元米兵捕虜Szwabo氏の「ピースあいち」訪問と私たちの課題(その1)     丸山 豊


 先月14日(2010.9.14)、アジア・太平洋戦争で日本軍捕虜となり、東海地方の各収容所から軍需工場に強制労働させられた元米兵Earl Martin Szwabo氏(89歳)と妻のメアリーさん(83歳)が「ピースあいち」を訪れた。
 外務省の公式招聘にもかかわらず、事前連絡はJTBからの電話が先で、対応に戸惑ったというのが真相である。情報が全くないなか、観光旅行かと勘違いするのも当然だった。この話を聞いたとき(9/7)恥ずかしながら私は軽く聞き流していた。元アメリカ兵捕虜の日本訪問、その中の一人が「ピースあいち」を訪問する事実はたいへん重いものであることが後でわかる。
 実は私の所属する研究会のメーリングリストに次のような内容のメールが9月5日に届いていたことが判明した。(処理メールとしてゴミ箱行きのはずだった。)


「(9/5付)来たる9月12日~19日、第2次世界大戦中に日本軍の捕虜となり過酷な生活を強いられたアメリカの元捕虜6人とその家族・遺族の方々計14人が、日本政府の招聘で来日します。長年の運動の末、戦後65年目の今年初めて実現することになったのです。
 アメリカ兵捕虜のほとんどはフィリピンで捕虜となり、「バターン死の行進」や悲惨な輸送船の旅、フィリピン、台湾、日本、朝鮮、奉天などでの過酷な収容所生活で多数が命を落とし、生き延びた人々も心身に刻まれた深い傷に苦しみながら戦後の日々を生きてきました。今、多くはこの世を去り、残っている人々も80代後半~90代の高齢となってしまいましたが、6人の元捕虜の方々はせめて生きている間にかつての苦難の地を再訪し、自分たちの体験を少しでも多くの日本人に知ってほしいという願いを抱いてやってこられます。
 そこで、9月18日(土)14時~17時、日本の市民との交流会を(東京で)催すことにしました。彼らの体験・声に真摯に耳を傾け、対話し、今私たちが市民として何ができるかを考える機会としたいと思います。皆さんぜひお誘い合わせてご参加下さいますよう、ご案内申し上げます。」(POW研究会からのメール概略 ※POW =戦争捕虜)
<日程> 2010年9月
11日(土)アメリカ発
12日(日)東京着、東京泊
13日(月)米大使館歓迎会/政治家面会等/国際基督教大講演会/東京泊
14日(火)地方泊(収容所跡など各自の希望地訪問)
15日(水)京都泊
16日(木)京都泊(霊山観音他)
17日(金)政治家面会等/共同記者会見/外務省歓迎会/東京泊
18日(土)横浜英連邦墓地/市民交流会/東京泊
19日(日)離日」

 

  メールを読み続けると、スワボ氏の名があるではないか。6人の捕虜と2人の親族の経歴が紹介されていた。その6番目にスワボ氏があった。たった2行だった。
【・・※Earl Martin Szwabo氏と夫人:コレヒドールで降伏→パラワン島→「マテマテ丸」→名古屋第3分所(船津)?or名古屋第4分所(四日市)?・・】

 

 しかし多くの疑問が湧いてきた。スワボ氏はなぜ捕虜になったのか?彼はマッカーサーと共にフィリピンのコレヒドール島(バターン半島沖8㎞にある島)で日本軍の猛攻撃の中にいたからだ。しかし対岸のバターン半島で拘束されたわけではなかったため死の行進は免れた。【1941年12月27日米比軍はバターン半島に退避し軍総司令部をコレヒドール島に置いた。29日から日本軍はコレヒドール要塞を攻撃、戦闘は翌年の5月6日まで続く。マッカーサーは3月12日に脱出していた。】
  スワブ氏のピースあいち訪問予定の前日(9/13)、メーリングリストに京都のPOW 研究会H氏から次のようなメールが入った。


「(9/13付) 外務省の招聘事業により、「バターン死の行進」などを生き延びた元アメリカ兵捕虜・家族14人が来日中(9/12~19)です。英連邦諸国やオランダの元捕虜に対する招聘事業は数年前から行われていたのですが、アメリカ兵捕虜は戦後補償などを強く要求し続けていたので、日本の外務省は無視する態度を取っていました。しかし、昨年、藤崎駐米大使が全米の捕虜の大会で謝罪の意志を表明、捕虜側もこれを受け入れる形で今回初めての招聘事業となりました。
 今日は、東京で岡田外務大臣が彼らと面会、戦時中に与えた苦難に対して謝罪したと「読売」、「共同通信」などが伝えています。ただ、この招聘事業は融和政策的な意味合いが強く、ただの観光旅行になりかねないので、私(H氏)の所属する「POW研究会」などが日本市民との交流も強く要求しました。(以下、東京での交流会日程は省略)
 また、一行は16日(木)に京都の霊山観音(日本軍の管理下で死亡した全捕虜約48000人の名簿を安置)を訪問し、私(H氏)も同行しますが、残念ながら、京都での市民集会は実現しませんでした。
 その他、一行の中の一人Earl M. Szwabo氏と夫人は、14日(火)午後2時に「ピースあいち」を訪問して学徒動員体験者と対話し、翌日、自分が収容されていた石原産業四日市工場を訪問するそうです。
 それ以外にも、川崎の三井埠頭・昭和電工や、福岡の日鉄二瀬炭鉱跡地を訪問する人 もいます。」


   これでやっと「ピースあいち訪問」が理解できたのである。しかし「ピースあいち」に元米兵捕虜が訪問するとはどんな意義があるのか、捕虜の生活、強制労働、軍需工場とはどこか、ピースあいちがなぜ選ばれたのか、いろいろな疑問が湧く。ひょっとしたら天野鎮雄朗読会の城山三郎『捕虜の居た駅』と関係あるのか、など新しい歴史事実につながるかもしれない。また石原産業と収容所など疑問も深まるばかりだった。
 とにかく、9/14はピースあいちに出かけスワボ氏に会ってみなければ、と思った。(次号につづく)