常設展から 中国民衆の死―無差別爆撃
ボランティア 桑原勝美

ピースあいち常設展示図録より 中国民衆の死
左上の写真が「無差別爆撃」
一体ここで何事が起きたのか。この写真は日本軍による重慶への無差別爆撃関連資料の中の一枚である(ワシントンの国立公文書館所蔵、カール・マイダンス撮影)。
蒋介石が率いる国民政府が四川省の重慶に臨時首都を定めると、日本軍は陸上戦ではなく空爆のみで国民政府を降伏させる作戦に切り替え(戦略爆撃)、38年から43年にかけて5年間、特に太平洋戦争前の39年、40年、41年に重慶爆撃を集中的に敢行した。
重慶は長江と嘉陵江の合流点へ半島のように伸び、いたるところに坂と階段が連なる都市である。日本軍の空爆に対する防空施設には、防空壕、避難室、防空洞など公的なものの他に、企業の付属壕や有料の私営防空洞などがあった。およそ百万人の市民は空爆警報の鐘やサイレンの音を聞くと一斉にこれらの施設に駆け込み、難を避けようとした。
最大の惨事は通称18梯にある一般市民用の大防空洞で起きた(41年6月)。六千人収容のこの洞に一万人以上がなだれこんだため、2時間ほどで洞内の空気が希薄になり石油ランプの灯が消え始めた。息苦しくなり死を予感した人たちは入口へ向かって殺到する。先の人は後から殺到する人に押し倒され、下敷きとなり、その上へ倒れこんだ人は、近くにいる人の衣服や下着にまでしがみついて必死に起き上がろうとする。人の上に人が積み重なっていく。こうして窒息したり圧迫されたりして四千人もの人たちが死んでいった。

ピースあいち常設展示図録より
中国民衆の死 解説部分
展示写真の上部は洞内で絶命した遺体を洞外へ運び出し積み重ねた様子の一部を表し、下部は衣服や下着を剥がされたりしつつも辛うじて防空洞から脱出した人たちが、その後に起こった空爆パニックにより再び防空洞へ戻ろうとして押し倒され踏みつけられたりして落命した様子を表すものではないだろうか。
重慶への空爆に参加した日本軍兵士が、無差別爆撃の惨状を見届けることはなかった。
参考:早乙女勝元編『重慶からの手紙―日本は中国でなにをしたかⅡ』草の根出版会(89)