オバマ政権時代の米国を見つめて⑥ボブ・ディラン―米国の変化を詠み続ける詩人
名古屋市立大学准教授 平田雅己
『彼はこれまで様々な言われ方をされてきた。世代の代弁者と言われることもあれば、世界の良心であると言われることもあった。彼はその双方を否定し、自分を型にはめ、分析しようとする呼称のすべてを拒絶してきた』(1991年度グラミー賞授賞式にて、ディランに特別功労賞を手渡した俳優ジャック・ニコルソンによる賛辞の弁。湾岸戦争開始直後のこの式典でディランは「戦争の親玉」を歌い物議を醸しだした。) 『これまで制作してきたどのレコードも、私にとって米国が意味すること、その全体の中から生まれている。私にとって米国はすべての船を持ち上げる波のうねりのようなものだ。・・曲を書く上での私の課題はいつも言葉を使う上でいかに大袈裟な表現を避けられるかにある。私はあまり感傷的な表現を取り入れない。歌にはいつも自分が見えているものが反映されている。』(ディラン、ローリングストーン誌インタビュー、2001年)
2011年5月24日、ボブ・ディランが70歳になった。伝説のフォークシンガー、ウディ・ガスリーの音楽に衝撃を受けた19歳の若者が、故郷ミネソタ州を離れ、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ地区に移り住み、周辺のバーやクラブで弾き語りを始めたのが1961年。翌年のレコードデビューから、今日までの約半世紀の間に40枚以上のアルバムを発表し、すでにポピュラー音楽界のアイコンとしての立場を固めたディランであるが、「転がる石」に引退の文字はなさそうだ。1988年に始まった通称「終わりなきツアー」は現在も継続中で、国内外で年間100本以上のライブを行っている。私はこのツアーの日本公演を二度(2001年の名古屋市公会堂、2010年のZEPP NAGOYA)堪能している。特に昨年、日本公演では初の試みで、ディランの要望で実現したライブハウスツアーは素晴らしかった。私は老若男女入り混じる立ち見のオーディエンスの山をかき分け、彼の表情がくっきりと見える前列に陣取ることができた。時折見せる鋭い眼光と微かな笑みに魅了された。
ところでこのツアーをめぐって最近、こんな疑惑の報道があった。今年4月、ディランは北京と上海にて初の中国公演を実現させたのだが、その際、演奏曲目に関し、バンド側が中国政府当局から事前の検閲を受け、その結果、彼の曲の中でもとりわけ反体制的な「風に吹かれて」や「時代は変わる」といった楽曲の演奏が認められなかったというのだ。中でも、ニューヨークタイムズ紙のコラムニスト、モーリーン・ダウドの批判は辛辣だった。
60年代の自由讃歌を手にする怒りの叙情詩人が独裁者のもとを訪れたにもかかわらず、そうした歌を演奏しないという目論見は、新たな類の裏切り行為である。それはカダフィ家の前でこそこそと歌い荒稼ぎをしたビヨンセ、マライア・キャリー、アッシャーといった面々、あるいは保守派論客ラッシュ・リンボーの四度目の結婚式でアンチ同性愛派たちの前でセレナーデを歌い大金を手にしたエルトン・ジョンの場合よりもひどいものだ。・・(ディラン)は検閲済みの曲目リストを歌い、共産主義者から多額の金を受け取って立ち去ったのである。(Maureen Dowd, "Blowing In the Idiot Wind," New York Times, April 9, 2011)
ダウドはこのエッセイの中で、2004年に出版されたディラン本人の回想録『ボブ・ディラン自伝』(翻訳は2005年にソフトバンククリエイティブ社から出版済)にも触れ、1960年代にディランが「反抗する大ブッダ、反逆の指導者、抗うツァー」といった世間の勝手なレッテル張りに嫌悪し、そうした一方的なイメージを背負いながら歌うことが彼にとっては「腐った重い肉の塊を背負い続けるようなもの」だったと吐露した箇所を引用している。こうしたディランの内面を知っているにもかかわらず、彼を裏切り者扱いするのは私には解せないが、おそらく彼女にとってディランは社会的影響力がある自分の立場を十分に自覚せず、その行使を怠っている不誠実なミュージシャンに映っているのだろう。
ディランは決して音楽が果たす社会的役割と可能性に無関心でいるわけではない。例えば、過去にジョージ・ハリソンが企画したバングラディシュ飢餓救済コンサート(1971年)やボブ・ゲルドフが提唱したエチオピア飢餓救済チャリティ「ライブ・エイド」(1985年)、ウィリー・ネルソンらが立ち上げた米国の農民救済コンサート「ファーム・エイド」(1985年)などに参加してきた。ディラン自身が「ハーメルンの笛吹(Pied Piper)」にはなりたくないと上述の回想録の中で吐露しているように、要は自ら大衆の先頭に立ち彼らを扇動するような派手な役回りを演じたくないのだ。回想録の中には「名声と富が権力に結びつき、それが栄光、賛辞、幸福をもたらすという人もいる。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」と述べた上で、成功によって私生活の平穏が著しく奪われた時期の苦悩が綴られている。社会の動きを注視しつつも、その社会から一定の距離を置くことが、彼が1960年代の経験から学んだ教訓であった。
一方でディランのすべての曲が徹底した個人主義に貫かれていることを知るファンであれば、今回中国で演奏された曲目リストの中に、ダウドが執着する「風に吹かれて」や「時代は変わる」の二曲同様、場合によってはそれら以上に、強烈な中国体制批判と解釈可能な曲がいくつか含まれていることに容易に気づくはずだ。例えば、演奏された「やせっぽちのバラッド」(1965年発売の6作目『追憶のハイウェイ61』収録)の歌詞の1番はこうである。
おまえは部屋に入る
手に鉛筆を握ったまま
そこに裸の人間がいた
「誰だ?」おまえは尋ねる
どんなに必死になってみても
おまえには理解できない
家に戻ったときに
何を言えばいいのかを
何かがここで起こっているのに
それが何かわからない
そうだろ?ジョーンズさん
ディランはこの検閲報道に関し、公式サイト上でファンに向けて次のように事情を説明した。
中国政府は私が演奏する曲の名前を尋ねてきた。・・我々は過去3か月間に歌った曲目リストを彼らに手渡した。その後、検閲すべき曲や歌詞の一部があるかどうかの通告はまったくなく、我々は自分たちが演奏を希望する曲をすべて演奏することができたのだ。
どうやらこのディラン発言を持って論争はあっさりと収束したようだ。やれやれである。
ところでダウドがディランに求める、今日においても根強い「プロテスト・シンガー」としての彼の一般的なイメージを植え付けた政治色強い楽曲群は、1963年から65年に至るデビューまもない時期に集中して制作されている。ディランの人気を決定づけたのはセカンドアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』(1963年)である。黒人公民権運動にインスパイアされた「風に吹かれて」、核戦争の恐怖をイメージさせる「はげしい雨が降る」、軍産複合体批判の「戦争の親玉」など、激動と混迷の1960年代の幕開けを象徴する楽曲がずらりと並んでいる。今年2月25日、この時期のディランの音楽活動を影から支えた重要な人物の訃報が飛び込んできた。
『フリーホイーリン』のジャケット写真の中で、ややはにかんだ様子でディランと腕を組みながら、冬のマンハッタンの街路を歩いていた元恋人スージー・ロトロが、癌のため67歳で他界した。ディランは回想録の中で「彼女は私が出会った最も妖艶な女性だった。彼女は色白で金髪だった。彼女からバナナの香りがした」とロトロの第一印象を語っている。ニューヨーク生まれで共産主義者の両親の家庭に育ったロトロはディランに出会った時、人種平等会議(CORE)の事務局で働いていた。ディランは彼女に会うたびに、黒人公民権運動の話題に触れることになり、その結果、1955年ミシシッピ州にて白人に殴打され殺害された14歳の黒人少年エメット・ティルを取り上げた「エメット・ティルのバラッド」が完成することになる。
ディランにとってロトロは自身の政治的関心を研ぎ澄ますインスピレーションの源であると同時に、制作途中の曲を示しては助言を求めるほど信頼のおけるパートナーでもあった。後にロトロは伝記作家アンソニー・スカドュトに対し、ディランは「新聞を読むとか、あるいはその切り抜きをして後でそれを読むようなことはなく」、彼の創作活動は「ジャーナリストが用いる意識的な手法」というよりも、「詩的であり、すべてが直感的で情念によるものだった」と語っている。その後、ロトロは「ディランの恋人」という世間のイメージに違和感を覚えるようになり、1964年、二人の関係は終焉を迎えることになる。ロトロはディランの回想録に応えるかのように、2008年、自身の回想録『グリニッチヴィレッジの青春』(2010年に河出書房新社から翻訳本が出版済)を発表し、「ボブ・ディランとの過去はいつも私の傍にありました。私がどこにいようと、誰といようと、そして何をしていようと、私の人生から離れることはなかったのです」と追想している。
ディランの世界観を象徴する言葉がこの時期に発せられている。1963年12月 日13日、全米緊急市民的自由委員会(NECLC)のトム・ペイン賞を授与された21歳のディランは記念式典の会場でこう語った。
自分にとってもはや黒も白もなければ、左も右もない。ただ上と下があるだけ。下はとても地面に近いところにある。私は上に這い上がろうとしている。政治とかささいなものはどうでもいい。私の頭にあるのは、普通の人々、そして彼らが被る傷である。
米国の民主主義に特徴的な善対悪の硬直的な二元論的世界観の壁を突破し、あくまで個人の立場から社会の不正や不条理に接近しようとするディラン特有の実存的価値観の発露であった。この受賞演説には問題発言が含まれていた。前月に発生したケネディ大統領暗殺の衝撃が未だ生々しい中、彼は演説の後半で「正直に認めてしまえば、オズワルドの中に私自身の姿も認められる」と発言し、聴衆からブーイングを浴びたのだ。事の重大さに気付いた彼は、式典直後、委員会宛に書簡を送り「私がリー・オズワルドについて語ったとき、その時代について語っていたのであり、彼の行為について語っていたわけではない」と釈明することになる。ディランにとって、表現の自由を阻む愛国主義の存在を思い知らされた瞬間であると同時に、同年8月のマーティン・ルーサー・キング牧師のワシントン大行進参加で彼が築いた大衆との蜜月の終わりの始まりを象徴する出来事であった。
1964年に発表された「時代は変わる」(3作目のアルバムの表題曲)は一般的に現状を打破する変化の讃美歌、あるいはそうした変化を理解できない大人たちへの批判の歌と受け止められている。確かにそうイメージさせる箇所が大半を占めているが、歌詞の最後5番はこう記されている。
物事の線引きがなされ
呪いが放たれる
遅く進んでいた者が
早くなることもある
現在がやがて過去になるように
秩序が瞬く間に失われていく
先頭を歩んでいた者が
最後尾につくこともある
時代は動いていくのだから
ディランの歌詞の魅力の一つは、一つの主題に対し時に複数のメッセージが込められている可能性があることだが、この曲はその典型であろう。彼は社会の変化を決して手放しで賞賛していない。社会の変化に関心を持ちつつも、その変化に翻弄された自身の若き日々の経験がその背後にある。
1965年、三度目の出演となったニューポート・フォーク・フェスティバルにて、ディランはアコースティックギターではなくエレキギターを持って登場し、会場に詰めかけたフォークファンの期待を裏切った。彼と大衆の離別はもはや決定的になった。この時期に発売された4作目のアルバム『ブリンギング・オール・バック・ホーム』収録の「サブタラニアン・ホームシック・ブルース」には、当時ディランが抱いた焦燥感や苛立ちが最も鮮明に表れているといえよう。音楽評論家のドリアン・リンズキーは最新刊33 Revolutions Per Minute: A History of Protest Songs, From Billie Holiday to Green Dayの中で、この曲の歌詞の一節「指導者に従うな」の「指導者」の意味についてこう解釈している。
そこにはジョンソン大統領のみならず、キング、そしてディラン自身も含まれていた。それは「我々」に抵抗する「私」であり、デモや集会への参加に関心を持たない若い聴衆にアピールするある種のメッセージであり、個を中心とした政治を意味していた。ディランはそう主張することで、これまで30年間続いてきた、民俗音楽研究家アラン・ローマックスやフォークシンガーのピート・シーガーが提唱する左派的なフォーク解釈を覆そうとしたのである。
確かにこの時期のディランのフォーク界に対する不信感は相当なものがあっただが、彼にフォーク界のしきたりを変えてやろうといった野心まであったかどうかは疑問である。自暴自棄的にも受け止められるその過激な歌詞からは、もっとプリミティブで私的なもの、例えばビートルズの『ヘルプ』に匹敵するような、ディラン個人の心の叫びだったように私には聴こえる。そこに示されるのは、リンズキーの言葉を借りるならば、「我々」から乖離する「私」の悲哀である。
かくして1960年代の米国の変化と自身の人生と折り合いをつけることに人一倍苦労したディランであるが、最近の米国の変化についてはおよそ好意的に受け止めているようだ。それは彼とオバマ大統領の親密ぶりに表れている。2008年大統領選挙期間中の6月5日、ディランは英国タイムズ紙のインタビューに応じ、米国政治の現状に関する質問にこう答えた。
今や米国は激動の渦中にある。貧困状況は悪化するばかりだ。貧しいままでは人々は清廉の美徳を享受することはできない。しかし今、底辺から政治の性格を変えようとしている人物がいる。バラク・オバマだ。彼は政治家の定義を変えようとしている。状況が変わることは間違いない。希望が持てるかって?もちろん、私は状況が変わる可能性に期待している。・・人々はいつも過去から最高を手にし、最悪は捨て去り、未来へと前進しなければならない。
私はこのニュースに驚き、そしていつもの冷静でシニカルなディランらしくない、妙に浮足立った調子に正直気持ち悪さすら覚えたものだ。ファンや音楽関係者の間では「ディランがオバマを承認した」とすぐに大きな話題になった。オバマの勝利が確定した本選挙日の2008年11月4日、ディランは故郷のミネソタ大学でライブを行っていた。公演中に選挙結果を知らされたディランはステージ上で「私は1941年に生まれた。パールハーバー攻撃の年である。それ以降、私は暗闇の中を生きてきた。いまそうした状況が変わりつつある」と述べ、アンコールの定番「ライク・ア・ローリングストーン」の演奏をやめ、その代わりとして急遽「風に吹かれて」を歌ったという。(You Tubeにはこの公演の後、会場外で「オバマ」を連呼し歓喜する若いファンの姿が残されている。)
2009年4月6日、再びタイムズ紙の取材に応じたディランはオバマ支持の直接の理由が、オバマの幼少・青年期の体験が赤裸々に綴られた『マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝』を読んだことであることを明かし、次のように感想を述べた。
彼の生い立ちが興味深い。彼は架空の人物のようだが、現実の存在だ。まず彼の母親はカンザス州出身の女性だ。彼はカンザスには住んだことはないが、ここに深いルーツがある。例えば「血みどろのカンザス」、奴隷制廃止論者ジョン・ブラウン、ならず者ジェシー・ジェームズ、カントレル率いる遊撃隊ブッシュワッカーズ、南軍ゲリラ、オズの魔法使いのカンザスだ。バラクの家系はどこかで南部の連合国大統領ジェファーソン・ディヴィスとつながっているはずだ。そして彼の父親は教育を受けたアフリカ人だ。家畜を飼い、ライオンを射るバンツーやマサイ、グリオット族の家系だ。こんな二人が出会って恋に落ちるというのは何とも不思議だ。ちょっと読んだだけでも彼の物語に引き込まれてしまう。後戻りできない長編叙事詩のようなものだ。
歴史(特に19世紀中葉、南北戦争前後の米国)好きのディランらしいコメントである。さらに特に感銘を受けた点として「読者を感じさせると同時に考えさせる」文章表現を指摘し、博物館で展示されたミイラの頭部を見て、そこに居合わせた他の観客の中で「自分は自分たちの先祖を見ているかもしれない」と思う人はいるのだろうか、と疑問を抱くオバマの深い洞察力を褒め称えた。だが、ディランはこの著作から政治家としてのオバマはイメージできなかったらしく、おそらくは「政界に入ることはこの男がもっとも望まなかったもの」であり、むしろ「政界が彼に近づいていった」のではないか、と述べている。ちなみに、もう一冊のオバマ本、彼の政治姿勢や理想とする政策が記された『合衆国再生―大いなる希望を抱いて』はここでは完全に無視されている。
こうしたディランのシグナルにオバマも応えている。前述したディランの2008年タイムズ紙インタビューからまもなく、オバマは音楽雑誌ローリングストーンズ誌の取材(2008年6月25日付)に応じ、携帯するiPodの中にディランの曲が少なくとも30曲入っており、好きな曲が「マギーズ・ファーム」(『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』収録)であることを明かした。ちなみにこの曲は自分らしさの追求を阻む他者に対する抵抗を力強く宣言したものである。
2010年2月9日、ついに二人は初体面を果たすことになる。ホワイトハウスで開催された「黒人公民権運動記念音楽祭」に招聘されたディランは、オバマ夫妻の前で「時代は変わる」を披露した。後にオバマはこの時の様子についてこう語っている。
彼は君たちが期待するとおりの人物だったよ。ボブはリハーサルに来なかった。アーティストは大抵、夜の本番が始まる前に練習をするものだけどね。それに私との写真を撮ろうとしなかった。普通はどのアーティストも本番の前に私とミッシェルとの記念写真を撮りたくて仕方がないのに。そのために姿を現す気配すらなかった。ボブはステージに現れると「時代は変わる」を演奏した。素晴らしい演奏だった。ボブはもうこの曲が染みついているから、新しいアレンジを施したりして、まったく違う印象の作品につくりかえてしまう。曲の演奏を終えるとステージを降りて、最前列に座っていた私に歩み寄って握手をし、ちょっと首を傾げながら、微かな笑みを見せて立ち去った。それで終わり。彼は行ってしまった。それが我々の間の唯一のやりとりだった。「やはり、ボブ・ディランはこうでなきゃ」と思ったよ。一緒に写真撮って笑みを振りまくとか、そういう人であってほしくないし、この企画そのもの対して疑念を抱くような、そんな人であってほしいね。(ローリングストーン誌インタビュー、2010年10月14日付)
今年2月のグラミー賞授賞式に特別出演したディランは「マギーズ・ファーム」を演奏した。昨年の中間選挙にて野党共和党が下院を制し、オバマ政治の著しい後退が囁かれていた時期に、ディランがオバマに送った粋なエールとして私は受け取った。最新アルバム『トゥゲザー・スルー・ライフ』(2009年)に収録された「アイ・フィール・ア・チェンジ・カミング・オン」の次の一節はオバマ登場に象徴される米国の現在の変化に対する彼の思いが割と素直に表現されているといえよう。
ああこのご時世、夢を見るなんて一体何の意味があるのだ
もっと他にすべきいいことがあるだろう
とにかく私は夢でいい思いをしたことなんてなかった
たとえそれがかなったとしても
おまえの娼婦ぶりはいつもどおり
俺をその気にさせるのはおまえだけ
気が狂いそうだ
おまえは俺の欲望の対象さ
何かが変わろうとしている
一日の四番目の部分はすでに終わってしまったが
前述した2009年のタイムズ紙のインタビューの中で、大統領としてのオバマの成功の可能性を問われたディランは次のような言葉を残している。
それはわからない。彼は最良の大統領になれるように最善を尽くすだろうが。多くの人間が高邁な意志を持って大統領としての任につくが、やめるころには打ちのめされたようになってしまう。かつてのジョンソン大統領がその典型であるし、ニクソンやクリントン、トルーマンにもそういえるし、他の大統領みんなそうだった。それはあたかも高く飛び上がりすぎて太陽に近すぎたがために火傷をするようなものだ。
この問いの最終的な答えはやはり風の中にあるのだろう。
追記:筆者をディランへと導いた大学時代の同窓で団塊世代のMK氏に本稿を捧げたい。
(2011年6月23日)