戦争体験者の語りシリーズ2012年            



 恒例となっている、戦争体験者の語りシリーズ。今年も8月1日から15日まで、10人の体験者の方々に語っていただき、毎日たくさんの方が聞きに来てくださいました。長い語りを短くまとめるのはむずかしいけれど、当日のお当番ボランティアがレポートします。

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 ■8月1日 「学童疎開・空襲」
 佐藤 誠治さん(78歳)
 
 戦時中の学童疎開、空襲について、ご自分の体験をもとに、たいへんリアルに話されました。
 浜松市にいて、小学校4年~6年生の時、縁故疎開に行っていたこと。当時は各家庭から金属類がほとんど供出させられ、お寺の鐘まで国に強制的に持っていかれたことなど。食料品や衣類なども制限されて、兎やイルカの肉等を食べていたこと。
 戦争中には人の死体を直接見ても驚かないようになってしまう。戦争になるとそうなってしまう。だから戦争は絶対にいけない、と言われました。
 参加者の中学生から「戦争中に一番怖かったことは何か」と質問されて、「飛行機による集中爆撃を受けたことだ」と言われました。父母や小、中、高生みんな真剣に聞いていました。

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 ■8月2日 「軍隊・戦場・捕虜」
 加藤 英男さん(91歳)
 
 国民皆兵で、私は満20歳で徴兵検査を受け、2年間兵役に服しました。
 陸軍の船舶工兵の幹部候補生で、東南アジアのルソン島などを転々としました。日本軍は兵器も食料も乏しく、兵の大半は栄養失調、マラリア、アミーバ赤痢などで倒れ、野戦病院とは名ばかりの民家で次々と亡くなりました。そして終戦を知ったのは、米軍機よりまかれたビラによってでした。
 1944年9月投降し、米軍の収容所に入りました。収容所にはシャワー設備などあり、食事も今まで食べたことのない欧米の食材ばかりで、日本との差を痛感しました。一年後、やっと帰国しました。

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 ■8月3日 「空襲・縁故疎開」  
中野 見夫さん(73歳)
 
 昭和14年、中野さんは熱田区のお寺に生まれ、現在は一宮市の浄土宗「観音寺」の住職。シャンソンを歌う和尚さんです。
 小学校1年生の時に終戦となりましたが、実家のお寺は死体置き場となっていたそうです。
 愛知時計に代表される6月9日の熱田空襲について、また2つのガスマスクを見せながらのお話、昭和19年8月からの学童疎開の経験談などをお話しされました。
 最後に「戦争体験といえば、爆撃の怖さと、死体と一緒に暮らしたことが強く残っています」と結ばれました。

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 ■8月4日 「学徒動員・空襲」  
並木 和子さん(84歳)
 
 16歳の時、一日10時間、昼夜交代勤務の軍需工場へ学徒動員。すべて立ち作業で、旋盤から出る金属片で眼球を傷つけた友人もいました。
 3月10日、深夜作業中に、「全員避難!」の命令で防空壕に逃げ込み息を潜めていると、B29の大編隊が空いっぱいに広がり、何とも言えない「ザアー!」という音ともに焼夷弾が落ち、あたりは真っ赤な火の海に。
 自宅は5月25日の空襲で被災。焼け跡には、レコード盤が積み上がったまま、黒い塊となっていました。

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 ■8月7日「終戦前後の食べもの事情」
 河原 忠弘さん(72歳)
 
 昭和14年生まれ。基本的には7人家族で、東京の杉並区に住んでいた。
 戦争末期、5歳の私は姉と雑炊を買うために大衆食堂へ行き、そこの行列に並んでいて機銃掃射にあった。また、母と親戚の家へ食べ物を貰いに行って、サツマイモ泥棒が捕まるのを見たこともある。
 終戦直後は、空襲で焼けた貸家の跡地を畑にして、サツマイモやかぼちゃなどを自家栽培。田んぼで取ってきたイナゴもよく食べた。町にはヨロヨロ歩く人がいた。母が「栄養失調だよ」と言った。
 「食」という生活の基本部分が、こんな有様だった。

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 ■8月8日 「軍隊」  
中野  巌さん(84歳)
 
 「祖国や故郷を守りたい」の一心で志願し、昭和19年9月に第二相模野海軍練習航空隊に入隊してから終戦までの間の経験をお話してくれました。
 戦場には行かずにすみましたが、空腹で他人の食事を盗み、見つかって制裁をうけ、死んでしまったか不具者になったのか、姿が見えなくなった同僚もいたそうです。不正をしたり、間違えたり、遅かったりがある都度、バットで叩かれたそうです。
 戦闘で死ぬのならまだしも、訓練で死なすのは不条理です。軍隊は兵を人間扱いしません。そんな経験も教訓になり、後につらい時も頑張ってこれた、ということです。

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 ■8月9日 「広島原爆」  
鬼頭  駿さん(82歳)
 
 私は15歳の時、広島で被爆した。全身焼けただれ水を求めて助けを乞う多くの人を見た。その人たちは亡くなられたと思うが、どうしようもなかった。まさに生き地獄だ。
 このような被曝は第五福竜丸で終わりにしなければいけなかったのに、福島で原発が爆発した。今も放射能を出し続け、子どもたちの内部被爆が心配だ。
 小・中・高生の参加も多くいるが、これから生き抜くみな様が、原爆・原発をどうとらえるのか十分考え生きていってほしい。

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 ■8月10日 「兄の戦争」  
鈴木 隆充さん(76歳)
 
 愛知一中生だった兄たちは、学問を志していたが、戦争賛美の時代風潮の中で、お国のために戦うことは名誉なことだと話しあった。しかし、軍国教育の指導者たちから、志願兵になるように仕向けられたとも言える。このお話は後に本にまとめられ、江藤千秋著の「積乱雲の彼方から」の中で書かれている。
 今日は、次代を担う若い皆さんが多数集まった会となり、兄の戦争体験と戦争のおろかさについて、弟の立場からお話しすることができ、嬉しく思います。

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 ■8月14日 「岡崎空襲・学徒動員」  
加藤  照さん(81歳)
 
 加藤さんは昭和6年生まれ。1945年7月19日の空襲時は中学生だった。就寝中に敵機来襲。焼夷弾の落ちてくるザーザーという音に追われるように逃げて、その音が止んだ時、自分の家の様子を見に行った。あたりすべて焼け落ち、残っていた一本の木だけが家の目印になった。
 「戦争が終わって何を思いましたか」という質問に、「ただただ、頭の中は真っ白でした」と答えた加藤さん。生まれてから終戦まで、平和を知らない14年間だったのだ。

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 ■8月15日 「戦艦大和隊員」  
野村 義治さん(92歳)
 
 大正9年生まれの野村義治さんは、昭和18年から戦艦大和に乗艦し、翌19年のレイテ沖海戦を戦われました。史上最大の戦艦での生活は、「大和ホテル」と評されるほど豪華なものでしたが、水がないことが一番辛く、スコールの際には洗濯をし、シャワーを浴びたと語られました。
 「上に立つ者で下の者の運命が決まる」と森下元艦長を敬愛され、私たちに海軍体操を披露されるなど、今でも海軍を誇りにされています。