常設展示から
ピースあいちと国立アメリカ空軍博物館の「砂田橋」爆撃の写真  

                                               ボランティア  桐山 五郎


写真

2階常設展示室にある「東区砂田橋」の爆撃写真

 二年前にアメリカのオハイオ州にある「国立アメリカ空軍博物館」を訪れた。ここは世界最大規模の戦闘機の博物館である。敷地の面積も広いが、展示棟も大きい。ベトナム戦争で名をはせた「B52」などの超大型機が収納されているから、その容積も巨大である。

 事前情報では、主な参戦国の戦闘機が展示されていて、「ゼロ戦」「B29」「スピットファイアー」「P51」などの実在した戦闘機が見られるのだ。こんな機会はそうない。早く見たいと正直気持ちは高ぶった。さらに開発時代順に展示されているので、歴史もわかる。興味があっても、規模が大きすぎる。全体を一日では見ることは不可能な博物館なのだ。

 第二次世界大戦期の建屋に入ると、中ほどにB29の尾翼が見えた。そしてその尾翼の際に、あのゼロ戦があった。気持ちは一気に高まった。その時、目に付く位置に一枚の写真があった。その写真が何であるかは、瞬時にわかった。ピースあいちの二階の常設展示室にある「東区砂田橋」の爆撃写真である。ただ噴煙の上がり具合に違いがあるので、撮影した日時に差があると思われる。一緒に博物館に来ていた彼(アメリカ人)にも、すぐにそれがわかった。彼はこれを名古屋で見たことがある。「わかった。これが地下鉄茶屋ヶ坂駅のあたりで、ここが赤坂のあのお堂のある五叉路だね」と即座に答えた。

 その写真が設置されている場所から推察するに、設置者の狙いは、「大戦中」のアメリカ空軍の戦略上重要な戦闘を象徴する写真であるはずであった。しかしながら、設置者の狙いとかなりかけ離れた「思い」で、私はこの写真を眺めることになった。なぜなら、当時この爆撃下の地上には、私の知る三人の「子どもたち」が生き延びたのだから。

 一人は元同僚で中学生。勤労動員で三菱に来て、働いた。空襲警報がでると、その度にまず東に逃げ、南周りで古出来方面へ避難した。ある時、谷口の方へ行くと、焼けた民家がまだくすぶっていた。赤子を背負った若い婦人が泣いていたという。小学生だった元同僚は、矢田川で遊んでいた。警報が鳴ったので、近くの防空壕に入った。先にいた大人が、君のおうちの防空壕に行きなさい、と追い出した。炸裂する爆弾の中、今のナゴヤドームのあたりをつき切り、古出来付近の家に走って帰った。近所に住む女性は、当時女学生でこの地に住んでいた。焼夷弾だけでなく、爆弾も落ちた。手や足が散乱していたという。

 気分を変えてB29の下に移動した。思いのほか小さく見えた。写真で見るB29にはエンジンが4本搭載されている。だから、ジャンボジェット機のように図体がでかいと勝手に思い込んでいたわけである。よく見ると保存されたこのB29は、こともあろうに長崎にファットマンを投下した、あの「ボックスカー」機であった。何ということだ。先ほどの「気分一新」はもうどこかに消えてしまった。

 たった一枚の写真も上から見て考えるのと、下から見上げて考えるのとでは、考えや思いの視点が違ってしまう。保存されたB29機も、「早く戦争を終わらせたから、犠牲が少なくてすんだ」と考えるか、「ノーモアヒロシマ・ナガサキ」と考えるか、ここでも視点が違う。今振り返ってみても、連合国軍とりわけアメリカ空軍が爆撃した都市や施設・工場はいくつもの国にまたがって存在しているはずである。にもかかわらず、先の大戦の爆撃の象徴としての写真が、なぜ「砂田橋」であるのかは、わからないままである。