↑top

「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」  ◆朝鮮米
愛知県立大学名誉教授  倉橋 正直





新聞をPDFでご覧いただけます。
http://peace-aichi.com/36-4_shinbun.pdf




 【1】 日本人は日本米にこだわる

 中国戦線(満州国、関東州、台湾および香港を除く)にやってきた日本人は、軍人、民間人を問わず、これまで口になじんでいる日本米にこだわった。日本人は「食」に対して保守的であって、軍事占領地域で生産される農作物(小麦など)を主食として食べなかった。彼らは占領地域においても、日本米を食べ続けようとした。

 戦争の長期化と拡大は、日本米をめぐる状況を変える。働き盛りの男性が多く兵隊に召集された結果、農村部の労働人口は減少した。他方、米の需要は増大する。生産された米は、日本内地にいる人たちだけでなく、満州国や中国戦線などで戦っている軍隊にも供給せねばならなかったからである。

 このため、次第に米が不足してくる。やむなく、米を生産している植民地である朝鮮や台湾から、米を移入して、不足を補った。米の不足は日本内地だけではなかった。戦地にいる兵隊や民間人に送る米も不足した。その不足を朝鮮米で補った。日本は、日本内地でとれる米と同じ品種を朝鮮で栽培させた。だから、朝鮮米は日本米と同じものと見なしえた。

 こうして、戦争の時代、朝鮮米が多く戦地に送られた。戦地に進駐・移住していた軍人・民間人は送られてきた朝鮮米を、日本米と同じような感覚で賞味した。要するに、戦争の時代、朝鮮米が戦地における日本の軍人・民間人の主食になった。

↑記事先頭へ



 【2】 朝鮮米輸出禁止令による白米飢饉の発生

新聞記事 米の不足緩和…

『大阪朝日中支版』 1939年4月28日
PDFはこちら↓
http://peace-aichi.com/36-4_shinbun.pdf

 朝鮮米が主食として中国戦線の日本の軍人・民間人に供給された。しかし、いつも順調に朝鮮米を供給できるとは限らなかった。時に朝鮮米の供給はとどこおった。―1938年度、朝鮮南部は大旱魃に見舞われた。このため、日本内地に移出された朝鮮米は、1938年度の927万石から、1939年度は423万石に半減している(帝国農会発行 『昭和十八年版 農業年鑑』、1943年9月、321頁。なお、一石は約180リットル)。

 日本内地に移出する朝鮮米が半減しただけではなかった。当然、中国戦線などの戦地に送る朝鮮米も深刻な影響を受けた。これまでの量を送れなくなる。こういった事態に対処するために、1939年2月17日、朝鮮総督府は「朝鮮米満支輸出禁止令」を出す。「満支」、すなわち、満州国・関東州と中国戦線への朝鮮米の輸出を禁止するというものである。

 天津一箇年回想録 奥村特派員発
(中略) 同二月十七日 朝鮮米満支輸出禁止令で、北支邦人、米飢饉に直面して、その成行、重大視さる。
『大阪朝日北支版』 1939年12月22日

 戦争中であるから、軍隊への米の供給は、何をおいても優先された。だから、軍隊への朝鮮米の輸出は、この措置に含まれてはいない。民間人あての供給だけが禁止される。

 民間人がこうむった被害は大きかった。彼らはいわゆる白米飢饉に見舞われる。朝鮮米に代わるものは入手できなかった。朝鮮米の供給が完全に断たれれば、中国戦線にいる日本人(民間人)は食用米が欠乏してしまい、立ち往生してしまう。そこで、朝鮮米の供給の禁止を徐々に緩和してゆく。従来よりも少ないが、朝鮮米は少しずつ送られてくる。次の記事は、輸出禁止が解け、徐々に朝鮮米が送られてくる状況を伝えている。

 米の不足緩和 鮮米、北支方面へ輸出
 北支方面の米穀不足は依然、深刻を極めつつあり。北京、天津、張家口方面では、鮮米輸出制限が相当打撃を与へつつあるので、総督府北支派遣員たる室田事務官は、二十三日、来城。農林当局と二十四、二十六両日にわたって、この輸出制限緩和につき折衝中であったが、四月中、三万石、五月にも三万石、乃至、四万石の輸出を行ふことに決定した模様である。(京城)
『大阪朝日中支版』 1939年4月28日

新聞記事 白米飢饉対策…

『大阪朝日中支版』 1939年8月27日
PDFはこちら↓
http://peace-aichi.com/36-4_shinbun.pdf

 朝鮮米の供給の不安定が続き、白米飢饉は深刻になる。事態を打開するために、済南日本総領事館は、白米の販売を制限する措置に出る。具体的には、日本人には一斗以上を一度に販売するなと、米を扱う卸商と小売商に命じている。

 白米飢饉対策 日本人に限り一斗以上販売厳禁 済南当局の非常手段 【済南特電】
 済南、青島地方における白米飢饉は、数日来、いよいよ深刻化し、済南日本総領事館では、つひに非常手段として、二十四日より邦人側白米輸入卸商、小売商組合に対し、白米販売は日本人に限り、一回一斗以上の販売を厳禁。この食料危機を切抜けることとなった。
 今回の白米飢饉の原因は、津浦線の洪水による不通と、朝鮮方面よりの輸送制限および不円滑によるもので、輸送力の回復で、幾分、緩和を期待されたが、 (中略)  なほ、かかる状態が当分、継続するにおいては在支邦人の生活の根底をゆるがす重大問題なので、これが根本対策を樹立する必要に迫られ、中央、内地、朝鮮に白米輸入制限につき、善処方を要望する外ないと見られてゐる。
『大阪朝日中支版』 1939年8月27日

 お米が足りずに朝鮮米から台湾米へ三段跳の格さがり。民の竃(かまど)は『まづい、まづい』の声ぞする。
《青島録音》欄、『大阪朝日北支版』 1939年11月16日

 新聞のコラム欄は今回の白米飢饉をややふざけて扱っている。朝鮮米が入ってこない。その代わりに台湾米を食べたが、台湾米の食味は、朝鮮米から「三段跳の格さがり」にまずいと表現している。台湾米は、よっぽど日本人の口に合わなかったのであろう。

 同じ米といっても、インディカ米とジャポニカ米の2種がある。ジャポニカ米は日本・朝鮮で栽培されている米である。短粒種で、炊くと粘り気がある。インディカ米はインド、東南アジア、中国などで栽培される。長粒種で、炊いても粘り気がなく、パサパサであった。パサパサで箸ではつまめないので、ご飯を口に運ぶのに匙が必要になる。日本人はその独特の風味になじめなかった。台湾米や上海米(華中で生産された米を、日本側は上海米と総称していた。)はインディカ米であった。だから、日本人の口に合わなかったのである。

 朝鮮米の代わりに、台湾米や上海米を食べた。その結果、「胃腸患者が急増したとやら。」と、バチあたりなことを言っている。

 鮮米不足で、まづい台湾米や上海米を食はされたため、胃腸患者が急増したとやら。今までが飽衣暖食(ママ。「暖衣飽食」が正しい。)に馴れ過ぎてゐましたネ。訓練覚悟が足りなかったのです。(青島)
《大陸録音》欄、『大阪朝日北支版』 1939年11月28日

↑記事先頭へ



 【3】 各種の節米の取り組み

 白米飢饉に対応するために、いくつかの対策が採られた。
(1)白米をやめ、七分搗き米にかえる。まず、日本内地でこの措置は行われた。内地にならって中国戦線でも同様な措置が取られた。七分搗き米にすれば、玄米を精白する過程で、すり減る分量が減るので、食べる量は増えた。しかし、外見は白米、すなわち、「白い」米ではなく、やや黒ずんだ。食味も、白米に比べれば、やや劣った。
(2)華北地方の占領地で、水稲栽培を試験的に試みた。華北地方では伝統的に小麦を栽培しており、水稲栽培はごく限られた所でしか行われていなかった。次の史料は山東省の兗州(えんしゅう)地方で行われた水稲栽培のようすである。ごく特殊な例であった。

 故郷偲ぶ田植姿 山東省に日華協力の水田 【兗州】
 なつかしや大陸に水田、故国日本の農村を偲ばせる田植姿―――
 ここは山東省滋陽県、兗州、(中略)昨年、開田された○○町歩の水田に、いま、二度目の田植が日華人協力の下に行はれてゐるのだ。明水米(章邱県明水)済南、瀝城米などで、華北における唯一の米産地として、古来、名ある山東省が、大東亜戦争の兵站基地、華北の最大の要請たる食糧増産に応へて(中略)それぞれ日本種子、日本技術をもって、かなりの成績ををさめたのであったが、本年はなほ、新に○○町歩を開田。既存の一千五百町歩に加へ、本年度○万石の収穫をあげようといふ。
『大阪朝日中国版』 1943年7月8日

(3)河南省新郷県の居留民会の会員は、米の節約のために、補助的な食事として、みな昼食はウドンにした。現地で取れる小麦を利用する。小麦からうどん粉を作り、ウドンを食べた。

 故国の七分搗き節米運動は、自分たちは兎も角も、第一線にあるものには不自由をさせるなとの温かい親心が潜んでゐる。(中略)しかし、故国のこの愛国的な節米運動を対岸の火災視してはいけないと、河南省新郷県居留民会長・中村愛四郎氏(埼玉県熊谷市)は、第一線の我々も節米運動の一翼を担げ、戦線で容易に手に入るメリケン粉でウドンを調整、率先、自分の工場全従業員とともに、朝食は粥食、昼はウドン食、夕食は七分搗励行の節米実践運動に乗出した。これに呼応するごとく、満鉄新郷分段も昼はウドンにした。数千の同地居留民もこれに右へならへして、ウドンで我慢するといひ出し、戦線でのお昼は、どの家庭でもポッポと湯気立ちのぼるウドンにフウフウ、口をとがらせながら、舌鼓をうつのだ。
『大阪朝日北支版』 1939年12月16日

(4)次の史料は、前線の兵隊が、内地米(実際には朝鮮米の可能性が高い。)を食べるのを遠慮して、現地で収穫される中国米を「興亜米」と名づけ、食べていると伝えている。「外米を食ってゐる内地を思ひ、内地米を全廃して不味くとも豊かにある現地米で我慢してゐるのだ。」という。ごく特殊な例であろう。

 不平いはぬ戦線 支那米常食で頑張る “興亜米”お国のためだ 【祠堂色にて】
 前線では早くから節米が実行され、ずゐぶん前から、「興亜米」の麦飯(ママ)を食ひ続けてゐる。興亜米とは、兵隊が名付けた現地米のことである。前線では決して内地米に不自由してゐるのではない。外米を食ってゐる内地を思ひ、内地米を全廃して不味くとも豊かにある現地米で我慢してゐるのだ。
『大阪朝日北支版』 1940年8月4日

↑記事先頭へ



 【4】 米の配給制の実施

 朝鮮米輸出禁止令が出たのは、1939年2月17日であった。それ以降、中国戦線に居住する在留日本人は朝鮮米の供給の不安定さにずっと悩まされる。しかし、次の史料が示すように、朝鮮米の輸出は完全に禁止されたのではなかった。量は少なくなったが、ある程度の分量は送られてきていた。

 朝鮮米九千石 仁川を積出し北支へ 【北京特信】
 北支の食糧米飢饉にそなへて、日満支物資交流会議で決定した北支向邦人食糧米新年度分、三十六万石の第一回分(朝鮮米九千石)は、朝鮮仁川で精白中であったが、いよいよ二十六日、仁川発の便船で積出すこととなった。(中略) なほ、九千石の米は、北支の全邦人が全部三食とも米を食ふものとして見ると、僅かに十日分の食糧にしかならぬが、残り分も船便の都合次第で、続々入荷の予定だといふ。
『大阪朝日北支版』 1939年11月28日

 半年以上、さまざまな対策をとったが、根本的な解決にならなかった。結局、1939年秋になって、中国戦線の日本人町では、米の配給制が実施されることになった。戦地なので、兵隊の食糧の確保は最優先され、これまで通りに取り扱われた。民間人に対してだけ、米の配給制をしいた。配給制によって、少なくなった米をなるべく効率的に配分しようとしたのである。

 次の史料は青島の場合である。

 切符制度実施 青島で食米購入制限
(中略) 当分の間、食米の買占偏在を防止する必要上、食米の購入には食米配給伝票を要することになった旨、発表され、在留邦人に一大センセイションを興してゐる。
 青島の食米としては、事変以来、上海米の供給が絶え、日本内地からも輸出禁止で来ないので、専ら朝鮮白米に依存してゐたのが、朝鮮の不作と奥地および青島在住日本人の激増で、需要が急増したため、次第に逼迫して来たもので、当局では、内地、台湾米の輸入を百方考究中であるが、差し当りストックも僅少なるため、切符制度を実施して、買占め防止をなすことになった。伝票は所定の用式に、世帯主、住所、氏名、家族数を記入、民団の証明を受け、米屋にて購入することになるが、無届居住者、支那人使用人、飼犬などは、これに含まれない。
『大阪朝日中支版』1939年9月23日

在留日本人は切符を持って、米屋に行き、必要な米を購入するのである。「無届居住者、支那人使用人、飼犬など」が食べる米は、この切符では買えないとあるのがおもしろい。

 在留届を提出していない日本人は配給米の支給にあずかれないとしている。このことが、後述するように在留届未提出者の問題を引き起こした。

 同じ青島の場合である。朝鮮から輸入できた七分搗き米を、配給制で販売させた。その小売価格を青島総領事館が、12月1日付をもって、「従来の白米よりも十八銭安の、一斗金四円七十七銭と」決めている。

 朝鮮米不足の結果、臨時補充弁法として、総領事館、興亜院、陸軍特務機関などの斡旋により、一時、台湾米および上海米を輸入して不足を補ってゐたが、青島においても、政府の白米食禁止令発動精神に即応するため、今後は北支食用米は配給統制委員会によって一元化されることになり、朝鮮から七分搗米の輸入が企られてゐたが、五千叺(かます)が入荷したので、青島総領事館は十二月一日付をもって、七分搗米小売価格を従来の白米よりも十八銭安の、一斗金四円七十七銭として、布告を発し、販売させることになった。
 現在、残存の台湾米、上海米は二、三日分に過ぎないので、在庫白米消費後は、いよいよ白米へサヨナラとなり、時局の色と味を盛った七分搗米となるが、
『大阪朝日北支版』1939年12月3日

↑記事先頭へ



 【5】 米の配給制の副産物――在留届の未提出者の存在が浮かび上がる

  こうして、日本人(民間人)に対して、米の配給制が実施される。それが思わぬ副産物を生む。在留届を提出していない日本人の存在をあぶりだした。居留民は、中国戦線に移住してきた時、当該日本人町の居留民団(その町の在留日本人が少ない場合は居留民会、さらに小規模な場合は日本人会と称した。)にすみやかに在留届を提出せねばならなかった。領事館は、在留届を通して、当該日本人の移住・在留を確認した。しかし、移住してきた民間人は往々にして届け出なかった。彼らは無届のまま、日本人町で暮らした。戦争が近隣地域で戦われている最中という、あわただしい状況もあって、実際には在留届を提出しなくても、それほど生活に支障を感じなかった。

 無届者には、いくつかの利点があった。まず、日本人町の居住者に課せられた種々の「課金」の徴収から免れた。課金は、居留民団が在留日本人から徴収する税金である。また、在郷軍人会や国防婦人会の会員になることもなかった。(日本人町に暮らす日本人は、この二つの組織に組み込まれることで、厳しく監視・統制された)

 日本人町で、米の配給制が始まると在留届の未提出者は米の配給を受けられなかった。彼らの多くは困惑する。彼らは、口になじんだ日本米(実際には、多くの場合、朝鮮米であった。)を食べることをあきらめられなかった。また、中国人と同じような食事、すなわち、小麦や中国米を使った料理を食べられなかった。配給を通して、日本米を引き続き食べたいと望んだものは、急いで在留届を提出した。

 課金はいやだが、米を食わずにゐられないとあって、切符制度実施で、無届居留民の在留届が殺到―浅ましい根性だ。(済南)
《大陸録音》欄、『大阪朝日中支版』 1939年10月10日

新たに届出た者がかなりの数にのぼった。在留届が提出されたことで、中国戦線に移住してきていた在留日本人の数は、従来に比べ、ずっと多くなった。これが、米の配給制の実施の副産物であった。

 米の配給制の実施、およびそれによる在留届提出者の増加に伴い、彼らから徴収する課金も増加した。たとえば、次の史料が伝えるように、済南では課金が一千円もたちまち激増したという。また、山東省西部の東昌という町の場合、従来の人口統計では在留日本人は一名もいないことになっていたのに、今回の騒動で、実は250名もの日本人が暮らしていたことが判明した。

 居留民の実数 山東白米飢饉の収穫
 済南を中心とする山東省各地では、今回の白米飢饉緩和のため、居留民の届出による切符制度を実施した結果、済南の如きは課金にして一千円も忽ち激増するといふ無届居留民の新規届出が殺到してゐるが、この現象は奥地にゆくほど著しく、東昌の如きは人口統計には現在一名も邦人がをらぬこととなってゐるが、二百五十名も邦人が進出居住してゐることが判明し、鉄道沿線奥地の邦人人口は現在の倍数に上り、実際、居住してゐるものと見られるに至り、白米飢饉が生んだ邦人人口の大異変として、総領事館当局を面食らはせ、近く全面的な再調査を行ふのやむなきに至った。
『大阪朝日中支版』 1939年10月11日

 米を食べなくてもよい太原邦人
  太原居留民に配給する精米の配給票書き換へが最近行はれたが、締切当日までに、ちゃんと配給申告書を民会に提出したものは、居留民一万二千人のうち、半分、六千人しかなかった。
『大阪朝日北支版』 1940年9月4日

 配給申告書を提出しなくても、どっちみち、米は引き続き、配給してくれるであろうという、甘えがあったのであろうか。

↑記事先頭へ



 【6】 朝鮮が外地に出かけた日本軍隊の重要な食糧基地になった

 日中戦争から太平洋戦争へと進む。戦争は長期化し、戦域は拡大する。これに伴い、軍隊が多くの地域に進駐する。また、彼らに続いて、多くの民間人も占領地に移住していった。
 彼らはみな戦後、外地から引き揚げてくる。厚生省援護局の統計によれば、引揚者の総数は629万人である。そのうち、中国東北から174万人(軍人・軍属50万人、民間人124万人)、中国戦線から153万人(軍人・軍属104万人、民間人49万人)が引き揚げてくる。(厚生省援護局編集『引揚げと援護三十年の歩み』、厚生省、1977年、690頁)。

 これに依拠して、外地に出かけていった軍人・民間人の食用米が、どのように供給されたかについて、おおまかな検討を行う。中国東北地方は、現在では米を生産している。しかし、戦争中はまだ米をほとんど生産できなかった。私は以前、いわゆる満蒙開拓団のことを調べたことがある(拙稿「満州キリスト教開拓団」、『東アジア研究』48号、2007年3月)。「主食の米は満拓から配給されました。」(榎本和子『エルムの鐘』、暮らしの手帖社、2004年、63頁)という報告を見つけて、びっくりしたことをよく覚えている。

 開拓団といっても、主食の米を配給に頼っていたのである。中国東北地方に出かけた日本の軍隊・民間人は現地で取れる農作物を主食にできなかった。彼らは主に朝鮮米に頼った。

 中国戦線のうち、華北は小麦の生産が主力である。また、華中・華南では米が取れるが、しかし、それは日本人の口に合わないインディカ米であった。だから、中国戦線に出かけた軍人・民間人もまた、主に朝鮮米に頼った。

 とりあえず、中国東北と中国戦線に出かけた軍人・民間人の主食が朝鮮米であったとする。その場合、中国東北と中国戦線に出かけた軍人・民間人を合わせれば、敗戦の時点で、おおよそ327万人になる。これだけの数の日本人が、戦争中、朝鮮米を主食にしていた(日本米が少しは加わるとしても。)。日本の軍人と民間人が食べる主食の米は、朝鮮から供給された。

 このことは、朝鮮人農民に困苦と悲嘆をもたらした。彼らは米を生産するが、しかし、できた米は強制的に供出させられたために、自分ではほとんど食べられなかった。1940年2月、華北に住む中国人の食糧対策として、満州国から、いわゆる満州雑穀、具体的には高粱、粟、包米(とうもろこし)2万5千トンが送られている(『大阪朝日中支版』、1940年2月4日)。

 日本内地でも、食糧事情が極度に逼迫した戦争最末期には、高粱、粟、とうもろこしが配給され、国民はそれを食べて飢えをしのいだ。しかし、それはごく短期間に過ぎなかった。朝鮮では、ずっと早くから、このような状況が出現した。朝鮮人はおいしい米を作ったが、それをほとんど食べられず、中国東北地方から送られてきた二級の穀類である高粱、粟、とうもろこしなどを、主食として長く食べさせられたのであった。
(2012年11月17日 愛知県立大学名誉教授)

↑記事先頭へ

新聞をPDFでご覧いただけます。 (http://peace-aichi.com/36-4_shinbun.pdf PDF 2ページ)
http://peace-aichi.com/36-4_shinbun.pdf