オバマ政権時代の米国を見つめて⑧◆ベトナム退役軍人記念碑を清掃する
名古屋市立大学准教授 平田雅己
日本で全国的な戦争犠牲者追悼の日といえば8月15日の終戦の日だが、米国では毎年5月最終月曜日の戦没者記念日がそれにあたる。(ただし対象となる戦争の定義はすべての戦争を含む点で米国の方が広く、対象となる犠牲者の定義に関しては兵士のみならず民間人も含む点で日本の方が広い。)今年の戦没者記念日のワシントン・ポスト紙に掲載されたある記事が私の目に止まった。ワシントン中心部の国立公園ナショナル・モールに存在するベトナム退役軍人記念碑(Vietnam Veterans Memorial)にて毎週末、一般ボランティアによる清掃活動が行われているという。(“Clean, Clear Memory,” Washington Post, May 30, 2011)
1998年、ベトナム退役軍人記念碑基金会長のジャン・スクラグスは記念碑管理を委託していた国立公園局職員の働きぶりに不満を覚えていた。ある日、彼はたまたまウィスコンシン州から訪れていたベトナム戦争帰還兵たちに35本の歯磨き用ブラシを渡し、御影石に刻まれた戦死者約5万8千人の名前一つ一つの汚れを落としてもらった。その後、国立公園局の協力も得ながら、近隣の朝鮮戦争退役軍人記念碑(Korean War Veterans Memorial)も含めた定期的な清掃活動へと発展し、現在では、毎年春と秋の期間限定で、毎週土曜と日曜の早朝に一時間程度の作業を行っているという。
「記念碑清掃ボランティアへの参加を希望される方は国立公園局(202-245-4688)まで連絡してください。」これまで何度もこの記念碑を訪れ、米国社会に浸透する「ベトナム戦争はもうたくさんだ(No more Vietnam)」の多義的な意味合いについて思考を繰り返してきた私にとって、この活動は新鮮な視座をもたらしてくれるかもしれない興味深い機会に映った。「よし、参加してみよう。」私の好奇心は疼いた。
ところでこの戦争記念碑は、戦争で死亡した米軍兵士全員の名前が刻印された全米で唯一のものであり、基本的に戦争ではなく兵士を称える目的で設置された異質性ゆえに、最も物議を醸しだした建造物でもある。その論争の性格は米国特有の政治風土の中で、負けた戦争で死亡した兵士を公的な文脈の中で顕彰・追悼することの難しさを物語っている。
1979年のある晩、ベトナム戦争帰還兵のジャン・スクラグスは自宅で映画『ディアハンター』(マイケル・チミノ監督、1978年)を鑑賞していた。国家を信じて従軍し国家に裏切られたベトナム帰還兵の若者たちの悲哀を描いた本作に触発されたスクラグスは、彼らの存在を忘却しようとする米国社会の現状を憂い、記念碑の設置を思い立った。彼は基金を立ち上げ、集められた寄付金を基に記念碑デザインの一般公募に踏み切った。
「記念碑は戦争や戦闘行為に関するいかなる政治的主張も有しません。そうした議論とは無関係のものです。記念碑が建設されることで、癒しの歩みが始まることを願っているのです。」
公募に当たって、基金側が説明した当初の設置目的である。スクラグスにとって、この「癒し」には二重の意味が込められていた。戦闘による心の傷に苛まれ、社会への適応に苦しむ帰還兵のみならず、戦争のあり方をめぐって激しく国論が分裂した米国社会、双方にとっての「癒し」をこの記念碑に求めていたのである。
かくして約1500件に上る応募の中から、当時エール大学の21歳の学生だったマヤ・リンによる図案が採用された。それは米国の従来の戦争記念碑とは明らかに趣が異なる、V字型に左右に広がる巨大な黒壁であった。リンは後に設計にあたって留意した点にこう語っている。
「私にとってとても重要だったことは戦争をめぐる政治ではなく、戦争がもたらした結果としての事実と誠実に向き合うことでした。さらに私は根源的かつ個人的な視点で命の喪失を記録することが重要とも考えました。記念碑は個人的な命の喪失に留意しています。なぜなら記念碑を訪れる経験というのは、個人的な目覚め、あるいは個人の立場から命の喪失を認識することであると思ったからです。」(Maya Lin, Grounds for Remembering; Monuments, Memorials, Texts, Doreen B. Townsend Center Occasional Papers 3,1995)
だが、レーガン共和党政権下で保守化が進行する社会にあって、この革新的な記念碑の建設計画は皮肉にも距離を置こうとしていた政治論争の渦中に放り込まれることになる。保守派の退役軍人や国会議員からは建設反対の強い声があがった。黒を基調とし、地下に隠れる墓のようなイメージのデザインは、兵士を「英雄」ではなく「犠牲者」扱いするもので不謹慎というわけだ。設計者が中国系移民の二世であるという点で人種差別的な心無い発言をする者もいた。喧々諤々の大論争の結果、記念碑自体はほぼ原案通りに建設されることになったが、リンの意思に反し、明確な愛国メッセージを持った二つのモニュメント―国旗掲揚ポールと「三人の兵士」像(フレデリック・ハート作)―が記念碑から十数メートル離れた木立の中に追加設置されることになった。国旗ポールの下には「国旗は自由の原則を守るため、困難な状況の中で戦うことを誇りに思う彼らを肯定するものである」と記された碑文が置かれた。こうした政治的妥協を踏まえ、1982年、記念碑は完成することになる。(「三人の兵士」像は二年後の1984年に設置。)
さてこれで一見落着かと思いきや、物語はこれで終わらない。今度は記念碑が追悼する兵士の定義が狭すぎるという批判が帰還兵の遺族の間から巻き起こった。つまり、戦時中の怪我や枯葉剤の後遺症、さらには過度の心的障害による自殺などを理由に、戦後国内で死亡した兵士も弔ってほしいという要望だ。(残念ながら、この議論の中に200~300万人いたとされるベトナム人戦没者の存在は含まれていない。)彼らによる草の根の運動の結果、2000年、連邦議会は「三人の兵士」像と同じエリアに、具体的個人名は明記しないものの、「ベトナム戦争に従軍し、その貢献の結果、後に亡くなった男女を悼む。我々は彼らの犠牲を称え、記憶に留める」と記された刻板の設置を認可した。保守派はこの措置により「犠牲者」としてのベトナム帰還兵イメージが増幅されたと不満をもらした。
戦死の意味については価値中立的で見る者に判断を委ねるリンの元々の考えに照らせば、「英雄」として兵士を追悼しようとする立場も、「犠牲者」として兵士を追悼しようとする立場も、わざわざ明示する必要などなく、それらをすべて許容する記念碑であったといえる。メッセージの明確さを求めるのは私に言わせれば芸術作品を鑑賞する想像力の無さを露呈しているに過ぎない。他方、前述したそれぞれの追加物が実際にリンの記念碑を邪魔するほどの効力を持っているかどうかも疑問である。
私には「三人の兵士」像の佇まいは勇壮というよりは物悲しく見えるし、国旗掲揚ポールも木立の中に隠れていて目立たない。追悼兵士の定義を拡張した刻板も、前述した経緯を知らない人間が見れば、おそらくその必要性すら感じられないかもしれない。それらを凌駕するほど圧倒的な存在感をリンの記念碑は有しているのである。
個人的に気になるのは、基金の出資者側の要望により、(これもリンの考えに反するものだったが)、東壁と西壁が接する中央パネルに刻まれた以下の「序文」と「後書」の存在である。
序文―ベトナムで戦った合衆国軍隊に所属する男女を称える。自らの命を捧げた者又は行方不明者の名前が、彼らが我々から奪われた順番に刻まれている。
後書―わが国はベトナム戦争従軍兵士が示した勇気、犠牲、任務と国家への忠誠心を称える。この記念碑は米国民の私的な寄付金によって建立された。1982年11月。
これらは元々、基金側が発表した設立趣意書の内容とも符合する文言である。一読して興味深いのは、兵士が命を「捧げた」としながらも、その後で「奪われた」と記した「序文」の不自然さである。ベトナム従軍兵士が抱いた戦争や国家に対する複雑な思いを反映させたかったのだろう。カーク・サヴェージは近著『記念碑戦争―ワシントンDC、ナショナル・モールと記念碑景観の変容』(2009年)の中で、この二つの文言の順番に着目し、「これらは兵士を一端英雄的な立場に置いた後でそこから引き下がっていることを示している。なぜならば、この記述は彼らの行為を有効かつ意義あるものとして位置づけていないからである」と述べ、この記念碑が「英雄」碑ではなく「犠牲者」碑であると解釈した。
仮にこのサヴェージの解釈が妥当とした場合、「後書」との関係性はどうなるだろうか。無意味な戦争に兵士を送り出した国家が「犠牲者」である彼らを顕彰するという構図は何ともちぐはぐだ。私はむしろこの部分は「英雄」碑とも「犠牲者」碑とも位置づけられない、この記念碑のある種の曖昧さを示す箇所だと思っている。つまり、サヴェージの解釈を留保せざるを得ない理由は、この碑文の中に国家の戦争責任に関する言及がないことに起因する。それは政治論争を回避したい設置者側の強い意向が反映してのことでもあろうが、何のために彼らが尊い犠牲を払ったのか、という核心に触れずして、公的な意味づけを行おうとした無理さ加減がこの碑文に表れているように見えるのだ。とはいえ、この記述も前述した追加物同様、いやそれ以上にまったく目立たぬものではある。
かくして私の記念碑清掃初体験は7月17日に実現した。朝5時40分、自宅のあるノーザン・アーリントンから始発バスに乗り、フォギー・ボトムで下車、そこから10分ほど南へ歩くと記念碑のあるモール・エリアだ。現場には老若男女入り混じった15名ほどの人々が集っていた。見たところ、常連組と初参加組は半々のようだ。まもなく清掃道具を積み込んだ小型トラックに乗って国立公園局の係官が現れる。彼から簡単な説明を受けた後、6時半に作業が一斉に開始された。内容はいたってシンプル。参加者は長い柄がついたブラシに洗剤水をつけ、それで黒壁をパネル毎に直接磨き、最後にまとめてホースで洗い流す、という段取りだ。私は最初、さぞかし皆神妙な面持ちで黙々と作業をするものと思っていたが、そんな雰囲気はみじんもなく、おしゃべりをしながら、写真をとりながら、和気あいあいとやっている。ワシントン・モニュメントの方向から差す朝日を浴びながらの作業は何とも爽快だ。
やがて参加者の中に帰還兵の男性が3名いることに気付いた。作業の途中、私はそのうちの一人に話しかけてみた。聞けば、元陸軍兵士で、戦死した部下の追悼のために他の二人の仲間と共にインディアナ州から訪れたという。そして私が自己紹介がてらソンミ村虐殺事件40周年記念式典に参加するためベトナムを訪れた話を切り出した時だった。それまで穏やかだった彼の表情が急に曇り、「その気持ちはわかるが・・」と言葉を濁したまま、押し黙ってしまったのだ。私は彼の心情を悟り、それ以上この話題で深入りすることは避け、幾分ぎこちなさを残したまま再び作業に戻った。
記念碑の作業が終わると、「三人の兵士」像付近の清掃に移った。「三人の兵士」像自体は特別なワックスが塗られているためブラシによる洗浄はなく、周囲の通行用タイルのみの作業となる。スペースが狭いこともあり数分で完了した。ふと脇を見ると国旗掲揚ポールの前で3名の帰還兵たちが記念写真をとっていた。私が話しかけた男性は元の柔和な表情に戻っていた。作業終了後、彼は「ありがとう」といって私と握手した。きれいに洗いあがった黒壁は朝日に照らされ、一段とその美しさを増していた。私は壁に刻まれた兵士の名前を改めて眺めながら、帰還兵の男性が私に見せた二つの表情の行間に静かに思いを寄せた。
8月21日、二度目の活動参加を果たした。前回同様、事前に国立公園局に参加申し込みの電話をしたが、なぜか担当者とうまくコンタクトがとれなかったため、直接現場に行った。するとこの日の清掃活動はある退役軍人団体関係者のみの貸し切りであるという。私はこの団体の代表者に飛び込み参加を願い出て、快諾を得た。全員で50~60名ほどいたであろうか、退役軍人とその家族の大所帯であった。代表による挨拶の内容から、国家や自由を守る軍人の立場を擁護する保守的な性格の団体であること、メンバーは全米から集っていることがわかった。集団を見渡すと、戦場で下半身不随になったと思われる車いすの男性や片腕を失った男性も含まれている。ベトナム記念碑と朝鮮戦争記念碑と、二グループに分かれての同時清掃だ。私はベトナム組に加わった。
気心しれた仲間同士なのだろう、冗談を飛ばしながらの和やかな作業ぶりに団体としての絆を感じた。彼らはフレンドリーで作業中、何度も「Masaki!」と呼ばれては、いろんなメンバーと簡単な挨拶を交わすことになった。とにかく私のような外国人がこのような清掃活動に参加することが嬉しいらしい。たまたま近くで作業をしていた一人の退役軍人男性と話し込んだ。テキサス州から来たそうで、朝鮮戦争とベトナム戦争の従軍経験があるという。私が日本人だとわかると、佐世保と横須賀の米軍基地にいたことがあるが、基地の外を観光する機会がなかったのが心残りだと語った。そして最近の米国社会の雰囲気が気に入らないのだろう、たとえ不人気の戦争であっても、国民は軍人に敬意を払うべきとも述べた。今回の清掃ボランティアは壁のみで終了した。
年間約400万人ともいわれる一般の来訪者にとって、前記した記念碑が内包する論争性はまったく気にならないといっていい。また現在全米で約760万人生存するとされるベトナム戦争帰還兵も、この記念碑をおよそ好意的に受け入れているようだ。彼らには、私がかつてベトナムのソンミ村で出会った反戦派もいれば、今回の清掃活動を通じて知り合った保守派もいる。記念碑は戦争の意味を問わない選択を意識的に行ったことで、彼らが各自の戦争認識を維持したまま、死者を追悼し、自己の生の意味を確認できる便利な場を提供したといえる。もちろん、そうした生存者本位の追悼の仕方が正当といえるのかどうかは議論の余地がある。
私はそもそも戦争の公的性格が背景にあるとはいえ、このような記念碑を設置すること自体に実は強い疑念を抱いている。戦争記念碑の理想として、自国兵のみならず敵兵も含めた顕彰をすれば、敵も同じ人間である見方が育まれ、その結果として反戦平和のモニュメントとして機能する可能性があるという主張もある。日本には古くからそうした記念碑がいくつか見られるが、その背景には仏教的な弔い・供養の文化がある。キリスト教の影響が強い米国社会にももちろんそうした面はある。
しかしそれは基本的に葬式のみに適用される作法であって、このような記念碑には本質的に求められていないように思われる。(例えば、英語で同じmemorialという言葉が使用されているにもかかわらず、アーリントンの硫黄島memorialを「記念碑」、そしてこのベトナムmemorialを「慰霊碑」とmemorialの雰囲気に合わせて訳し分ける一般的な傾向が見られるが、これは極めて日本的な発想に基づいていると言える。)仮に敵味方関係のない脱国家的な性格が強い記念碑が米国で建設された場合であっても、敵兵も我々と同様に国家のために命を捧げたのだという、いわば<戦士文化>を普遍的文脈で肯定視する考え方に取り込まれてしまうような気がしてならない。
特に1980年代以降、ベトナム戦争を正当化することで、軍人の社会的復権を図り、力に依拠した外交の復活に努めてきた米国政府の姿勢と、その所産としてのベトナムの再来であるイラク、アフガン戦争を想起すれば、記念碑を通じた社会的「癒し」が新たな悲劇の発生に間接的に貢献している可能性を意識せざるを得ない。1988年にはベトナム戦争支持派のレーガン大統領が、そして1993年には反戦派で徴兵忌避者のクリントン大統領がそれぞれこの地を訪問し、戦死者を英霊視し、肯定的な戦争の意味づけを行うと同時に、米国の国益達成にとっての軍隊(軍事)の重要性を説く演説を行った。(その間の1991年、湾岸戦争を勝利に導いたブッシュ・シニア大統領は「ベトナムの亡霊はアラブの砂漠に埋められた」と宣言している。)いわば、国家による戦争記憶の一方的な押し付けである。だが、皮肉にも記念碑が意図した没政治的性格がこうした上からの歴史解釈を招き入れたともいえるのだ。
記念碑は当初「癒しの壁」を目指していたが、基金側はその役割をほぼ終えたと判断したのか(レーガンは1988年にこの場で「癒しは終わった」と高らかに宣言した)、最近、次世代向けの「教育の壁」という新たなスローガンに掲げ、記念碑近くの敷地に「教育センター」を設置するための寄付金を募っている。この構想が実現した場合にどんな展示が生まれるのか。少なくとも、この戦争の教訓が何なのか、一歩踏み込んだメッセージを発する必要がある。さもなければ、この「教育センター」は記念碑以上に深刻な戦争プロパガンダの道具として結果的に機能してしまうであろう。
(2011年8月23日)