「原爆の図展」・ピースあいちにて
原爆の図丸木美術館学芸員 岡村 幸宣

「原爆の図展」 ギャラリートーク
2012年7月28日 ピースあいちにて
丸木夫妻の原爆の図がはじめて愛知県内で展示されたのは、1952年4月26日から29日まで豊橋市中央公民館で開催された「原爆展」でした。このときは、第1部《幽霊》から第5部《少年少女》までの5部作に加えて、デッサンも50点ほど展示されたようです。当時の様子は、主催した愛知大学の学生新聞をはじめ、『東三新聞』(4月26日及び29日付)、 『中部日本新聞』(4月27日付)に掲載されています。展覧会を訪れた観賞者の感想のなかには、「記念すべき時に原爆展の開催を喜んでいます。もっと沢山の人々にみせたいと存じます。私も又念い(原文ママ)を新たに斗わしていただきます」(1952年5月30日付『愛知大学新聞』第32号)という言葉もありました。1952年4月28日は、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が米軍を中心とする連合国軍の占領から解放された日でもあったのです。
全国を巡回していた「原爆の図展」は、占領軍に厳しく監視され、半年前の札幌展では会場に反米的な文書が掲示されたという理由で責任者が逮捕されるという事件も起きていましたから、「記念すべき時」を迎える人びとの感慨も深かったことでしょう。この年、《原爆の図》5部作は、名古屋(5月2日~7日、名古屋商工館ホール)や岡崎(6月7日~11日、タカハシ百貨店)もまわりました。
それから60年という歳月が流れ、この夏、ピースあいちで「原爆の図展」が開催されました。名古屋では1986年以来、26年ぶりの「原爆の図展」です。1986年と聞いて、チェルノブイリ原発事故があった年、とすぐに連想してしまうのは、いうまでもなく昨年3月の福島第一原発事故があったからです。
開会セレモニーでは、野間館長が「原爆の図の少年少女と福島の子どもたちの姿が重なる」と、印象深い挨拶をされていました。今回出品された第5部《少年少女》と第12部《とうろう流し》は、ピースあいちの方々の心が一致して選ばれたと伺っています。皆さんの視線が、「子どもたち」と「鎮魂」というテーマに向かわれたのも、やはり東日本大震災・福島原発事故を経た現在、という時代性のあらわれでしょう。

「原爆の図展」 ギャラリートーク
2012年7月28日 ピースあいちにて
67年前の原爆と、現在の原発事故をつないだときにあらわれるもの。それは、ありきたりのようですが、「平和」という言葉です。「平和」が対峙するものは「戦争」ではありません。もちろん「戦争」もそのひとつなのですが、さらに大きな「暴力」という怪物です。「戦争」がない社会においても、姿を変えた「暴力」は、さまざまなかたちで人びとの「平和」な暮らしを脅かします。
丸木夫妻は、「原発はゆっくりやってくる原爆」という言葉を残しました。なるほど、原発も原爆も放射能は同じもの、という意味だと、ずっと思っていました。あるいは、丸木夫妻もそのつもりで言葉を発したのかもしれません。
しかし、福島原発事故以後に思うことは、原発のもたらす放射能が、さまざまな生命に影響をもたらすだけではなく、目に見えない脅威に対する不安によって、家族を引き裂き、地域の人間関係を破壊し、その土地で過去から未来に受け継がれていくはずの物語をも根絶やしにしてしまうということの悲しさです。その意味でも、原発はたしかに、原爆と同じ類いの「暴力」であると思います。私たちは、ついに、人が住むことのできない土地を生み出してしまった。
今回、市民のつながりによって生まれ、そして支えられ続けているピースあいちという特別な場所に、《原爆の図》が展示されたことを、嬉しく思います。平和も、あるいは絵画などの芸術文化も、それぞれの土地に根ざして暮らす人びとの心のなかから生まれてくるものですから。
ピースあいちがこれからも、多くの人の心に根づきながら、10周年、20周年のよろこばしい節目を迎えていくことを、心から願っています。
お知らせ
岡村幸宣学芸員による「原爆の図展」の解説(ギャラリートーク 2012年7月28日)をピースあいち2階展示室のビデオコーナーで上映しています。 (「原爆の図展」会期中 8月31日まで)