企画展「戦争と動物たち」
動物たちも戦争に協力させられた                   斎藤 孝


 「戦争と動物たち」と題する企画展がオープンしたのは、この7月のことで、現在も開催中である。話題は、「ゾウを守った東山動物園」と「戦時下の動物たち」の2つ。
 名古屋の動物園は鶴舞公園にあった。動物の数が増え、昭和7年頃から移転先の用地探しが始まった。そして、昭和12年の「汎太平洋博覧会」開催を契機に現在の地に移転、同年3月24日に開園した。動物の引っ越しは、年明け早々の1月から始められた。このとき「花子」というゾウが一頭いた。花子は檻に入れられ、トラクターで運ばれていった。
 その後、4頭のゾウが来園したのは、その年の12月24日のことである。木下サーカスから買い入れたものである。当時の団長・木下行治さんは、「戦時下となれば、こんな巨大なゾウを連れて歩くわけにはいかない。民間ではとても守りきれない」と悩んでいた。たまたま東山動物園から譲ってほしいとの話があり、手放したという。それがキーコ、マカニー、エルド、アドンの4頭である。


 ゾウが日本に渡来したのは、応永15(1408)年のこと。南蛮船が若狭に来航した。さらに天正3(1575)年、明の船が臼杵にもたらしている。しかし、何と言っても圧巻なのは、八代将軍・徳川吉宗の時代、広南から渡来したゾウが日本を縦断していることだろう。
 ゾウは日本に渡来する前から道教や仏教などの信仰を通して、その姿は知られていたし、象牙は早くから工芸品として入ってきていた。インド、タイなど東南アジアでは神聖な動物としてあがめられてきた。特に白ゾウは聖獣として神聖視され、神像や建築の装飾に図案化されている。

 

 戦争が激化するなか、空爆で猛獣が檻から逃げ出したら危険だということで、猛獣は射殺せよとの命令が当時の内務省から届いた。こうして、ライオンやトラ、ヒョウなどが次々と殺されていった。それでも当時の北王英一園長は、ゾウだけは何としてでも守りたいと思い、「ゾウは猛獣ではありません」と軍や警察に何度も足を運び、ゾウの処分だけは食い止めることができた。しかし、その後、4頭のうちアドンとキーコは飢えと寒さで倒れてしまい、残ったのはマカ二ーとエルドの2頭のゾウとカンガルー、チンパンジーなどわずかな動物だけとなっていた。


 戦争が終わって世の中が落ち着いてきた頃の昭和24(1949)年、東京都台東区の子ども議会が「ゾウを貸してほしい」と議決、その代表が名古屋にやってきた。しかし、年老いたゾウを動かすことは無理だ。このため、名古屋市当局や国鉄(いまのJR)が話し合ってゾウを見るための特別列車を走らせることになった。
 その「ぞうれっしゃ」の第1号が彦根の子どもたちを乗せてやってきた。昭和24(1949)年6月18日のことであった。その後、大阪、金沢、津、神奈川など、全国から続々と子どもたちが「ぞうれっしゃ」に乗って名古屋にやってきた。その数はおよそ3万人にも上った。子どもたちを喜ばせたマカ二ーとエルドの2頭のゾウは、昭和38(1963)年、寿命が尽きて死んだ。いまは動物園のお墓で静かに眠っている。


 この話を北王園長から聴き取った名古屋の小出隆司先生が、「ぞうれっしゃがやってきた」という絵本を書き、出版された。10年後には、地元の合唱団によって合唱曲が作られた。親子で歌うことができる合唱曲であり、以後、全国各地で歌われている。今回の企画展に当たり、「ピースあいち」でも10月2日、地元の合唱団によるコンサートが開かれた。


 いま一つの「戦時下の動物たち」では、幾つかの身近な動物たちが戦争遂行に協力させられたことを物語っている。なかでも、馬は物資を運ぶものとして重要視され、数十万頭が戦地に送られた。当時の農業は、いまほど機械化されておらず、馬は貴重な労働力であり、家族のように大切に扱われていた。それが否応なく軍隊に取り上げられ、戦争の最前線に送られていったのだ。そして多くの馬は帰ってこなかった。
 この他、ハトは通信の手段として使われ、多くのハトは中学生らによって育てられていた。また、国はウサギの飼育を各家庭に強く奨励した。ウサギの毛皮は航空服や手袋など防寒用として使われた。戦争末期になるとイヌやネコまでもが供出させられ、その毛皮はウサギと同様飛行服や飛行帽に使われ、その肉は食用となった。
 この企画展では、こうした動物たちの受難の歴史が当時の新聞や写真などで紹介されている。この企画展は今も続いている。