話、半田の中島飛行機での勤労体験。なかでも三河地震で多数の友人を失い、戸板にのせて火葬場に運んだこと。九州知覧で見た航空機「天山」が、中島飛行機で自分たちが組み立てたものであったこと。
8月2日(金) 「空襲・暮らしの体験」 服部孝子さん(80歳)
1945年(敗戦の年)5月の空襲で、南区の我が家は焼失。その焼跡で一日中呆然と座っていた。女学校へ入学しても全く勉強せず、農耕など勤労の毎日だった。天皇の玉音放送を聞いて、これで逃げなくても済むとホッとした。一緒にいた軍人は、備蓄物資を車に乗せ逃げ去った。
このような体験は、次世代の人に二度とさせてはいけないという、思いのこもったお話だった。
8月6日(火) 「広島原爆体験」 石原隆さん(86歳)
8月6日は夜勤明けで、寮に戻ろうとした時にフラッシュが目の前で光り、危険を感じて毛布をかぶった。爆風と爆音でもう駄目かと思った。外を見上げると火の玉が輝いてゆっくり上昇するのとB29の翼が見え、パラシュートが落ちてきた。窓ガラスが飛び散り、何が起きたのかわからなかった。外にいた人々は全員、はがれた皮膚が手からぶら下がり、負傷者がどんどん工場の中へ入ってきた。被爆した人19万人。10日に呉に移動するまで、街は毎日燃え続けた。宿舎の跡地で兵器をつくり続け、15日の放送を聞き、東へ行く列車で帰名。チフスにかかり一カ月意識がなかった。自分の心と体を大事に生きてください。
8月7日(水) 「学童疎開・空襲体験」 小島久志さん(80歳)
1944年8月、国民学校6年男子組77名に加わり、三重県員弁郡の寺に集団疎開。朝の読経で授業が始まり、「教育勅語」や「戦陣訓」の暗唱が日課。用水路で体力づくりの水泳訓練、雑木林で食材の草採りも、国のために命を捧げる精神力の養成に繋げました。
不安と緊張の中、唯一の楽しみは食事。かぼちゃの団子汁が定番。翌45年3月、空襲が激化した名古屋の家に帰りました。12日未明、「空襲警報」で土間の防空壕に潜り込みました。戸板の隙間から照明弾で浮かび上がったB29の編隊が堂々と飛行するのを見ました。
明るくなった頃、従妹が「家の防空壕で母と5人の弟妹が焼夷弾の直撃を受け全滅した」と涙声で駆け込んできました。叔母も「家も全焼した」と…。空襲の惨禍が我が家にも降りかかってきました。
8月8日(木) 「空襲・学徒動員」 望月菊枝さん(83歳)
名古屋市第三高女で軍需工場へ勤労動員。三菱大曽根工場や移転した瑞浪の工場で「部品にヤスリをかける」「計器に塗料をつける」作業。電車の車掌なども女学生の動員仕事だった。昭和19年1月23日、第三高女の防空壕が焼夷弾の直撃を受け、42名が死亡。同級生を教室の戸板にのせ、看護した。人の皮膚、髪の毛、衣服が電線に…余りの凄惨な光景に頭が真っ白、呆然の状態。
食べるものはなく、お弁当にはごはん1/4杯、じゃがいも1/2個、塩味もない。いつもひもじい思いでいた。授業は月に1回。学校へ行くのが楽しみだった。帯芯で作った足袋を下駄にうちつけ靴として使っていた。
戦後、わら半紙で作った教科書、墨を塗った古い教科書を思い出します。戦後、音楽の時間に初めて習ったのはアメリカの国歌でした。
8月11日(水) 「父の沖縄戦を語る」 中村桂子さん(60歳)
中村さんの父・日比野勝廣さん(享年85歳)は沖縄戦で負傷し、糸数アブチラガマに三ヶ月間取り残され、奇跡的に助かった一人。日比野さんは「私の命は沖縄の民に、沖縄の自然に、守られ、救われた。」「私には毎日が命日。戦争は命を使い捨てにする。勝っても負けても悲惨だ。次世代へ平和への努力を託します。」と、戦争の悲惨さと平和の大切さを訴え続け、平成21年に永眠されました。
中村さんは、「父の思いを受け継ぎたい。平和を思うだけではなく、行動しましょう。」と呼びかけました。
8月13日(火) 「シベリア抑留体験」 河村廣康さん
昭和19年1月25日、大阪連隊に21歳で入隊。2週間後満州(奉天)の193(イクサ)歩兵部隊に配属され戦車の通信士となる。日本は資源がなく銃は10人に1丁、5人に1剣。教育も撃ち方のみでした。終戦後シベリア・バイカル湖近くのタイセットに送られ過酷な日々でした。収容所は、バラックの板造り、真冬は-30℃で天幕には5cm位の氷が張り、夏は30℃、蚊やブヨに悩まされた。“腹一杯食って死にたい”黒パン一切れと僅かなスープだけの食事で栄養失調の上に、鉄道の枕木用の松の伐採は重労働。1本で捕虜が1人死ぬといわれた。“全員生きて帰ろう”唯一の願いも叶わず・・・。遺骨収集は戦後処理の重要問題として早急に実施してほしい。異国の地に眠る30万ともいわれる同胞のために!
8月14日(水) 「学童疎開体験」 木下信三さん(78歳)
小3の妹・みちことともに岐阜県の恵那郡福岡村に学童疎開した。宿舎は当時の北恵那鉄道の「田瀬」駅近くにあった田瀬公民館で、同じ宿舎でも男子と女子に分かれていた。見えはするが、話のできる位置ではなかった。食事事情が悪く、野草の入った「天井が映る」と言われた雑炊などで、栄養失調だった妹が下痢になり、親元に替えパンツの要請手紙を書いたりしたことも・・・。
妹の体調は悪くなる一方で、妹を引き取りに来るように親に手紙を書けと言われ、やがて父が迎えに来て妹の疎開は終わった。病弱な妹のことを心配して一日たりとも心の休まることのなかった信三少年は「妹がいなくなって、本当に気が楽になりホッとした」。その妹さんは中学を卒業して間もなく亡くなるが、その命日3月31日がこの兄妹の学童疎開に出た日だった
8月15日(木) 「満蒙開拓団の記録」 平田和香さん(72歳)
国策による開拓団の編成は、第1次から14次まで。愛知県は9次に応募。三合三河開拓団600戸。平田さんは、帰国者からの体験を「語り継ぎ部」として伝えている。
昭和恐慌に苦しむ農民は、国策である「王道楽土」を夢見て、入植地に向かう。食べるのに苦労はないが、土地は中国の人々から奪ったもの。昭和20年8月14日付の召集令状を受け、開拓農民は北蒙の軍師団に出頭。ところが軍はすでに撤退。初めて敗戦を知る。軍に遺棄された開拓民は、途中で死者を埋葬し、各自の責任で逃げる。収容所にたどりついた人は幸せ、そこは幽霊屋敷のようだったが・・・。
帰国するも満蒙入植時に人手に渡したため土地はない。開拓民は慰留してほしかったのか、国は帰国船の支援も、帰国後の生活も全く考えてくれなかった。翻弄された悲しみの歴史であった。