常設展から◆二人のアメリカ人

                                                  運営委員 坂井 栄子


 B29から落とされる焼夷弾、その攻撃により炎上する名古屋市街地や名古屋城。2階常設展示室の入り口にある「愛知県下の空襲」の写真パネルには足がすくみます。
 この焼夷弾攻撃に関係ある二人の人物に焦点をあててみたいと思います。

絵はがき

名古屋空襲

 一人は無差別攻撃(絨毯爆撃)を立案したカーチス・ルメイと、もう一人は焼夷弾の効果を検証するためにアメリカの砂漠に東京下町の木造家屋を再現する設計をしたアントニン・レーモンドです。
「日本の小さな住宅は居住のためばかりではなく、戦争資材の供給に貢献している仕事場でもある」という作戦分析委員会(COA)の報告を受けた米軍は、軍需工場のみならず、東京を初め日本の都市に焼夷弾の雨を降らせました。ところが、このように日本の焦土化作戦を実行したルメイが何と1964(昭和39)年に勲一等旭日大綬章を授与されたのです。日本の航空自衛隊育成に貢献したとの理由だったそうですが、納得がいきません。当時も批判が大きく、疑問視する声もあったとのことですが、政府が勲章を与えたという事実は間違いのないことです。

 同じように、1963年にアントニン・レーモンドには、勲三等旭日中褒章を授与されています。建築家である彼は1919(大正8)年に来日して18年も滞在しました。その間に数多くのモダニズム建築の作品を残し、日本人の建築家に大きな影響を与えた人でした。
 その彼が焼夷弾の性能を試すためにユタ州ダグウェイに日本の家屋を再現したのです。在日期間が長く、日本建築に精通していた人ですから日本家屋を正確に再現することは容易であったことでしょう。彼の自伝によれば、「住居は種々の型の焼夷弾や爆弾の効力を調べるためであった。その目的はできるだけ、小型の軽量爆弾を作り、飛行機で大量に運搬ができ、それにより多くの飛行士の生命を助けることであった・・・・・建物は布団、座布団、その他すべてを含み、いつも完全な一軒の日本の家に見えるように仕上げられた。雨戸も取り付けられ、開けたり閉めたりして、爆撃は昼となく夜となく試みられた」(三沢浩訳『自伝 アントニン・レーモンド』鹿島出版会 1970年)。 またその自伝には日本への愛情と戦争の早期終結への願いという矛盾に対する苦渋の心境が綴られているとのことです。

 しかし、結果的には彼の行為が日本の住宅を焼き尽くすという作戦に多大な効果があったことは確かです。「ピースあいち」が設立された頃にわが母校でレーモンド建築を残そうという署名運動が起こり、私の元にも依頼がきました。しかし、焼夷弾作戦の経過を知ったからには、署名をする気にはどうしてもなれませんでした。