◆ シリーズ 戦争を考えるための遺跡 ⑩ ◆
     名古屋にはじめてできた兵器工場―熱田製造所          金子 力


 
記念碑の写真

名古屋陸軍造兵廠記念碑(熱田区六野)2009年撮影

 名古屋市熱田区六野町神宮東公園に建つ名古屋陸軍造兵廠記念碑、かつてこの地は名古屋陸軍造兵廠の本部跡だったといわれています。
 名古屋に陸軍直営の兵器工場が設置されるのは、1904(明治37)年11月のことです。日露戦争が始まると、兵器弾薬の不足が大本営にとって大問題となりました。そこで東京と大阪の両砲兵工廠だけでは生産が消費に追いつかないため、現在の名古屋市熱田区に新しく工場をつくることになりました。
 東京砲兵工廠熱田製造所と名付けられた工場では、弾薬車や渡河作戦のための鉄舟などの生産とともに、村田式歩兵銃などの修理をおこないました。開戦以来20か月で日露戦争が終わると熱田兵器製造所は、創立1周年記念に構内の見学を許可し、数万人の市民が訪れたといいます。
 熱田製造所は名古屋市街地図の裏面の名所案内にも登場しています。

コンクリート塀の写真

1905年当時の熱田製造所『名古屋陸軍造兵廠史・航空廠史』より

 

熱田周辺の地図

名古屋市教育会『名古屋市實測圖』 明治43(1910)年
『新修名古屋市史』第6巻 付図1より

 熱田製造所設置にともない精進川の改修が行われました。大雨で氾濫することの多かった精進川を掘り下げ、治水をおこなうとともに、運河として利用することになります。掘削した土砂は熱田製造所の敷地の造成に使われたといいます。

 こうして、日露戦争時の兵器増産と修理を目的につくられた熱田製造所が大きく変化するのは、第1次世界大戦の時からです。この大戦で飛行機が兵器として登場しました。
 ライト兄弟がアメリカで初飛行をしたのが1903(明治36)です。10年後の1913(大正2)年には日本国内でも飛行機の試作第1号機が完成し、翌年の8月、青島のドイツ軍との戦闘に初めて陸海軍の飛行機が使われました。
 こうした飛行機の国内生産を本格化するために東京砲兵工廠は飛行機製造を熱田製造所に移します。1918(大正7)年熱田製造所でモーリス・ファルマン式飛行機の製造が始まります。1920年(大正9)年、発動機(エンジン)製造のため千種に東京砲兵工廠名古屋機器製造所が設置され、熱田製造所にあった発動機製造設備は千種に移されます。熱田製造所でつくった機体に千種で作った発動機を搭載した乙式一型偵察機は1928(昭和3)年までに340機生産されました。

乙式一型偵察機

乙式一型偵察機 『名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空工廠史』


 その後軍用機生産の中心が、三菱・愛知時計電機・中島などの民間企業になる一方、熱田製造所では車両工場、薬莢(やっきょう)工場などで車両・砲弾・大砲等の生産が続けられました。
 1944(昭和19)年12月になると、三菱重工大幸・三菱重工大江など軍用機工場への空襲が始まります。熱田製造所も疎開をします。近くは古知野町の滝実業(現在の滝高校)、遠くは岐阜県や富山県へ移転されていきました。

 戦後、名古屋造兵廠が米国戦略爆撃調査団に提出した「空襲被害状況表(熱田製造所構内)」には、被害を受けた建物・器具材料とともに3回の空襲(3月19日、5月17日、6月26日)で15名が亡くなり、51人が負傷したことが記録されています。

昭和18・19年文書等綴 名古屋陸軍兵器補給廠銃器班 表紙

熱田製造所攻撃用に作成されたリトモザイク(石版集成図)の一部
目標番号90:⑳-197の90は日本本土を表し、20は名古屋地区を 表している。
197は熱田製造所そのものにつけられた目標番号
  工藤洋三氏提供