常設展◆春日井の空襲 ボランティア 小松真紀

パンプキン爆弾(上)とクレーター(下)
我が家の仏壇には、1枚の古い写真がある。それは長く一緒に暮らした義母の位牌の横に置かれている。写真はその義母の10歳下の弟で、きっぱりとした表情で正装した着物姿。とても20歳前とは思えない。いつ撮られたのであろうか。
写真の裏には義母の字で、「木下吉秀さん」とある。義母の話では、春日井の鳥居松で空襲に遭い亡くなったと。もう20年くらい前、その話を聞いた時、私は軽く聞き流していた。7人も兄弟がいれば一人ぐらい戦争で犠牲になる人がいても仕方がないと。
今年の夏、ピースあいちの展示を見て、義母の話を思い出した。空襲で亡くなった26人の中にその人がいるのではないか。図書棚の資料を見ると、まさしく殉職者名簿に名前が載っていた。吉秀さんが、ピースあいちに私を引き寄せてくれたのだろうか。
今回の原稿を書くため、亡くなった義母の代わりに吉秀さんの話を親戚から聞いた。
吉秀さんの故郷は新潟の貧しい漁師村。彼は7人兄弟中で一番頭がよく、近所の人が勉強を教わりに来ていたという。新潟をいつ出たかはわからないが、たぶん白紙(徴用)が来たと思われる。新潟から遠く離れた春日井の陸軍造兵廠鳥居松製造所で働いた。鳥居松製造所では1万人以上の人が主に小銃や拳銃をつくっていた。仕事が休みの日は、遠い親せきにあたるKさんの家(名古屋市北区)にたびたび夕食を食べに行っていた。Kさんの家は父親の仕事の関係で第6連隊と取引があり、食料には困らなかったそうだ。
Kさん自身はその頃、女子警防団員として空襲の後片付けなどをし、悲惨な遺体を数多く見たとのこと。
空襲のあった昭和20年3月25日、吉秀さんは故郷の新潟に帰る予定だったが、人に頼まれて代わりに夜勤を引き受けたようだ。まだ19歳の若さだった。亡くなった知らせを受けて、Kさんが遺骨を引き取り新潟に帰った。名古屋から高山線に乗り、乗り継ぎの鵜沼・富山駅では、遺骨を抱いていたのでKさんが列車を1番に乗り降りして、駅長室に案内されたそうだ。夜勤を代わってもらい命拾いをした人は、後日新潟を訪れ、深々と頭を下げたという。
当時の製造所は、現在王子製紙春日井工場になっていて、敷地の片隅には、空襲で犠牲になった方々の慰霊碑が建てられ、今も美しい花が絶えることなく供えられている。
新聞やニュースで毎日見聞きする戦争による被害。慣れっこになって、その数が何人だろうと心に留める事がない現実。でも人ひとりにはかけがえのない人生がある。一人の死でどれだけの人が傷つき悲しむのか。今またこの日本を、戦前の暗く危ない方向に持っていこうとする人たちがいる中で、ピースあいちの役割が期待されている。これからもたくさんの人と繋がりあって、平和を守る小さな力になっていきたい。