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「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」
 中国戦線における国防婦人会―女性の戦争協力
愛知県立大学名誉教授  倉橋 正直



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 【1】中国戦線における国防婦人会の特色

写真2点

アルバム写真
九江 国防婦人会の慰問

 日中戦争時、中国戦線(満州国・関東州・台湾および香港を除く。以下、同じ)に多くの日本人が移住した。彼らは日本人町を作り、暮らした。日中戦争が始まる以前、中国在留の日本人は約6万人であった。8年間の日中戦争の間に、中国戦線に移住した日本人は8倍に増えている。

 戦争中、日本では戦争の長期化に対応して、戦時経済が構築され、経済は統制されてゆく。戦時経済に合わない各種の企業が強制的に廃止された。それに伴い、多くの「転業民」・「廃業民」が生まれる。仕事を失った彼らの一部はやむなく、いわゆる満蒙開拓団として満州国に移住した。また、日本軍の軍事占領地、中国戦線や(太平洋戦争開始後は)東南アジアや太平洋諸島に移住してゆくものもいた。 戦争の犠牲者であったこの人々は、いったん中国戦線にやってくると、状況が一変する。彼らは占領者の一部となる。日本軍の勢威に依拠して、中国人を犠牲にして、比較的恵まれた生活を享受するようになる。それゆえ、彼らは無批判に日本軍の軍事行動を肯定し、戦争を支持した。

 国防婦人会は、満州事変のころ、陸軍の肝いりによって、女性を戦争に動員するために作られた組織である。中国戦線に移住してきた日本人のうち、女性は4割程度を占めていた。日本人町に暮らす女性を会員にして国防婦人会が組織された。この国防婦人会が、在留日本人の前述の思いを最も率直に体現して、行動する。同じ国防婦人会といっても、きわだつ好戦性という点で、日本内地のそれとは、明らかに違っていた。
 中国戦線に作られた国防婦人会は、女性の戦争協力のようすを、最も赤裸々に示している。以下、史料に基づき、具体的に見てゆく。史料は復刻された『大阪朝日北支版』と『大阪朝日中支版』(ゆまに書房)を用いた。 それを『北支版』および『中支版』と、省略して示す。

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 【2】傷病兵の慰問や、駅頭での出征将兵の送迎など

新聞(部分)

大阪朝日新聞中支版 1939年1月20日
をばさんの家 兵隊さんに大人気
天津国婦(国防婦人会)の銃後の活躍
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 日本人町に作られた国防婦人会の活動は、軍から高く評価された。天津の国防婦人会は、「昨年十一月末」、すなわち1938年11月末の時点で、当時、北支方面軍最高指揮官、寺内寿一大将から「絶大な讃辞のこもった感謝状を授与された」。
 その感謝状の文面では、『支那事変勃発以来、終始一貫、熱誠をもって多数、軍隊の送迎接待に任じ、傷病者の収療慰藉に努め、戦没英霊の弔祭に参与するなど、克く第一線分会たるの使命を果し、幾多将兵に深き感銘を与へ、また軍の行動を扶(たす)くること寔(まこと)に多し。』(『中支版』1939年1月20日)。

 軍用列車であわただしく出動する部隊を天津駅頭で見送る。また、戦闘で負傷したり病気になった傷病兵が前線から天津に戻ってくる。彼らを暖かく迎え、慰安する。さらに戦死した将兵の遺骨が、列車で天津駅を通過して日本に送られてゆく。
 彼女たちは、白エプロンにタスキをかけた国防婦人会の制服姿で、駅頭に整列し、英霊すなわち陣没将兵の遺骨の通過を厳粛なおももちで見送った。こういった彼女たちの行為が、軍から高く評価されたということであろう。

新聞(部分)

大阪朝日新聞北支版 1938年7月9日
「百四十度の炎熱下に
石下荘国婦(国防婦人会)の大活躍」
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 次は石家荘(河北省)の国防婦人会の活躍ぶりを伝えている。
 「この日、記者が最も感激したのは、国防婦人会員の活躍であった。朝まだき○○にある遺骨奉安所に全員礼拝して、護国の鬼となった陣没勇士の英霊を心から弔ってのち、それぞれ分担を決め、或は○○野戦病院に、或は各部隊に真心こめた慰問を行った。 (中略)この炎天下を甲斐々々しい国婦会員の心遣ひには、鬼をもひしぐ兵隊さんも涙を流して感激してゐる。○○野戦病院では砲煙弾雨のもとを、戦塵に汚れた服やシャツの洗濯、綻びなどはもとより、重病患者の氷枕の交換、綳帯の巻替へ、文字通りいたれりつくせりの看護であった。」(『北支版』1938年7月9日)。

 また、北京の国防婦人会は、「毎月一回、定例の○○病院の慰問、還送傷病兵の歓送、さては慰問文の作成などに、かひがひしく活躍し、前線の勇士に大きな慰めをあたへてゐる」「なほ、正月を間近に控へて、戦線の勇士達に正月の祝ひ品を送ってやるため、来る十七日、支部評議会を開き、正月の慰問方法を協議することになった。」(『北支版』1938年12月15日)という。

 南京の国防婦人会は、「駅頭の兵隊さんへのお茶接待」をした。「「戦地に傷つき、病をえて、心ならずも後送される忠勇無比の傷病兵。さぞ、その心中はおさびしいでせう‥‥といふところに心をくばった南京在住の婦人たちが、近ごろ患者輸送列車の出るたびに、南京駅頭に総出の見送りをして、やさしい日本婦人の心構へをみせ、白衣の勇士たちを感激させてゐます。」(『北支版』1938年10月26日)。

 天津の国防婦人会は、自分たちの手で、「純毛の毛布百十八枚(時価にして約八千円)」を製作し、軍に献納した(『北支版』1940年11月17日)。 このようにかいがいしく活躍する彼女たちは、「銃後の花」と讃えられている。

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 【3】軍人ホールで兵隊の世話

 中国戦線に形成された日本人町にやってきた兵隊たちの要求は多種多様であって、「飲食と売春婦」以外のものを求めるものもいた。その要求に応えたのが、「軍人ホール」であった。「軍人ホール」はいわば兵隊の無料休憩所であった。「軍人ホール」は宗教団体が設立する場合もあったが、多くは国防婦人会が設立運営した。

 天津の「軍人ホール」は『をばさんの家』といった。「福島街の一角に『をばさんの家』といふ皇軍将兵無料慰安所を設置し、在津部隊将兵はもとより、通過部隊の諸勇士からまで感謝の的になってゐる。(中略)戦地で新春を祝ふ在津部隊の兵隊さんたちにお雑煮の接待を行って、大人気を博し、ひきつづき連日、各班交代で接待に暇がない。」(『中支版』1939年1月20日)

新聞(部分)

大阪朝日新聞中支版 1939年1月20日

 『をばさんの家』を運営する天津の国防婦人会の評判がよいので、「なほ近く陸軍省の映画班がこの素晴らしい天津国婦分会の活躍を撮影にくるといふ」。掲載写真に、「兵隊さんにをばさんぶりを発揮してゐる国婦分会員」という説明がついている。

 広東市の皇軍無料休憩所でも、国防婦人会員が兵隊の世話をしていた。 「居留民団の努力により、広東市漢民北路に皇軍無料休憩所が出現。さる一日から開所したが、これまで自分たちのみの休憩所を持たなかった兵隊さんの喜びは一方ならず、四日の日曜日は外出を許された兵隊さんで大賑ひを呈した。国防婦人会員の奉仕で、汗をかきながら、あついお茶にのどを潤した兵隊さんは雑誌、新聞に読みふけったり、碁、将棋に興ずるさまは、現地における兵隊さんと銃後の美しい団結の一面を物語ってゐた。」(『北支版』1949年8月10日)。

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 【4】 節約の奨励

写真

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九江 国防婦人会の慰問

 各地の国防婦人会は節約を奨励する。中国戦線の各地にできた国防婦人会は独立性が強かったように思われる。そのため、節約の奨励といっても、それぞれの国防婦人会で、その内容は違っていた。

 青島の国防婦人会は、年末年始を迎えるにあたって、四ケ条の禁断を申し合わせている。「一、年末年始の贈答廃止。万一頂きましても御返し致しませう。一、迎春の買物は一切見合すこと。一、年賀廻りやこれが接待は一切廃止のこと。一、各家庭で節約した剰余金は国債の購入、または貯金を致しませう。」(『北支版』1939年12月19日)。

 河北省石門(石家荘)の国防婦人会が求める節約の内容はもっと細かい。「現地における日本婦人の一部には、時代に目覚めず、未だに衣装などに贅を競ふ向もあり、非難されてゐる」(『北支版』1940年9月4日)。「月掛貯金、国債の購入(一人当り最小限、年額百二十円)、衣装の裾模様廃止、外国化粧品の使用全廃、装身具の使用および電髪の禁止、冠婚葬祭などにおける国民儀礼章の使用など」の励行を会員に求めた。購入すべき国債が一人当り最小限、年額百二十円とまで指定されているように、きわめて具体的である。

 北京の国防婦人会は、軍病院の入院患者に配るために、ウチワ(団扇)を各家庭から募集する(『中支版』1939年7月18日)。ウチワなどやすいものである。わざわざ各家庭から集めなくても、金を出して買えばよいと思ってしまう。あえてウチワの供出を求める国防婦人会のやり方に、私は「こわいものなし」のある種の傲慢さを感じてしまう。

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 【5】 国防献金・軍用機の献納資金の募集

 国防婦人会は、国防献金や軍用機の献納資金を懸命に募集した。坊子(山東省)の国防婦人会は「ビールとサイダーの空瓶を集めてゐたのが、なんと一万八千余本になった。」 その代金514円余を国防献金としてさし出した(『中支版』1938年8月23日)。

 天津の国防婦人会は、国防献金を集めるために、「四万居留邦人各家庭に「お願ひ」なる書簡を発送した。」(『中支版』1939年7月16日)。
 九江(江西省)の国防婦人会は、「会員総出で街頭に赤襷姿で、国防献金のため喜捨を募ったり、廃品回収、資源擁護を始めたり、また各自家庭の冗費節約を企てたりして」(『中支版』1939年10月15日)、浄財149円余を集め軍用機献納資金に寄託した。
 青島の国防婦人会は、「三月十日の陸軍記念日に佩用する記念マークを作成し」(『北支版』1949年3月5日)、それを一枚一銭で売り、売上純利益を国防献金とした。

 国防婦人会のうしろには軍がいた。在留日本人は国防婦人会の要請を無視できなかった。もし無視すれば、日本人町で生きてゆくのに種々の障害が起こることは十分、予想できたからである。国防婦人会は、在留日本人にとって、恐ろしいというか、面倒で厄介な存在であった。

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 【6】 運動会・日本人町や部隊の記念日に参列・神社

写真

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九江 国防婦人会の慰問

 日本人町では、余興と親睦のために運動会がよく開かれた。国防婦人会は運動会に積極的に参加した。「そっちこっちでは、坊やや嬢ちゃん連と兵隊さんが仲よしになり、国防婦人会のオバさん連も、白襷に物をいはせて頗る明朗、」(『北支版』1938年10月19日)と、天津居留民の大運動会で元気に活躍する国防婦人会員のようすが記されている。
 国防婦人会員は、いつも和服に白いカッポウギ(当時はエプロンといったが、現在では割烹着と表現したほうがわかりやすい。)をはおり、さらに国防婦人会と書かれたタスキをかけた。彼女たちは運動会にも、この格好で参加した。

 石門(河北省石家荘)の奉祝記念大運動会では、「在郷軍人班の綱引が終ると、国防婦人班の活発なる“手榴弾戦”があ」(『北支版』1940年11月8日)った。在郷軍人の綱引きはわかるが、国防婦人会員が行った「手榴弾戦」がどんな競技だったのか、わからない。

 張家口(蒙疆政権の首都であった。)の小川部隊の創設記念日に、「小川部隊長以下、隊員、収容中の白衣の勇士に、在張各部隊長、各機関など、軍官民の代表者および国防婦人会員数十名も参列して、厳かな式典を挙行。」(『中支版』1939年4月8日)とあるように、国防婦人会員は式典に招かれている。そして、国防婦人会員の接待により、参加者は昼食をとっている。彼女たちは、式典の裏方を支える重要な構成員であった。

 九江(江西省)では、観兵式の午後「居留民団主催の運動会が兵站グラウンドで花やかに開幕。小学児童、陸海軍の勇士、国防婦人会など多彩な顔触れで、歓喜と朗色に終日、彩られた。」(『中支版』1939年11月11日)

 山西省臨汾(リンフン)の日本人町では、毎月二回、全住民が集まり、遥拝式を行った。在留日本人の団結を周辺の中国人に誇示したのであろう。遥拝式では、「男は国防色の被服、女は白エプロン、国防婦人会の襷がけで、城内広場に参集。駐屯部隊幹部も参列し、勇士の吹奏する「君が代」のラッパにつれて、国旗を掲揚、居留民会長の号令で東方を遥拝」(『中支版』1939年4月21日)した。

 少し大きい日本人町には神社が必ず建立された。河南省彰徳に神社を設ける理由を「神社は大陸に進出せる邦人たちにとって、魂の拠りどころであり、華北における在留邦人の氏神として、日夜、崇敬の的となってゐる」(『北支版』1940年10月13日)と述べている。大きな記念日には、必ず一同で神社の境内に集まり、気勢を上げた。国防婦人会は神社の設立・運営にも重要な役割を果たした。

 徐州(江蘇省)の場合、「女ながらも我らは大和撫子――ますます東亜建設に挺身活躍する夫を助けて、家庭を護り、後顧の憂なからしめんと励む徐州国防婦人会の全員は、また皇軍慰問に、勤労奉仕に全く己れを忘れて活動をつづけてゐる」(『中支版』1941年11月12日)と、高い評価を下す。後段では、「一日は午前八時から全会員、近づいた徐州神社秋季大祭を前に、進んで神域の清掃に奉仕、神国女性の浄らかな真心を示した。」と、彼女たちが神社の清掃に当っていることを伝えている。また、秋祭の時には、生花大会を献納している。

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 【7】 救護訓練・軍事演習に参加

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九江 国婦の患者慰問

 国防婦人会は、それぞれの日本人町で計画された救護訓練に参加した。在郷軍人会および国防婦人会を主体とし、軍指導のもとに行われた山東省兗州(エンシュウ)の救護訓練では、「在郷軍人は鉄道ガードを閉塞して防水作業に従事、国防婦人会は負傷者の運搬救急に、また炊出しに活躍振りを示し、一般居留民は各隣組が協力して救護に当」(『中支版』1941年7月18日)った。

 日本内地の国防婦人会も時に軍事演習に参加したが、しかし、彼女たちにとって、戦争はまだ遠い世界の現象であった。だから、その取り組みには真剣みが欠けていた。これに対して、中国戦線の日本人町の在留日本人は、いわば戦場の真っただ中で暮らしているようなものであった。戦局の推移によっては、ただちに自分たちも戦闘に巻き込まれるのではないかという恐怖心を常に抱いていた。万一の場合に備えて、武器の使用法を習得しておきたいと、国防婦人会の会員も軍事演習には真剣に取り組んだ。

 江西省の省都・南昌は文字通り最前線の町であった。南昌の国防婦人会員は、軍人の指導の下に、「擲弾筒、軽機関銃、小銃などの射撃訓練を受けたが、さすがは中支の最前線を護る国婦会員だけあって、万一の場合に備へる真剣さから、最後には銃を構へて突撃の演習までも行ひ、大いに意気をあげた。」(『北支版』1939年12月26日)というのである。

 天津の国防婦人会が一日入営した時のようすをみる。「各分会から二百名のをばさんたちが、白エプロンにモンペといふ勇ましい姿で、勇躍、○○部隊へ入営。直に営内神社に参拝し終って、一同は二個中隊十個班に別れ、指導に当った兵隊さんから、まず内務教育うけ、兵舎を見学、兵営生活、兵隊の日常起居などについて説明を聴き、また軍装防具のつけ方を実習、続いて将校集会所、酒保、炊事場、浴場、医務室、弾薬庫、縫装工場、営倉などを見学、午後は米英撃滅の心意気をこめて、狭●射撃の基礎練習を兵隊さんから親切に手ほどきされ」(『北支版』1943年2月3日)た。

 臨汾(リンフン)は山西省南部の町である。鉄道が通っているので、地域の拠点となる町であった。ここの二百余名の国防婦人会員は、「エプロン、白襷も甲斐々々しく、参加全員の中食をと、「握飯に豚汁」の野戦料理の炊出しと接待を受持ち、舌鼓を打たせ、中食後は私達も一朝有事の際の覚悟はと、勇ましい射撃に移り、現地女性の意気を遺憾なく発揮して、午後四時終了。意義ある一日を送った。」(『中支版』1941年11月12日)。

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 【8】 軍隊に協力・前線の部隊を慰問

 国防婦人会はさまざまな方面で、軍隊に協力した。三坂部隊が、味噌すりの器械を利用して、お正月用のお餅を大量に作った。「国防婦人会員が餅の丸め役を引受けたので、三坂部隊の味噌工場はたちまち花やかな餅工場とな」(『北支版』1939年12月26日)った。ささやかな手伝いのように思われるが、これも国防婦人会の協力の一例である。

 安慶は安徽省の町で、長江(揚子江)の港町である。日本軍部隊の宣伝班がアド・バルーンをあげる。「連日、夏空にはまるで平和の使者のごときアド・バルーンが浮揚してゐる。これらの文字(一字一間四方)はいづれも安慶国防婦人会員の奉仕によるもので、安慶陥落二周年記念日を中心に、今月一ぱいあらゆる時局ニュースを織込んだ文字で、敵の心胆を寒からしめようと計画されてをり、」(『北支版』1940年6月15日)とあるように、この文字は、安慶の国防婦人会員が作成した。たとえ、軍から委嘱されたものであっても、彼女たちの行為は、明らかに戦争にかかわるものであった。

 日本人町にいる限りは安全であったが、町の外部の治安状況はおおむね悪かった。近郊の陣地に布陣している部隊を慰問することは命がけであった。危険が大きいので、国防婦人会は通常、前線の部隊を慰問していない。

 安徽省の安慶の国防婦人会は、「さきほど上海から吾妻流舞踊の師匠、吾妻春海女史を招聘し、国婦を中心に踊りの練習に余念なかったが、まづ第一線に皇軍勇士をこの踊りで犒はうと、四月早々から篠原部隊の前線慰問を行ふことになったが、後援会ではほんとに最前線を訪れ、心から感謝の真心を捧げたいといってゐる。」(『中支版』1941年4月3日)。「ほんとに最前線を訪れ、」という表現に、前線部隊を慰問することの困難さを看取できる。

 天津の国防婦人会は4つの班を作り、周辺にいる部隊を慰問した。
「国防婦人会天津支部では、陸軍記念日行事の一として、九日、左記の四班にわかれて○○部隊最前線の皇軍慰問を行ひ、各皇軍部隊から深く感謝された。第一班、郎坊行 十五名(旭新番料理店組合)(中略)第二班、永清行 十五名(マルタマ少女歌劇)(中略)第三班、覇県行き廿名(カフェー組合)(中略)特別班、唐山行 十八名(曙街三業組合)」(『中支版』1941年3月16日)。料理店組合、カフェー組合、三業組合という名称から、慰問に出かけていった女性はいずれも接客業・売春婦であることがわかる。マルタマ少女歌劇は、天津の日本租界にあった少女歌劇団である。若い女性が前線まで慰問に来てくれたので、兵隊たちは大喜びしたことであろう。

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 【9】 軍から高い評価を受ける

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陸軍軍楽隊来る

 次は、戦場で戦った将校が、自分が実際に見聞した国防婦人会員の活動ぶりを、内地に伝えてきた書簡の内容である。「男子に劣らぬ奮闘ぶり」とか「戦線で慈母にあひたる思ひ」とか記して、手ばなしで彼女たちをほめたたえている。

 「在支国婦会員の活躍 危険を顧みず将兵に湯茶の接待 戦線の慈母と感激のまと
 福岡市春吉町在郷軍人春吉分会長、安部俊次郎氏は、草場部隊の○○隊長として、各地で奮戦中であるが、十四日、大日本国防婦人会福岡本部へ、左の如き在支国防婦人会員の男子に劣らぬ奮闘ぶりを伝える書簡を送って来た。事変発生以来、国婦会員の皆様の涙ぐましい奮闘の数々が前線将兵に感動を与へることの大なることを、現地でまざまざ感じました。山海関、天津、済南、徐州における活躍ぶりは筆舌に尽し得ません。○○日夜、四囲の危険を感じながらも、蝋燭の火の下で玉なす汗をぬぐひつつ、将兵に湯茶の接待をなし、非常な激励を与へられました。また各地の駅では、発車した汽車に汗だくで追ひつき、湯茶、ビール、サイダーなどを列車の中へ投げ入れて下さいました。炎暑のため病人続出の場合は、百三十度の街頭を数町も走り、氷を買って来て、手厚い看護をなし、一同、戦線で慈母にあひたる思ひを致しました。」(『北支版』1938年9月16日)

 「現地天津国防婦人会に感謝の慰安をしようと、軍報道部によって、二十六日午前十一時より、日本租界旭街天津劇場で、慰安映画会を開催。『母を讃える歌』『おそ咲きの花』二篇を無料公開した。」(『北支版』1940年11月29日)とある。軍の側が、民間の団体に対し、このようなサービスをすることは珍しい。国防婦人会の活動が、いかに軍から重宝がられていたかがわかる。

 河北省石門市(石家荘)の国防婦人会が組織編制を変える。新たな組織の「発会式当日は、大阪で国婦を最初に作った生みの親とも言ふべき○○部隊長を迎へて、講演があった」(『北支版』1940年6月6日)。国防婦人会の前身である大阪国防婦人会は1932年3月に作られた。これが発展して、1934年4月、国防婦人会となった。大阪国防婦人会の8年後の発展ぶりを、日中戦争を戦っている中国戦線で実際に見て、「生みの親とも言ふべき○○部隊長」は感慨無量だったに違いあるまい。

 日中戦争から太平洋戦争に、戦争の規模が拡大する中で翼賛会ができ、ほとんどの民間の団体・組織はそれに組み込まれていった。ところが、「先般来、在北京大使館練成課と華北大日本国防婦人会との間に協議を進められつつあったが、このほど、意見の一致を見るに至ったので、(中略)その要綱、左の通り。一、国防婦人会は従前通り、陸軍(兵事部)の系統下に置く。二、国婦は翼賛会の協力団体として、」(『大阪朝日中華版』1943年5月26日)とあるように、国防婦人会は例外として、「従前通り、陸軍(兵事部)の系統下に置」かれることになった。国防婦人会が、いかに軍から重く用いられていたかがわかる。軍としては、国防婦人会が軍の系統からはずれてしまうのを嫌ったのである。

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 【10】 結論 国防婦人会は軍の召使いであり、応援団でもあった

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九江 国婦の患者慰問/陸軍軍楽隊来る

 日本人町という方式は、金がかかった。100万の大軍を長期に派遣する一方、さらに朝鮮人や台湾人を含めれば、60万人以上にもふくれあがった在留日本人の生活の面倒まで見るのだから、軍や国家にとって大きな負担となった。反面、長期戦で心身を消耗させた兵士をリフレッシュする方法としては抜群の効果を発揮した。日本人町が多く中国戦線に形成されたことで、8年にもおよぶ長期戦にもかかわらず、兵士の大規模な反抗や不服従は起こらなかった。

 国防婦人会の活動が、この日本人町の成功をより確実なものにした。国防婦人会は軍の走狗、召使いであった。軍の意向を受け、彼女たちは日本人町で懸命に兵隊たちに奉仕した。日本人町の飲食業者や売春婦とは違った意味で、兵士のリフレッシュに貢献した。国防婦人会の献身的な活動がなければ、日本人町は「仏、造って、魂、入れず」の状況に陥ったであろう。その意味で、日本人町に「魂を入れた」のは国防婦人会であった。
 中国戦線ではずっと兵力が不足していた。105万人も派兵すれば、兵力は十分足りるであろうと思われがちである。しかし、実際は違った。これが日中戦争の特質であった。日本軍は中国戦線のいわゆる点と線しか押さえられなかったといわれるが、その通りであった。

 慢性的な兵力不足の状況のなかで、日本人女性を兵士として利用したいと、軍部は思わなかったのであろうか。

 日中戦争の時、女性兵士は実現しなかった。それを承知の上で、女性の戦争協力の問題として、この時、女性兵士が生まれたとあえて仮定してみる。(「人民の武装権」は別に男性に限られたわけではない。女性にも当然当てはまる。しかし、侵略戦争の場合、兵士は侵略戦争への動員・加担を強制されるのであるから、難しい問題である)。この場合は徴兵制でなく、志願兵制でよい。しかも、戦闘要員としてではなく、安全な補助部隊として配置する。女性兵士の数は数千人から1万人でよかろう。たとえ1万人の女性兵士が中国戦線に追加投入されても、戦局には影響しなかったであろう。しかし、女性兵士の創生は、確実に大きな副産物をもたらすであろう。

 男性兵士と肩を並べて戦場で戦う姿は、女性に対する日本社会の見方を大きく変える。日本社会における女性観や女性の地位に変化をもたらす。その結果、女性の地位向上につながってゆくであろう。問題はいっぱいあるとしても・・・。国防婦人会では、いくら「功績」が大きかったとしても、女性の地位向上という視点での評価は決して生まれては来ない。(2012年5月17日) 

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