沖縄おける“集団自決”の真相を追ったNHKディレクターの講演 畑島 貢
太平洋戦争の末期、沖縄に上陸してきた米軍に対し、敗走してきた日本軍は住民を守るどころか死に追いやっています。“集団自決”の実体験者に長期間の取材を行って作られた豊田研吾氏の映像と講演に接して、日本は戦後もなお沖縄を踏み台にして復興発展してきたことを、真摯に受け止めるべきだとあらためて感じました。
できれば、豊田氏には、今なお米軍の占領下にあるがごとき沖縄の現状についても、今後取り上げていただければとの思いを抱きました。(以下はその報告です。)
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“集団自決”戦後64年の告白~沖縄・渡嘉敷島~
―NHK作品の上映とディレクターの語り― 6月18日(土)13:00~14:30
2009年の沖縄慰霊の日(6月23日)の前日に特別企画として放映されたNHK・TV作品の上映と、その作品のディレクター豊田研吾氏による長期の現地取材に基づく“集団自決”の実態の報告、参加者との質疑応答を行いました。
当日配布した資料は、ピースあいちオープン1周年記念特別展「沖縄から戦争と平和を考える」展示図録等から作成したものです。
この企画への関心は高くて、参加者はかなり多く(約40人)、質疑応答も熱心に交わされました。(この後に予定されていたNPO総会の開始時間が迫って、打ち切らざるを得なかった程でした。)
豊田氏は、ディレクターとして18年間番組作成に従事され、この番組を制作するために、実に1年半の長期にわたる取材を行って準備されています。制作を始めるきっかけは、文部省による歴史教科書からの「軍命による集団自決」削除だったとのことです。(この「削除」については、ピースあいちの2周年記念「教科書展」でも取り上げています)
【上映されたDVDの概要】
番組は、戦後60年以上、自分の子どもたちにも語ってこなかった金城重英さんに密着取材して聞き取った事実と、沖縄戦の惨状を記録したフィルムを合成して作られた。
渡嘉敷島での集団自決は346人で、沖縄の各地で行われた中でも最多であった。
島に上陸してきた米兵から逃れるために隠れていたガマ(洞窟)の中で、島の人たちは、米兵による残虐な扱いを受けることを避けるために、家族に手をかけ殺害した。その後手榴弾で自決を試みるが、殆んど不発だったという。
金城さんは、幼い弟や妹に手をかけて殺害した。島の人は、他人には手を緩めて、身内には緩めずに行ったという。
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」という戦陣訓を信じていた金城さん兄弟は、米兵に切り込む覚悟で山を降り、玉砕していたと思っていた日本兵に出会って、愕然とする。金城さんは、終戦後米軍の捕虜になり、集団自決が間違いだったことを知る。金城重英さんの弟・重明さんは、長年、集団自決のことを語る活動をしてこられた。
【豊田氏の講演要旨】
講演の冒頭に、この番組放映後に氏の父親より電話があり、このドキュメンタリーの主人公である金城重英さんの家に、子どものころ民宿したことがあると聞かされ、驚いたとのエピソードが披露された。
沖縄諸島で100人程の人たちから聞き取り取材を行った。日本兵については、当時10代後半から20代の特攻兵も数多くいたが、村人との交流は少なかったようだ。
―「集団自決」の軍命はあったのか。
軍事教練で若者たちは<軍と共に死ぬこと>を教え込まれていた。当時少年だった金城さん兄弟もそう思い込んでいた。現在、軍命があったことを証明できる人は存在しない。ただ、軍人が、村長にそれらしきことを耳打ちしたのを見たと証言した人はいた。
いずれにせよ国家や軍が、沖縄の人たちをそのように追い詰めていたことは、きちんと認識しておくべである。
島の人は、他との交流が少なく、本島の人たちより純粋に信じ込んでいたのでないかと思われる。一方、村長や村の長老たちは、そのように信じ込まず生き延びた人も多い。当時体制側にいた人たちの罪を明らかにすべきだと考えた。
弟の重明さんは、東京・青山学院で、修学旅行生にも「集団自決」について語る活動を続けていた。重明さんへの取材の過程で重英さんのことを知り、番組作成に至った。
重英さんは黙して語らずだったので、この番組を見て、重英さんのことを知った島の人たちも多い。
戦後、この兄弟たちは集団自決の「加害者」として見られた。しかし、本当はこの人達こそ悲惨な「被害者」だった。
【質疑応答】
① 集団自決は、「軍命」なのか、米軍を恐れた結果なのか
→命令がなければなされていないと思う。
女性の方たちは米軍を恐れて、殺してほしいと頼んだ事実もある。
当時の人たちは、国家の命令には従順であった。
② 当時の軍(加害者)への取材は
→取材はしたが、決定的なことを聞き出すことはできなかった。
③ 「強制集団死」と言うべきではないのか(「集団自決」というより)
→沖縄ではその表現が理解されるが、内地では理解されるか危惧した。
その表現を使わなかったことに視聴者からのクレームもあった。
④ 当時の軍の関与は
→「避難場所」の指示はなされたとの事実はある
⑤ この映像の事実のバックには、琉球王国が解体されて日本の領土になったという沖縄の人たちの意識があるのでは
→取材を通じてそのように感じた
⑥ 沖縄の体験者が高齢化し取材対象者が少なくなってきているのでは
→今回の取材も、最後の機会だと思って取り組んだ
また、集団自決の「加害者」の戦後の生き方も変わってしまっている。(島を離れた人も多い)