オバマ政権時代の米国を見つめて④ブッシュ回顧録からイラク戦争を再考する
名古屋市立大学准教授 平田雅己
昨年11月上旬、大統領退任後約2年間、沈黙を貫き政界から距離を置いていたジョージ・W・ブッシュが回顧録Decision Pointsの宣伝のため、久方ぶりに公の場に姿を見せた。2001年911同時多発テロ事件発生直後、最大で90%を超えた大統領支持率は7年後の政権終了時には30%以下に低落し、逆に不支持率が60%を超えた。現在でもそうした傾向にほとんど変化はない。
シエラ・カレッジ・リサーチ・インスティチュートが1982年以降、定期的に実施している大統領研究者を対象にしたアンケート調査の2010年最新版によれば、ブッシュは過去43人の大統領中、39位と低評価を極めている。(ちなみに1位はFDR、15 位に現職のオバマ、30位にニクソンが名を連ねている。)二つの対外戦争の泥沼化と未曾有の経済危機によって米国の国力を著しく低下させ、国際的威信を喪失させた事実から、米国におけるブッシュの根強い不人気ぶりは当然であろう。さぞかし本人は卑屈になっているかと思いきや、米国の主要TVメディアに登場したブッシュは明朗快活、冗談好きないつものブッシュだった。大統領職の重責から解放され、その度合いが一層増したようにも感じた。
ところで米国政治の歴史において、特に軍事力行使といった有事の対応をめぐっては、「最高司令官」である大統領個人に権限が集中し、軍事介入の性格や行方に応じて大統領権限が肥大化しやすい傾向にある。それゆえに、大統領個人の性格や世界観、政策決定スタイルが直に政策に反映されやすい。ブッシュ外交8年間の諸政策の中で、国内外で最も激しい論争を呼び、しかも政権の時間とエネルギーを最も浪費させた政策がイラク戦争政策であることに異論はあるまい。
およそすべての米国の戦争が、時の政権の判断に基づく「選択の戦争」であり、大なり小なり「賭けの戦争」としての性格を帯びている。イラク戦争もその例外ではないが、過去の戦争と比較し、さまざまな点であまりに異彩を放っているだけに、関連文献を読んでも、「それにしても、なぜ?」という疑問を完全に払拭できずにいるのが正直な立場だ。
米国内のブッシュ回顧録の評判だが、中身が薄っぺらで平板だとか、都合の悪い事項に触れていないとか、散々である。
イラク戦争については最も多くの頁が割かれているが、個人的に特に気になる、大量破壊兵器をめぐる既存情報機関に対する政治圧力の実態や、ハディーサ事件(2004年)及びブラックウォーター事件(2007年)に象徴される民間人虐殺事件には全く触れられず、戦争の正当性を揺るがすきっかけとなったアブグレイブ収容所捕虜虐待事件(2004年)についても、「とても気分を害した」と傍観者のような感想を述べるに留まっている。
ただし、ブッシュに限らず、歴代大統領の回顧録が正当な歴史評価を求めるあまり、どうしても作為的で弁解調になりやすい一般傾向を勘案すれば、大統領当人の独白であるとはいえ、政策決定上のすべての真相解明を本書だけに求めるのは元より酷な話であろう。政権の内部資料が公開されるまでは、ジャーナリストの政権内幕本や政権関係者の回想録、研究者の分析などと本書をつき合わせて全体をイメージするより他ない。
本書には目から鱗の新事実は特段なかった。しかし、イラク戦争政策の展開とともに、ブッシュの戦争観が変容する足跡を追うことができ興味深かった。そこに常に付きまとったのはベトナム戦争の影である。
1960年代後半、イエール大学歴史学部の学生だったブッシュは、「共産主義勢力の拡大阻止」というベトナム戦争の目的は支持していたが、特にジョンソン大統領の戦争遂行の仕方には疑念を抱いていた。戦争終結後、民主党も共和党も、米国社会に根強く残るベトナム敗戦のトラウマに配慮し、高度な兵器技術を後ろ盾とする短期終結・低コスト型戦争を追求するようになるが、戦争目的については違いがあった。2000年大統領選挙にて、ブッシュは1990年代のクリントン民主党政権時代に見られた国家建設目的(ソマリア)や人道目的(旧ユーゴ)の武力介入は米国の国益とは無関係であり、第二のベトナムの泥沼に繋がりかねない危険な軍事介入だと主張していた。彼は「911事件を契機にそうした考えを改めた」という。911事件とイラクとの関連性についてはこう述べている。
「911事件以前は、サダム(フセイン)は米国が管理可能な問題だった。911事件後の世界というレンズを通じ、私の考えは変わった。ボックス・カッターを手に武装する19人の狂信的人間による被害を私は目の当たりにした。敵国の独裁者が保持する大量破壊兵器がテロリストの手に渡ることによる破壊の可能性すら想像できるようになった。常日頃、大統領執務室に届く脅威情報―その多くが化学兵器、生物兵器、核兵器に関するもの―が恐ろしくも現実味のある可能性に映った。重要な証拠の存在や国際社会の合意に背を向ける独裁者の言葉を信用することは余りにもリスクが高くできかねた。911事件の教訓とは、危険が現実化するまで我々が待つならば、それはもはや手遅れになるということだ。私はある決断に達した。どんな形であれ、イラクの脅威と対決するのだ、と。」
結果的にイラクで大量破壊兵器が発見されることはなかった。ブッシュは「誰も嘘はついていなかった。我々はみな間違っていた」と反省しつつも、「サダムが脅威である事実が大量破壊兵器の不在によって変わることはなかった」と述べ、さらに「もしサダムが実際に大量破壊兵器を持っていなかったとすれば、一体なぜ彼は敗北確実な戦争に身を委ねたのか」と責任転嫁と受け取られかねない見解まで示している。
開戦当初、フセイン政権の大量破壊兵器所持が十分確認されない中で米国が開戦に踏み切ったことから、これは「ブッシュ・ドクトリン」が想定した「先制攻撃」(=差し迫った脅威である対象に対する攻撃)ではなく「予防戦争」(=差し迫った脅威ではない対象に対する攻撃)ではないか、という批判があった。この回顧録に示された一連のブッシュの発言から、彼の本心は最初から「予防戦争」路線、つまり、大量破壊兵器の有無に関係なく、戦争ありきだったのではないか、との印象を私は抱いた。(おそらくこの点は今後も立証不可能であろうが。)
ブッシュは、ベトナムが泥沼化したのは一重に戦争素人の文民大統領が軍事作戦の細部に首をつっこみすぎたからだ、という特に共和党保守派に浸透するベトナム反省に依拠し、イラク戦争計画立案に関してはラムズフェルド国防長官や現場の指揮官であるトミー・フランクス将軍らの意見を尊重した。しかし、ブッシュが信用した彼らの計画はフセイン政権の打倒が中心で、フセイン後の新体制構築に関する議論は十分になされなかった。ブッシュは回顧録の中で「我々の国家建設能力は限られており、どのような必要性が生じるか確信できる者は誰一人いなかった」と述べ、多分に賭けの要素を含みながら開戦に至った事実を示唆している。
フセイン政権崩壊に至る戦争の第一幕こそ、ブッシュは「ドレスデン爆撃、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下、ベトナムにおけるナパーム弾の使用と異なり、我が国のバクダッド攻撃は民間人やインフラの多くを無傷にした」と御満悦だった。だが、その後の米軍によるイラク占領統治は相次ぐテロ攻撃や宗派間の内戦の勃発で混迷を極め、「苦悩と犠牲に満ちた4年間」(ブッシュ)を経験することになる。この時期、公の記者会見の席ではベトナムの再来を否認し続けていたブッシュであったが、回顧録には、その可能性を彼自身危惧する時期があったことが吐露されている。
「2006年夏は私の大統領任期中最悪の時期だった。私は絶えず(イラク)戦争を考えていた。(中略)そして初めて失敗の可能性を案じるようになった。この国がベトナム以来の屈辱的敗北を再び経験し、軍部は破滅的な損壊を被り、我々の国益にとって甚大な失敗になりかねない可能性があることに我々は気づいていた。場合によってはイラク敗北の結果がベトナム以上の悲惨な事態を招きかねなかった。(中略)我々はそうした状況の出現を何としても食い止めねばならなかった。」
かつてのベトナム戦争同様、イラク戦争が泥沼化するにつれ、戦闘継続の主たる動機は米国の体面維持へと徐々に変化していったのである。
皮肉にも、イラクがベトナムを脱する処方箋はベトナムにあった。ブッシュは2006年中間選挙における共和党の敗北後、ラムズフェルド更迭によって敵を殺し捕まえることに主眼が置かれた従来の通常戦略路線に終止符を打ち、イラクの民衆を守ることに力点が置かれた非通常戦略である「対反乱戦略」へと路線転換を図った。
この戦略を主張する軍人たちは、かつてのベトナム戦争の敗因を南ベトナムの国家建設支援政策の不徹底さに求め、ベトナムで試されたこの戦略のイラクでの効用を信じていた。ただしこの戦略を推進するにはさらなる米兵の増派が必要だった。かつて大量破壊兵器の存在やフセイン政権とアルカイダの関係性を過度に強調し、米国民のイラク開戦支持獲得に成功したブッシュ政権だったが、この増派決定をめぐってはすでに厭戦ムードにあった世論から支持を得られることはなかった。
政策公表前にイラクのマリキ首相と面会したブッシュは「増派という選択肢はそれ自体危険が伴う。派兵米軍の増強は米国内ではかなりの不興を買うだろう。戦闘は過酷さを増し、戦死者も増えるだろう」と述べるなど、成功の確信はなく、またしても大きな賭けであった。しかし、この「最も不人気な選択肢」(ブッシュ)はさらなる犠牲を払いながらも治安回復に効果を示し、2008年暮れ、ブッシュ政権はイラク新政権との間で2011年末の米軍撤退時期を盛り込んだ地位協定を締結するに至る。
このように、ブッシュのイラク戦争政策は常にベトナムを意識した綱渡りの連続であったことが本書からうかがえる。ブッシュ政権のイラク政策の評価をめぐって解釈が分かれるであろう対反乱戦略の内実については、ワシントンポスト紙のトーマス・リックス記者による丹念な取材記録The Gamble: General David Petraeus and the American Military Adventureが示唆に富む。
同書によれば、この戦略の目的はあくまでイラクの新政権が体制整備に専心できるまでに国内治安を回復させることにあり、イラク民主化といった政治的成果を保証する性格のものではない、という合意が政権内部で確認されていたという。ブッシュは公ではイラク民主化に拘る発言を繰り返していたが、政権内部では密かに戦争目的の縮小が図られていたというわけだ。換言すれば、かつてのニクソンの「ベトナム化」路線に近い不確実な撤退戦略だったわけだが、ブッシュは回顧録の中で「我々はイラクでさまざまな過ちを犯したが、その大義名分は永遠に正しいものだ」とイラクの成功を確信するかのような自信を示している。
彼が信じてやまない大義名分とは一体何か。イラク戦争の経過を観察していた者であれば誰しも気づいたことであるが、ブッシュは開戦当初、対テロ戦争という現実主義(=国益主義)の論理を前面に出していた。しかし、大量破壊兵器の存在がないと判明するや、イラク民主化という理想主義(=普遍主義)の論理を強調するようになった。この事実だけ見れば、ブッシュはまるで日和見的な政治屋イメージであるが、最近発刊された元政権関係者の回顧録から興味深い議論の存在を見つけた。それはさながらブッシュ「信念の人」論争といえそうだ。
フェリス元国防次官は自身の回顧録War and Decision: Inside the Pentagon at the Dawn of the War on Terrorの中で、ブッシュにとってイラク民主化は二義的な戦争目的であり、あくまでフセイン体制と大量破壊兵器の脅威の除去が政権の主目的だったと力説する。2003年秋以降、大量破壊兵器の未発見を屈辱と感じたブッシュがこの戦争の主目的を主張しなくなったことによって、逆に米国民の支持が得られなくなったとフェリスは信じている。
一方、マクレラン元ホワイトハウス報道官は、ブッシュの本音は最初から民主化だったと主張している。彼の回顧録What Happened: Inside the Bush White House and the Washington’s Culture of Deceptionによれば、「戦争の動機として民主化構想を声高に主張しなかった理由は基本的にマーケティングに基づく選択」であった。それというのも、「ブッシュと側近たちは中東を変えるという野心的な目的のために米国民が戦争を支持するはずがないことを知っていたから」であった。
ブッシュは次のように述懐し、マクレラン説に軍配を挙げた。
「私はイラク戦争の始めから、自由は普遍的であり、民主化は中東地域のさらなる平和につながると確信していた。そうではないように見える時期もあった。しかし、私はその信念が真実であることを決して疑わなかった。」
さらにこんな気になるくだりもある。
「私はサダム・フセインが米国に与える脅威に関して人々が異論を唱える理由については理解できた。しかし、イラクの解放が人権問題の進展に繋がることを否定しようとする人々の意見は理解できなかった。」
ブッシュは民主化を個人の自由達成のための重要な手段と捉えている。回顧録にはわざわざ「自由のための行動計画(freedom agenda)」という1章が設けられているほどだ。もともと米国において自由主義は、キリスト教的な道徳主義と結合して強固なナショナリズムを形成するイデオロギーである。
ブッシュはホワイトハウス内で聖書の購読会を設けるほど熱心なプロテスタント福音派の信者だったが、911事件が同じ一神教のライバルであるイスラム教の世界を強く意識させ、その結果、彼の信条がさらに増幅された可能性は大いにある。彼の自由への絶対信仰には、イラクの民間人犠牲者やPTSDに苦しむ米兵をも、自由獲得に必要な代償であるとして、一蹴してしまうほどの凄まじさがある。そしてそうした信念の根拠として本書の中で強調されるのが日本だ。
「私にとって、自由が持つパワーの最も顕著な例は私と日本の小泉純一郎首相との関係だ。小泉は911事件後、いち早く我々への支持を表明した指導者の一人だった。何と言う皮肉だろう。60年前、私の父は海軍所属のパイロットとして日本人と戦っていた。小泉の父は日本帝国政府に仕えていた。日本は独自の民主主義を取り入れ、敵国から同盟国へと変貌を遂げたのだ。」
注意すべきは、評価されているのは単なる日本の民主化ではない、米国の同盟国としての日本の姿である。先述したようにブッシュは駐留米軍の完全撤退を確約する米=イラク地位協定に同意したが(変更される可能性はある)、イラクに比べ遙かに安定しているはずの日本には駐留米軍が過去60年間以上居座り続けている。
2006年、日米両政府は沖縄の普天間基地の県内移設を条件とする在沖海兵隊員のグアム移動案に合意した。もとより沖縄住民への配慮というよりも米国の世界戦略の変更によるものだったが、今となっては今日の手詰まりを予測した米国側の高度な現状維持策に映ってしょうがない。
それにしてもイラクと日本に対する、米国の対応の違いは何を意味するのか。少々穿った見方をすれば、米国はイラクの民主化が同盟国化に繋がらない可能性を早々に見切ったのではなかろうか。日米同盟関係の基軸である日米安保が、本土の人間による沖縄に対する差別意識の上に成り立っている構図を直視できるようになって初めて、日本が真の民主主義国に脱皮できる道筋が見えてくると私は信じている。
現在の一連の中東民主化の動きをみて、ブッシュの先見性を称賛する見方もあるだろう。しかし例えば、ブッシュ政権は米国のイラク及びイスラエル=パレスチナ政策を支持するエジプトのムバラク政権とは懇意の仲であったし(民主化についてはやんわりと体制内改革を促す程度)、かつての「テロ支援国家」リビアのカダフィ政権との関係に至っては、核開発計画放棄の見返りに国交回復を果たし、兵器売却を行うなど現体制の維持に一役買っていた。今回の民主化ドミノの直接の発火点となったチュニジアについて、回顧録は一言も触れていない。仮に今日の中東情勢にブッシュ政権が何らかの貢献を果たしたとするならば、独裁政権への肩入れを継続したことで民衆の怒りの沸点を下げた点であろう、と言い切るのはいささか意地が悪すぎるだろうか。
本書は先月下旬、オリジナルそのままに『決断のとき』という邦題で、日本でも出版された。今回取り上げたイラク戦争の他にも、アフガニスタン戦争やハリケーン・カトリーナ、金融危機などに対する彼の決断が語られている。全体的な感想として、一国の指導者に求められる決断とは、単に決断を下すことにあるのではなく、その決断がもたらす状況を十分斟酌した上で決断を下すことにある、という当然至極を再認識させられる、そんな悲しい大統領回顧録である。
※回顧録からの引用は筆者による試訳であり、正規の邦訳本のものではない。
(2011年4月23日)