ボランティア雑感◆春三月に思う  戦中派のつぶやき ボランティア 並木 和子(85) 


                                                 
 

 平成25年も  春は名のみの 風の寒さや   谷の鴬 歌は思えど
    時にあらずと 声もたてず ・・・・・・
に始まる 「早春賦」 の旋律が思い出される3月 に入った。

  未だ肌寒い中にも、木蓮の芽が日々に膨らんでいるのがよく分かる。でも庭に飛んできている鴬は未だ鳴かない。繁殖期にならないとホーホケキョ とは鳴かないそうだ。
  毎年巡ってくる季節の中で、3月は春を感じる良い季節ではあるが、記憶の中の3月には胸に重たく突き刺さるものが幾つもある。

3月1日、ビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が被爆した日。
  云うまでもなく、昭和29年3月1日にアメリカはビキニ環礁北東の海上で水爆実験を行い、このため、近海でマグロ漁をしていた「第五福竜丸」は死の灰を浴び、船員の久保山愛吉さんが半年後に放射能による被爆で死亡したのをはじめ、その他の乗組員の方も被爆による後遺症に苦しんだ。
  2009年3月に、被爆福竜丸の当時一番の若い乗員だった大石叉七さんの講演会がピースあいちで行われた。大石さんには、あまり知られていない被爆後のつらい思いがいろいろ有ることも初めて知り、胸が痛んだ。「ビキニ事件」は、今後も次の世代に日本人として忘れてはいけない事として語り継ぐ責任が今を生きる我々にある。大石さんには、これからも生き証人としてお元気で語り続けていただききたいと切実に感じた事を思い出した。

今年の3月1日 17:30~ NHKテレビ ではナビゲーション「ビキニ事件59年目の新事実 海の放射能は今」 を放映していた。画面には、59年目の海の放射能を測定している理研の元仁科研究室の岡野眞治さんの顔がアップされた。
 岡野さんはビキニ事件直後、水爆実験海域の放射能汚染状況を調べに入った科学者の一人で、約60年前の理研時代の友人である。懐かしくなって「今見てるよ」と電話を掛けてみると元気な声が返ってきた。「名古屋では放映してるの、 東京では放映されていないよ。」との事。4年前に大石さんに来ていただいた話をしたら、その後体調を崩されているとの事。心配である。
  59年目は節目の年ではないにしても、3月1日その日に東京で「ビキニの水爆実験」が番組に入っていないことに驚いた。この番組の放映状況をNHKに電話して尋ねたところ、出てきた人がビキニ、福竜丸が分からずトンチンカンな応答、ナビゲーションと云ったら、やっと「それは地方番組です。」との答えが返ってきたのにはまたまた驚いた。
  ビキニ環礁での水爆実験、第五福竜丸の被爆、原爆マグロを埋めた等の事がどんどん忘れ去られ、風化しつつあるのではないだろうか。

3月10日 東京大空襲の記憶
  昭和20年当時、私は17才。学徒動員で上野に近い尾久の陸軍造兵廠で大型の旋盤を使って深夜労働をしていた。(参考資料)
  真夜中の0時頃だったか不意打ちのようにアメリカ軍B29の大編隊が飛来し爆撃が開始され、我々動員学徒は工場の外に掘られたあまり大きくない防空壕に逃げ込んだ。
  この空襲が露骨に民間人を対象にした無差別爆撃の始まりであった。
  駆け込んだ防空壕の中から見た、超低空で羽を広げた大鷲のように襲いかかってくるB29の黒々と光った機体、ザァーという焼夷弾が落ちてくる不気味な音、そして阿鼻叫喚と共に周囲全てが炎に包まれた様子が68年経った今も忘れられない。

  下町全部が焼け野原になったのに、不思議に陸軍の工場には焼夷弾が落ちず朝を迎えた。交通手段はもちろん何も無く、高田馬場の自宅まで山手線7区間を線路の上を、トボトボと放心状態で歩き続け、疲れ切ってたどり着いた我が家で飛び出てきた母親の涙をみて正気に返り、ドット倒れ込んだような気がするが覚えていない。
  下町方面全滅の情報で、母親が極度に心配して憔悴していた心情が、本当に理解できるようになったのは自分が子どもを持つ身になってからだった。”そんな危険な所にはもう子どもは行かせられない”、また、”怖いからもう工場に行かない”という感覚が昭和20年当時には無く、次の日も同じように工場に行って深夜作業をした。

  その一夜の死者約10万人。炎にまかれ、熱さで川や小学校のプールに次々と飛び込んだ人々が無惨に亡くなった悲惨な状況の話は後で聞いた。
  再び、こんな馬鹿げた事が日本で起こっては絶対にいけない。忘れてはいけない。風化させてはいけないと思うが、何やら、変な足音が聞こえるのは、気のせいだろうか。
  つい最近、「東京大空襲から66年の歳月を経た2011年の夏、存在しないとされていた東京大空襲を記録した583枚の被害写真が東京・文京区のある民家の押し入れの中から発見された」と聞いた。誰があの空襲下で写真を撮っていたのかと耳を疑った。軍のもとで許可を得た報道カメラマンにより撮影されたもので、奇跡の連続で66年の眠りから覚めたもののようだ。
  その一枚一枚には、空襲の実相とともに、人々の恐怖、悲しみ、無念さが撮し出されているとか。「 風化させてはいけない。」と云いながら思い出したくない気持ちの所に・・・、複雑な心境になった。

3月8日、朝日新聞の「声」欄
  投書欄を何気なく見ていて「3.10 3.11 ともに心に刻む」の一文に釘付けになった。作家早乙女 勝元(東京都 足立区 80)。        
  ただ作家とあるが、東京大空襲・戦災試料センター館長の早乙女さんと思われる。この投書を読んで、私は今年の3月10日には東京大空襲の記事は無いと予感し、的中した。
  3月10日朝日新聞に「東京大空襲」の記事は見当たらなかった。やはり戦争の風化が着々と進んでいる。朝日新聞を読まれた方には重複するが、早乙女さんの投書と次の日(3月9日)の天声人語を転載します。

3月8日、朝日新聞の「声」欄
「3.10 と 3.11 ともに心に刻む」
作家 早乙女 勝元(東京都  足立区 80)

  3月10日(1945年)の東京大空襲の後、下町地区は一望の焼け野原だった。当時私は12才だったが、学校は丸焼け、焦土をさまよっては、めぼしい物を拾う日々だった。
  焼け土を掘り返す人々の先に、難破船のような鉄筋コンクリートの学校が、ぽつぽつと。歩いていくと、近づいたり遠のいたり、荼毘の煙が地平線にたなびく光景を、忘れることができない。
  2年前の3.11の東日本大震災の惨状と重なるが、決定的に異なるのは、戦後すぐに登場した焼けトタン張りのバラックだった。大震災後の被災地では、いつになったら故郷の土を踏めるのか、全く見通しのない人たちが多いのに心が痛む。
  平和とは、3.11前まで、ごく平凡な日常だったのだ。それが一瞬にして非日常と化したのは、天災ではない。昨年、福島県南相馬市の被災地に立って何が収束かと呆れ、原発の再稼働・輸出の報にぞっとした。その気持ちは今も尾を引いている。
  3月10日は、一夜にして10万人もの命が奪われた「炎の夜」だが、決して忘れてはならないと思いつつ、3.11後の現在の非日常を日常に取り戻す生き方が問われているのではないか。


3月9日  朝日新聞  「天声人語」

  職場の屋上から眺めると、ビルの街に隅田川がゆったり光っている。
  ”春のうららの・・・”と歌われる季節も近い。思えばそんな春先、3月10日の未明に隅田川の水面は死者で埋まったのだった。約10万人が非業の死を遂げたとされる東京大空襲から、あすで68年になる。きのうの朝日小学生新聞で、当時14才だった画家、吉野山隆美さん(82)の話を読んだ。
  隅田川につながる北十間川にも遺体が折り重なって浮いていた。いまは東京スカイツリーの足元を走る川である。思い出すのがつらくて、吉野山さんは空襲の絵を描けないできた。70才を過ぎて初めて描いた。天をつくツリーが完成に近づいた一昨年には、北十間川の記憶を絵にした。あの出来事を忘れないでほしい。風化にあらがう筆は重々しい。悲惨な戦争の歴史でも、無差別爆撃は最悪のものだ。米軍は戦争末期、日本の主要都市を軒並み炎に包んだ。犠牲は数十万人にのぼるが、広島や長崎に比べて語られる機会は少ない。
  東京大空襲では爆撃機B29が279機飛来し、3時間足らずで下町を焦土にした。戦中派には恨み重なるB29を、昨今の若者は濃い鉛筆のことか? と問うそうだ。
  話半分に聞くにせよ、いまや戦後生まれがほぼ8割を占めるのは事実である。
  移ろいやすい人の世だが、忘れてならぬものがある。11日には大震災から2年がめぐる。その前の3.10も伝え続けたい。天災と戦争は違うけれど、奪われた命の無念は変わらない。胸に刻む両日としたい。

3月11日  東日本大震災・津波・福島原発事故              
東日本大震災から丸2年が経った。大地震、大津波という天災に加え、原発の爆発を招いて未曾有の複合災害となったのであるが、世界唯一の原爆被害を体験した歴史を持つ国として、安易に利用していただけでなく聞けば聞くほどお粗末な事態が分かり呆れた。現在、日夜いろいろの角度から東日本大震災の報道は多く関心も高いが、後世に悔いを残さない復興が一日でも早い事を願っている。
参考資料:1981年(昭和)56年)8月10日 月曜日 朝日新聞

届かなかった慰問文:戦時下女学生の軌跡  深夜労働  眠さこらえ砲弾作り
戦争が終わって36年も経った1981年、戦時中に当時の旧制高等女学校生徒達が書いた「北方陸軍の勇士様」の慰問の絵はがきが、書き手の都立第十高女他5校の生徒達の同窓会に亡霊のように送り返されてきた。宛先は「北方陸軍の勇士様」「北方陸軍の将士様」。
どうも戦局の展開からか外地には送られず、当時皇居北の丸に本拠があった近衛歩兵第一連隊に届いたらしい。受け取った近衛連隊ではその扱いに困っている中に終戦となり、機密書類の消却に当たった人が、表には戦時下の生活を伝える色彩豊かな絵や漫画が描かれ、裏には励ましの文面が細かい字で書かれている女学生達の書いた絵手紙を焼くことができず、リュックに入れて郷里に持ち帰り、ずっと保管されていたのが真相のようである。

↓参考資料はこちら
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201303/40-2.png