米軍資料研究会 新たな発見 ピースあいち研究会  西形 久司




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米軍資料研究会 ピースあいちにて

 例年、「空襲・戦災を記録する会全国大会」に先行するかたちで、「米軍資料の活用に関する研究会」が開かれている。「第42回愛知大会」においても、8月24日夕刻よりピースあいちにて、翌25日午前には名古屋市立大学に会場を移して開催された。
 私自身は神戸の大会以来、豊橋、今治、前橋、八王子と参加してきた。青森の大会や昨年の大牟田の大会などは参加していないので、遅刻してきてしかも途中でときどき姿が消えるという、高校生ならばいちばん担任教員の手を煩わせる困ったタイプである。

 米軍資料研究会の常連といわれるメンバーでも、空襲史研究だけに特化しているという人はほとんどいないのではないかと思う。本業・本職あるいは別の専門分野での研究をしつつ、空襲も手掛けているというパターンが多いのではないか。かなり以前であるが、日本の空襲史研究の草分けの一人であり、ピースおおさか設立の中心であった関西大学の小山仁示教授(惜しくもこの夏逝去された)は、日本では空襲史研究で論文を書いても研究業績として正当に評価されないことを批判しておられたが、純粋な軍事史(軍事技術史)とも一線を画した空襲史研究は、近現代史研究者の世界で地歩を確立したとは言い難いのが現状である。したがってこの分野は、いわば素人が切り開いてきたという歴史がある。その素人集団が年に一度、一堂に会するのが、この米軍資料研究会なのである。
 いま素人という言葉で表現したが、素人の仕事の方が玄人のものよりもよほど斬新であり刺激的であり可能性を秘めている。戦後日本の考古学の歴史は在野のアマチュア相沢忠洋氏による「岩宿の発見」に始まるが、われらが金子力氏をはじめとする春日井のグループによる模擬原爆の発見も、いわば、空襲史研究の「岩宿の発見」である。

 空襲史研究の醍醐味は、空襲という事象の多面性にある。簡単にいってしまえば、いろいろな切り口があるということである。米軍資料研究会の中心の工藤洋三氏は、この春まで山口県の徳山工業高専の教授であったが、今回の愛知大会の現地見学ツアーにGPS持参で参加しておられた。空襲の爪痕を地図上に正確にプロットしていくために、衛星を使って位置を割り出そうというのである。文献史学しかやってこなかった私には、何回生まれ変わっても、このような発想は出てこないであろう。
 また岡山から研究会に参加された猪原千恵氏は、研究会での報告で、米軍が使用した電波妨害剥片(暗号名「ロープ」。日本側の高射砲と連動するレーダーからの電波をかく乱するために空中にばらまくアルミ製のテープ)を取り上げたが、博物館の学芸員が本職であり、「ロープ」を取扱うときは必ず手袋をするという。アルミは指で触れるとそこから腐食するからである。また引き出さずに巻物状のままで発見された「ロープ」はいったん引っ張り出してしまうと、原状に復元できなくなるので資料としての価値を損なってしまう。そこで巻物状のまま重量を計り全体の長さを推計して材質を推測するなどの工夫をして記録をとるのだそうな。

 

 その猪原氏が見学ツアーでピースあいちを見学したとき、2階の展示物のうち、灯火管制用の折りたたんだ状態のカバーと紙製メガホンの前で釘付けになった。灯火カバーの折りたたんだ状態のものは初めてであり、メガホンもここまで現状をきれいに保っているものも初見であるというのである。なるほど、知らんかった。私は、学生のとき古文書学などは習った覚えがあるが、アルミ製の「ロープ」といった「もの資料」が目の前にあったら、容赦なく引っ張り出して資料としての価値を台無しにしてしまったに違いない。
 おっと…たったいま、私は文献史学などという割に不正確な記述をしてしまった。「古文書学を習った…」ではなく、「古文書学の講義に欠かさず出席してノートをとっていた勤勉な女子学生になかなか声をかけられず、拝み倒して彼女からノートをコピーさせてもらった男子学生から、試験前日の切迫した状況下、涙ながらに窮状を訴えてさらにコピーをさせてもらった」が最も正確な記述である。只管懺悔(ひたすらざんげ)。 。

 研究会のあとの懇親会も、私にとっては貴重な学習の場であった。B29が編隊を組んでやってくる、という場合、どのようなイメージを頭に描くであろうか。新潟県の長岡でCGなど映像製作をやっている星貴氏は、各地の博物館からの依頼で編隊を映像化するにあたり、細部までしっかりとこだわっていた。私は、編隊はほぼ同じ高度で並んで飛んでいるのかと思っていたが、実は機によって高低差が生じている。したがって、爆撃のとき不用意に爆弾を投下すると低い位置にいる味方の後続機がそれをまともにくらってしまう。そこで、そのようにならないような編隊の組み方のパターンがいくつかあるのだそうな。なるほど、知らんかった。

 米軍資料と一言でいっても、実はその種類は多様、その量は気が遠くなるほど膨大である。しかもほぼ100%英語。その英語も略称などが散りばめられていて、そのうえ経年劣化でマイクロフィルムの画像も不鮮明。こうなると気が遠くなるだけではすまなくて、気が触れるかもしれない。米軍資料研究会は、年に一度寄り合いをして、みんな気が確かか確かめあうとともに、情報交換することによって、ほうっておくと気が触れるかもしれない孤独な作業を、共同作業に近づけていく場でもある。今回の何人かの報告のなかでも、そんなの知らんかった~という資料の存在を教えられた。これでまた一年退屈しない時間が過ごせそうである。

 そうそうそういえば。空襲史研究をやっている人たちの間では周知のことであるのだけれど、原爆投下候補地は、広島・長崎だけでなかったという話はご存じだろうか。今回の工藤洋三氏の報告が、それに関係するもので、京都や新潟、横浜など、原爆投下候補地として「予約」されていた都市がいくつかリストアップされていた。そのリストも時期によって変動があり、途中で消えたり、途中から現われたりする。なぜ「予約」するかというと、原爆という最新兵器がどれほどの破壊力をもつものなのか、正確なデータを収集するためであった。原爆投下以前に爆撃してしまうと、どこまでの破壊が通常の爆弾・焼夷弾によるもので、どこからが原爆によるものか判別できなくなるのである。そこで米軍のなかで困った事態が起きていた。原爆投下の準備は秘密裡に進められており、「予約」した都市の存在は一部の上層部の者以外には知らされてはいなかった。そこで、「予約」された都市について「爆撃禁止令」を出そうとした際に、何のために爆撃を禁止するのか、説明ができない、という矛盾が生じていたのであった。工藤氏の報告はそのあたりのやりとりを米軍資料のなかから発見したというものであった。
 折からピースあいちでは「原爆の図」展が開催されていた。「予約」という気軽な言葉と、その結末として地上で繰り広げられた事態とのあまりの落差に言葉を失ってしまう。米軍資料研究は、核の時代の扉を開いた人たちのリアルタイムの言葉を、60数年の歳月を経て、いま私たちの眼前に暴きだしてくれる。

 今回の研究会で、私自身は司会を担当した。そしていちばん最後の報告も担当した。全部で10本も報告が並ぶと時間的にはとても窮屈で、たぶんラストの私の報告の時間はなくなるであろう、残念ですがあとは資料をお読みください、と逃げ切る予定であったのが、どうも手際よく司会をやってしまったのか、あるいは皆さんの温かいご配慮があったのか、気がつくと私の報告の時間はたっぷり確保されていた。げっ、逃げ切り失敗。
 私の報告は、米軍資料と日本側資料はどのように対応するか、という点について、1945年3月25日の名古屋空襲を例に検証してみようというものであった。米軍資料によれば、この日の爆撃のターゲットは三菱発動機であったのだが、当時の日本側の受け止めは市街地に対する「無差別爆撃」となっていた。どうしてこのような違いが生じたのか。

 そこにはこの日の空襲の特殊な事情があった。簡単に結論をまとめると、①3月中旬のいわゆる東京大空襲に始まる4大都市に対する夜間焼夷弾爆撃によって、マリアナ基地の焼夷弾が払底していた、②1944年11月~1945年2月の昼間超高高度からの軍需工場に対する精密爆撃は、日本本土上空の気象条件に妨げられ、米軍としては「成果」が得られていなかった、③その頃英国空軍が「成果」をあげていた――そこでマリアナ基地の司令官カーチス・ルメイは夜間低高度から、焼夷弾ではなく通常の爆弾を用いて軍需工場を爆撃することとし、それに際して英国空軍の戦術を採用した。
 その戦術は先導機が簡単には消えない火災を起こす焼夷弾を投下し、その「目印」に従って後続機が爆弾を投下するというものであった。夜間爆撃には性能の良いレーダーが必要であった。ところがB29に備えられていたのは航行用のレーダーであって爆撃用ではなかった。さらに名古屋を覆う雲のために後続機には「目印」が見えなかった。そのため投弾が不正確となり、三菱発動機の所在する東区のみならず、北区・千種区・西区・瑞穂区・熱田区などほぼ市外全域に被害が拡散した。
 日銀名古屋支店が本店調査部に宛てて提出した報告によれば、3月12・19日の2度の市街地爆撃でもなんとか持ちこたえていた名古屋市民も、さすがに市街地に破壊力の強い通常の爆弾が降り注ぐと慌てて逃げ出した。早急に何らかの手を打たないと、市民の動揺を鎮めることはできない――という切羽詰まったものであった。

 また、市内各区の町内会長の空襲に際しての敢闘ぶりをたたえようとの意図のもとに、当時名古屋市で作成された資料によると、それまでの焼夷弾空襲では、住家「全焼」「半焼」あるいは死亡の場合は「焼死」となっていたのが、3月25日の空襲では、住家「全壊」「半壊」あるいは「爆死」となっており、明らかに地上での被害も、それまでと様相が異なっていたことがわかる。

 

 日本側資料からだけでは不確かなことしかわからないし、米軍資料だけでも不十分である。立体視は片目だけではだめで両目を使わなければならない。それと同じように、日米両方の資料を見ていかないとものごとを奥行きのあるかたちでとらえることができない――私の報告のポイントはそのあたりに込めたつもりであったが、会場からいただいた質問は細かな点に関わるものであった。いままで米軍資料研究会では、米軍資料のディーテイルにこだわりすぎているような感触をもっていたので、あえて日本側資料との対照ということを主張してみたのであるが、いわずもがなのことであったのかもしれない。                 (2012年8月27日)