祖父母、叔父から聞いた戦争 金城学院高等学校1年 伊藤 芽依
( -祖父母、叔父から聞いた戦争の話- 略 )
私は、叔父の話を聞き、改めて「平和」について考えてみました。
辞書で「平和」と調べてみると「やすらかでやわらぐこと」「おだやかで変わりのないこと」「戦争がなくて世が安穏(あんのん)であること」とありました。もちろん、これも平和です。しかし、私はこれだけが平和だとは思いません。今回の叔父の話、去年聞いた祖父母の話も含めて、私が感じた「平和」とは、“人が死んでしまうのが当たり前でない世界、命を簡単に落とすことのない世界”です。お金がほしいから、気に入らないから・・・。理由は様々かもしれませんが、自分の意思ではなく、命を落としてしまうことも少なくないようです。
戦争中も例外ではありません。標準語を話さないというだけで人間としての価値がほとんどないように扱われた人々もいたようです。祖父の言葉を借りると、戦争中は精神状態が異常なのだそうです。普通の精神状態であれば、いくらなんでも簡単に人を殺すことはできないと。戦争が起こって、何よりも恐いのは人を殺すのが普通になる精神状態。人が人でなくなってしまう状態なのかもしれません。
私は、戦争体験を直接聞く機会が何度かありました。しかし、何度聞いても、私にとって身近に感じることはありません。祖父母たちにとっては現実の出来事でも、私にとっては本や写真やお話の中での出来事のように感じられてしまうのです。ここに、最も大きな壁を感じます。私達にとっては想像もできない「非日常」が祖父母たちにとっては「日常」だった。祖父母たちにとっての日常を聞くことが出来た私達は、私達にとっての非日常をどのように受け止めていけばよいのでしょうか。
もしかすると、祖父母たちから直接話を聞ける世代は私達が最後なのかもしれません。例えば、8歳下の妹が物事の判断ができるようになった頃には、祖父母から直接戦争の話を聞くのは難しいのかも知れません。だとしたら私達は、それが私達にとって想像できない非日常であったとしてもそれが日常だった世代の話を直接、できるだけたくさん聞いて、できるだけ様々なことを感じ、できるだけたくさんの世代に語ってゆけるようにならないといけない。そして、それを語った祖父母たちの顔の表情や、その思いや、そのときの空気も、できるだけたくさんのことを私達は私達のポケットにしまっておかなくてはいけない。そんな風に感じています。
私ができることは本当にちっぽけなことだと思います。思いやりを持ち、相手の意見に耳を傾けることくらいしかできません。しかし、相手を理解し、思いやる気持ちを持てば、戦争もさけることができるのではないでしょうか。祖父母や叔父が戦争のひどさ、むごさを伝えてくれたときのあのつらそうな、悲しそうな、なんとも言えない顔が頭に焼き付いています。このことを糧にして相手とわかりあい、平和を維持する人間になりたいと思います。