午後配達された終戦の日の新聞
ピースあいち・戦争資料の分類整理作業A班




 愛知県戦争に関する資料館調査会からピースあいちに委託された「戦争に関する資料の分類及び整理等の作業」を現在約10名で担当しています。
今年度の作業対象資料数は約400点あり、7月までに2回・76点の作業を仕上げ、いま、第3回目の117点について作業を進めているところです。
 作業の分担をA・B2班に分け、A班は野間宏、野田隆稔、田中正興、林收の4名で担当しています。
 今回分担した資料に「新聞(東京日日新聞・東京新聞)」と資料名を付したものがありました。中身は太平洋戦争開始直後の昭和16年12月9日から同月28日までの東京日日新聞と終戦の日、すなわち昭和20年8月15日付けの東京新聞から成っています。

 この東京新聞の第一面トップには横一行の大見出し「戦争終結の聖断・大詔渙発さる」と縦三行の中見出し「万世の為、太平を開かむ  新爆弾の惨、民族・文明の破滅御軫念  帝國、四国宣言を受諾」をつけて、いわゆる終戦の詔書が載っています。この資料の寄贈者がただ一枚この東京新聞を保存紙に加えていたのは、この詔書がその後の日本の行方を大きく変える転換点になったと考えたからでしょうか。
 国民は、昭和20年8月15日の玉音放送で初めて敗戦(終戦)を知ったはずなのに、その15日付け新聞に終戦の詔書が載っています。この詔書に国務大臣全員の副署が揃ったのは前日の14日午後11時ごろといわれていますから、当時の情報統制と新聞印刷・配達体制から考えると、この新聞が通常の時間帯に一般読者の目に入ることは不可能なはずです。しかし15日付けの新聞はこうして残されています。
 A班のメンバーは首をひねるばかりでした。
 調べて行くと、「8月15日の新聞は、正午から玉音放送があったため午後に配達された」という記述のある書物に辿り着き、納得できました。
 原爆投下、ソ連参戦により戦争継続はほとんど不可能な状況においても、ポツダム宣言受諾の最終決定は極秘に進められました。神州不滅を信じ、一億総玉砕をもって国体防衛の礎たれと説かれていた国民と天皇の軍隊に混乱なく降伏を知らせるため、一策が講じられました。それは、天皇の強い意志によって戦争終結が決定されたことを天皇みずからの声で終戦の詔書を全国民に聞かせるのが最善の方法だというものでした。15日の早朝からNHKラジオで正午の重大放送を予告させたことに合わせ、新聞紙上の終戦詔書も午前中に配達されることはなかったということになります。
 このように、実物資料は時を超え、事実に踏み込んで行くきっかけを私たちに与えてくれます。