パラオで考えたこと(そのⅠ) コロール島(日本語を話す人々) 丸山 豊

地図① 観光パンフレットより
2月下旬、妻とパラオへ出かけました。「ガンジス川で沐浴を」と思っていたのが、旅先がパラオに変わりました。きっかけは息子に「戦跡と平和、慰霊の旅が好きなおとうさんにピッタリの島だ」と薦められたからです。
しかし「パラオってどこ?」とよく聞かれます。フィリピンの南東、赤道よりチョット北の人口も二万人ほどの小さな島々からなる熱帯の国です。(地図①)
かつてここは日本の統治下であったことは余り知られていません。1914年の第一次世界大戦までこの島はドイツの占領下にありました。この大戦に「大正新時代の天佑」とばかり参戦した日本のねらいは、中国の支配と太平洋にあるドイツ植民地のミクロネシアの島々の占領(南洋諸島)にありました。この大戦の勝利が「15年戦争、アジア・太平洋戦争」の遠因となります。
国際連盟の委任という形の南洋諸島植民政策の中心がパラオでした。南洋庁もここに配備されました。実際は1914年から30年余に及ぶ日本支配時代が続き、日中全面戦争後はペリリュー島に飛行場の建設を進め、パラオはアメリカに対する太平洋の要塞となります。戦争末期、1944年アメリカにとってフィリピン奪還へのレイテ、本土攻撃へのグアム、サイパンにつながる大きな壁がパラオでした。その結果、中心地コロール島への空襲、ペリリュ-島での激戦となり、島の住民も戦争に巻き込まれていった歴史があります。

写真② シニア・シチズンセンター
日本語教育が徹底していたので、70歳代後半以上の人は日本語が話せます。パラオ高校の西隣にある「シニア・シチズンセンター」(写真②)には多くのお年寄りが集まってきます。そこで今年81歳になるアントニオさんにお話を聞くことができました。(写真③)
彼女は小津安二郎の映画のような美しい日本語でいろいろ話してくれました。
日本統治下のパラオは教育、道路、電気などのインフラ整備が進み、パラオは非常に豊かな島になったこと。小学校で習った唱歌は今でも大好きなこと(富士山とか日の丸など)。私も妻も歴史の皮肉と不思議さを味わいつつアントニオさんと一緒に歌いました。彼女から見ると今のパラオが余りにもアメリカナイズされており、英語文化に浸る若者への不満もあるようです。
「みんな一緒できれいだった」こう話したのは、小学校時代の運動会に話が及んだときです。「気をつけ」「前へならへ」「止まれ」「回れ右」「前へ進め」・・・。見事な団体行動を思い出すのでしょう。しかし私は、かつて何の違和感も感ぜずこれらの言葉を発していた若かりし教師時代の自分を思い出し苦笑しました。
話が教室の思い出になると「一つ、私どもは立派な日本人になります」「私どもは天皇陛下の赤子であります」「私どもは天皇陛下に忠義を尽くします」と歌うように唱え始めました。毎朝唱和させられ、必死に日本人になろうとしていた姿が浮かびました。

写真③ アントニオさん(中央)
「ところで昭和20年8月15日はどんな思いでしたか?」と尋ねると、彼女は真顔で「日本は勝つと信じていましたから、悔しくて私たちは泣きました」ときっぱり言いました。 アントニオさんにはまだ67年前の日本が生き続けているのです。
「その昭和20年8月15日に私が生まれました。その日は私の誕生日です」と話すと、「本当ですか?」と懐かしむような不思議な顔をしてから「世界中が祝ってくれる日です」と言いながら一緒に大笑いしました。

パラオの海と島々
空襲の話になると、日本人の体験と同じものになります。日本の勝利を信じて疑わない軍国少女が戦火を逃れ、この地で身を潜めていたのです。
次に日本人化の基である教育勅語について聞きました。「チンオモフニ ワガ コウソ コウソウ クニヲハジムルコト コウエンニ」は知っていますか、の問には首を傾げます。歴代の天皇「ジンム スイゼイ アンネイ イトク・・」と話しかけても知らない様子。そこまでは強制されなかったようです。
ここに朝鮮の皇民化教育との違いを感じました。15年以上前「韓国、平和と歴史の旅」に参加したとき、ガイドの崔さんは、教育勅語、歴代の天皇をすべて暗誦していました(その見事さに心が痛みましたが)。
パラオの教育は当時の朝鮮、台湾と大いに異なるようです。学校(公学校)はもちろんすべて日本語でおこなわれましたが、修業年数は3年間で、2年間の補習科を含めても5年制でした。しかし、皇民化は浸透し、ねらいは充分達成されていたと考えられます。
戦後は英語が強制されアントニオさんは英語を身につけるチャンスを失い苦労したとのこと。しかし私たちの訪問を快く受け入れてくれたばかりか、67年後の今も日本語を忘れない姿に驚きました。
一時間以上も話したでしょうか。シニアセンターではお年寄りが集まって伝統工芸品を手作りしています。南国の蒸し暑い日差しの中、皆笑顔で送り出してくれました。

写真④ パラオ高校で
隣のパラオ高校に立ち寄りました。昼食時で生徒は三々五々、自由に外食しています。門から少し入ったところに石の台座がありました。男子生徒三人ばかりが制服姿でその周りに腰を下ろしていました(写真④)。
彼らに「この台座は何か」話しかけても「知らない」といいます。私が目をこらして下を見ると「・・大尉・・」と読めました。日本統治時代ここに軍人の彫(胸)像が建っていたと思われます。「ここに日本人の像があったはず」と言っても不思議そうに全く無関心。話題をかえて少しだけ話をしました。
パラオの高校は、生徒数約600人、日本語科も選択であるらしいが、すべて英語で行われ、最大の関心はアメリカ。日本の高校生と同じで携帯を見ながら歩いている子もいます。

写真⑤ 木の上で遊ぶ子ども
パラオの小中学校も行ってみました。子どもたちは皆おおらかで人なつっこく出会うと必ず微笑んで挨拶をしてくれます。近くの木の上で子どもが遊んでいました。妻が「アリー(パラオ語のこんにちは)」と声をかけると実にいい笑顔で答えてくれました。(写真⑤)。
子どもたちは、スペイン、ドイツ、日本の統治と続き、激戦地となり戦後のアメリカの統治から現在にいたるパラオの歴史をどう学ぶのか、特に戦争による現地住民の被害などはどうか、対日感情はどうか・・。パラオの旅は私にいろいろな問題を投げかけてくれました。

パラオのサンセット
周りを見渡せば、ジャングルがあり、椰子の実があり、珊瑚礁に囲まれ、どこまでも澄んだ海に囲まれ、ダイバーあこがれのパラオ、今は軍隊も基地もない天国のような平和な島です。
しかし、平和にみえる南洋諸島も過去の戦争に巻き込まれた歴史を持ちます。次回は激戦地ペリリュー島でこの問題を考えます。 ( 次回に続く )
注:公学校とは満8歳以上現地住民の児童の普通教育機関。修業年は3年、2年間の補習科も置かれた。現地日本人児童は島民児童とは区別され、日本の普通教育を受けた。