◆「ぞうれっしゃ」のタピスリー(タペストリー)の寄贈を受けて
   ~ 版画家うえのたかしさんのこと ~               丸山泰子


東山動物園ゾウ舎前のモニュメント

東山動物園のモニュメント

 東山動物園ゾウ舎前に写真のモニュメントが立っています。
 今回その原画のタピスリー(縦・90 ㎝、横・90 ㎝、販売価格6 万円)の寄贈を受けました。原画を制作されたのは、岐阜の版画家うえのたかしさん。寄贈して下さったのは、奥様の上野芙美さんです。上野芙美さんには、去年(2010/7)ピースあいちの「ぞうれっしゃ」の展示をリニューアルした時から、ご協力をいただいています。
 先月、上野芙美さんより寄贈の申し出があり、さっそく岐阜まで出向き、貴重なタピスリーをいただいてきました。うえのたかしさんは、2年前、「ぞう列車が走って60周年」の記念音楽会(2009/11/29愛知県勤労会館)の2ヶ月ほど前に急逝されています。

このモニュメントは、1999年、「ぞうれっしゃが走って50周年」を記念して、「ぞうれっしゃのなかまたちの会」(註)の手によって東山動物園に寄贈されました。

(註)「ぞうれっしゃのなかまたちの会」代表
小出隆司(「ぞうれっしゃがやってきた」絵本原作)
清水則雄(合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」作詞)
藤村記一郎(合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」作曲)
石原則義(合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」初演時団長)



 〈ぞうれっしゃとは〉

 戦争末期、ほとんどの動物園では、動物たちが軍の命令で殺されていきました。しかし、名古屋・東山動物園のゾウ、マカニーとエルドは、当時の北王英一園長らの必死の努力で生き延びることができました。戦後、日本でたった2頭になったゾウを見たいと願う子どもたちのために、旧国鉄が、特別仕立ての列車を走らせました。これが「ぞうれっしゃ」です。ぞう列車第1号は、1949(昭和24)年6月18日、彦根市の子どもたちを乗せて名古屋にやってきました。
 ピースあいちでは、ぞうれっしゃの史実をもとに「ゾウを守った東山動物園」を子ども向けにパネル展示しています。
 このお話は、パネルでも紹介していますが、「ぞうれっしゃがやってきた」の絵本や、 同名の合唱構成などによって広く知られるようになりました。今年の夏(2011/8/20))には、愛知子どもの幸せと平和を願う合唱団とインドの子どもたちとのコラボによる「インド版平和ぞうれっしゃ」が東山動物園で上演され、感動を呼びました。

 〈うえのたかしさんと「ぞうれっしゃ」〉

 モニュメントが東山動物園に寄贈された年、うえのさんは、岐阜で「ぞうれっしゃがやってくる」うえのたかし絵画展を開催されました。その時のうえのさんのメッセージを紹介します。
(岐阜ギャラリーパスワールドのホームページより)

 ― うえのたかし絵画展(於岐阜)におけるメッセージから
 「ぞうれっしゃが走って50周年記念」モニュメントについて

 サーカスにいたことのある象のマカニーとエルドが曲芸をするのを、私は子どものときに、東山動物園でみたことがあります。でも、なぜ、二匹の象が戦争を生き残ったのかは知りませんでした。このモニュメント(石碑)を制作することになって、初めてその事情を知りました。
 五才の誕生日を迎えるまえ、1945年7月9日の夜に、岐阜空襲を体験した私には戦争がどんなことか分かります。むちゃくちゃに人が殺され、住む家が焼かれて、食べ物がなくなってしまいます。最近のユーゴの戦争を見れば分かります。
 そんな時に、大きな体でたくさん食べる象を飼うのはとても難しいことです。東山動物園でも多くの動物が殺されました。象のキーコとアドンは食べ物がなくて死んだそうです。そのころの東山動物園の園長さんが職員の皆さんと協力して、軍隊や警察を説得しました。兵隊が住むようになった東山動物園で、軍馬を管理する獣医さんが、象の部屋の近くに置いた馬の餌を、象に食べさせても知らぬふりをしていたそうです。そうしてマカニーとエルドは生き残ったのです。
 四年前に名古屋市民ギャラリーで80点ほどの作品を発表したのが契機となって、そのモニュメントを制作することになりました。昨年の夏に、多くの子どもたちから素案の絵が集まって、それを参考にしてデザインしました。そこには、未来から来た子どものみなさんの希望があふれています。それは、戦争なんかしないで、地球の子どもたちと、平和に生きていくことを望む21世紀へのメッセージなのです。
 それに関わる展覧会などの行事を、お知らせいたします。ことしの夏は、お子様を連れて、みなさまで出かけてくださることを、心からお願いいたします。  
   1999年、夏 うえのたかし

合わせて「うえのたかしさんの経歴」も紹介します。(資料提供:上野芙美)


1940年 岐阜市に生まれる。
1957年 岐阜市立 徹名 てつめい 小学校・本荘中学校を経て岐阜高校入学
  演劇部で裏方(舞台美術・大道具)として活躍
  ユニークなキャラクターで役者も経験
1959年 岐阜大学教育学部美術工芸科入学
  在学中劇団「はぐるま」に入団、舞台美術で活躍
1963年 大学卒業と同時に精神を患い、「はぐるま」退団
  東岐黒板に就職、「うえのたかし版画友の会」をつくり版画家として独立
  まもなくケルン山岳会に入会し登山、勤労者スキー協でスキーを始める。
1975年 岐阜市ではじめての個展、作品150点発表
1976年 ベルリンで開催された「インターグラフィック」集会に、日本美術界代表として参加、
  のち、美術交流でオランダ、中国、ニュージーランド、アメリカ、キューバを訪れる。
1989年 画集「いのちの賛歌」を出版
1997年 ハイビジョンフェスティバルで、岐阜未来会館マルチメディア工房制作の
  作品「空襲・うえのたかしの記憶」がグランプリを受賞
1999年 「ぞうれっしゃのなかまたちの会」が、「ぞう列車が走って50周年」記念
  モニュメントを東山動物園に贈呈、その原画を制作
2000年 愛知ぶなの木スキークラブの仲間とヨーロッパアルプス・オートルート完走
2008年 回顧展「画業50年の軌跡」を岐阜市民会館2階全室で開催
2009年 10月5日早朝没

 寄贈を受けたタピスリーは、現在、再び3階の展示室にもどった「戦争と動物たち」の展示に花を添えています。うえのさんのメッセージや経歴から、うえのさんの平和への強い思いが伝わってきます。うえのさん始め、子どもたちの幸せと平和を願う多くの人々の思いが込められたこのタピスリーを、東山動物園にあるモニュメントと共に、是非、多くの皆さんに見ていただきたいと思います。
(次号で、モニュメントができた経緯をさらに詳しく紹介します。)

ピースあいち3階展示風景

「象列車」 タピスリー