「ピースあいち夏の戦争体験を聴くシリーズ」◆

                                           
 

 8月1日から15日まで、毎年行っている「ピースあいち夏の戦争体験を聴くシリーズ」。今年も1階交流のひろばで開催しました。「戦争体験を語り継ぐ会」のメンバーが日替わりでお話ししました。お話の内容・感想をボランティアが記しました。

8月1日(土)
橋本克己さん 「満州開拓団~10歳でひとり生きて日本に帰る」

 昭和17年、”貧乏人の子だくさん”の我が家族7人は、「20丁歩の土地をあげる」という誘いにのって、三河の新城から満州に行きました。私は7歳でした。肥沃な土地のはずが、稲作、畑づくりには向かない不毛の土地でした。現地の人々がこの不毛の土地を耕し、作物が取れるようにしていたのをタダ同然にとりあげたのでした。零下30度・40度の寒さの中で過ごし、ようよう人並みの生活が…となった時、日本は無条件降伏。開拓団に対する現地の人々の怒りが爆発。着の身着のまま苦難の逃避が始まりました。
 父は出兵していました。逃げまどう日々、シベリアへの列車から逃げ出してきた父と合流、200キロ先のチチハルを目指しました。川が凍る時期を待って、野宿。やっとチチハルにたどり着きましたが、食べるものはなく、伝染病の蔓延の中で、祖母、次男、長女、両親が次々に亡くなりました。泣くこともできず、4歳の弟、2歳の妹の体からはい出るウジを取ってやっていましたが、弟・妹も亡くなりました。私は10歳で孤児になりました。(林)



8月4日(火)
大山妙子さん 「叔父伯母が私に遺した長崎原爆のこと」

 1945年8月9日、広島に続き2発目となる原爆の投下地となってしまった長崎がどうなっていたのか、父方の叔父と伯母から聞いた話、母方の祖母と叔母、さらに母から受け継いだ手記を元にして語られました。
 突然の光に始まった地獄。服が破け、皮膚の爛れてしまった人、見る影もなく破壊された家、道端に転がる馬の死体。生き残った人々も、被爆により襲い来る原爆症が再び死へと追い立てる。父方の伯母の家族は、原爆症を筆頭に、原爆の影響で8人も欠けてしまったといいます。大山さんが語った話は数多の人々を殺し、苦しめた原爆の被害をこの目で見た人が遺した叫びでした。それでもなお、今日までに2000回以上行われた原水爆の実験。なぜこんなものを作らねばならないのか。作ってはならない、使ってはならないと声を上げていくべきだと、大山さんは語りました。(伊藤)



8月5日(水)
富田祥子さん 「3歳児の朝鮮からの引き揚げ」

 3歳のときに終戦を迎え、家族とともに朝鮮から日本へ逃げる過酷な避難生活を経験しました。現地の人々からの報復を恐れ、昼は山道を歩き、夜は火を焚いて寒さや動物から身を守ったそうです。また、食べられる草を探し、病気や飢えで多くの人が亡くなる中、家族で支え合いながら生き延びました。妹の泣き声を頼りに母と再会できたことや、大やけどをしても我慢したことなど、幼い祥子さんの体験から、戦争が人々の生活をどれほど厳しく、苦しいものにするのかが伝わってきました。日本に戻った後も、母親から「150円で売ってくればよかった」と言われながら育ったという話を聞いて、祥子さんの「戦争は人が人でなくなるもの」という言葉と結びついていることが分かりました。(石黒)



8月6日(木)
佐々木陽子さん 「ヒロシマの記憶~私の家族、そして、丸木位里・俊の話」

 被爆しながらも救護所に向かっていた祖父。しかし祖父は救護所で倒れてしまい、祖母は祖父を看病する様子を手帳に残していました。そこには次々と人が亡くなっていく様子、祖父が亡くなる時のこと、全てを失い、絶望以上の感情に駆られて泣き叫んだことが書かれていました。佐々木さんは、最初に祖母の手帳を見た時、原爆が本当に落とされたんだと実感したと言われます。また手帳の内容を見たことから、原爆に対する認識が変わったと話されました。
 丸木夫妻の話もありました。夫である位里は原爆が投下された後、すぐに地元である広島県に行きました。その後、夫婦共同作で実際に起きたことを元に「原爆の図」を描きました。2人は日本が被害を与える側だったことも含め、戦争の歴史をも描きました。 最後に、「人の数だけ戦争はある」「いきなり頑張らなくてもいい。まず周りの人に話すことが大事」と来館された方たちに語りました。(赤尾)



8月7日(金)
野村秀夫さん  「10歳少年の引き揚げ体験を語り継ぐ」

 朝鮮半島北の松興里で生まれた松崎尚夫さん10歳は、姉12歳、妹7歳、妹3歳、母38歳と発電所で働く父と戦時中にしては平穏に暮らしていましたが、敗戦にともない、朝鮮の人々の報復、ソ連兵の略奪等から避難するため母と子ども4人で3畳の家に移りました。そこで母は病死。子どもだけで38度線を超えるため、山道を50キロ歩いて咸興にたどり着きました。ソ連兵の襲撃もなく、食糧もあり、幸運であったかもしれません。その後無事日本に引き揚げ、父と再会することができました。戦後は渥美半島で開拓農民として暮らしましたが、その生活は厳しいものでした。(勝)



8月8日(土)
井戸早苗さん 「空襲下の暮らし・戦後の暮らし」

 終戦直後の名古屋の中心街はほとんどの建物が焼けて、名古屋駅から松坂屋が見えました。名古屋には軍需産業の工場がたくさんあったので、大量の爆弾が投下されました。空襲があると両親は消火活動をしなければならず、6歳の私は米が入ったリュックを背負い、夜中一人で円上の大防空壕へ逃げました。幼児期の思い出は「恐怖」のひとことです。
 家は焼失し家族で稲沢へ疎開。そこではよくいじめにあいました。名古屋へ戻り、東桜小学校に入りました。教室に弟や妹を連れてくる子もいました。戦争孤児も多かったですね。戦争とは、殺し合い、破壊しつくすこと。名古屋の軍事工場でつくられた兵器が他国の人々を傷つけたことも事実です。黙っていると戦争になる。若い人たちが伝えていかないといけない。(坂野)



8月11日(火)
津田さゑ子さん 「名古屋空襲・戦時下のくらし」

 津田さんは、1937年名古屋市中区御園町に6人兄弟の5番目として生まれ、今年88歳を迎えます。中野町国民学校1年生の頃、戦争が激しくなるにつれて生活は貧しくなりました。政府の命令が絶対とされ、自由に感情を表すことも難しかったそうです。学校には天皇陛下の写真と教育勅語が納められていた奉安殿があり、子どもたちはその前を通る際に一礼することが義務づけられていました。二宮金次郎像もあり、勤勉や倹約が教えらました。姉は勉強する代わりに学徒動員で工場で働きました。兄たちは伊勢の旅館へ学童疎開しました。
 昭和20年3月19日の空襲では、リュックサックと水筒を持って、焼夷弾が雨あられと降り注ぐ中を家族と一緒に逃げ回っていました。自宅は焼失し、親戚の家を転々としました。終戦後、名古屋に戻り、空襲の焼け跡が残る東区のお寺で授業を受けました。津田さんは戦争を「人と人が攻撃し合うもの」と表現し、「命は大切なものである」と強く訴えていました。(阿部)



8月12日(水)
中村桂子さん 「娘が語り継ぐ父の沖縄戦」

 日本軍の兵士として沖縄戦に参加した父、日比野勝廣さん。浦添の戦闘で負傷し破傷風にかかり、糸数壕にかくれました。昭和20年8月22日、敗戦を疑いながらも糸数の住民に助けられてガマを出ました。幾月かぶりにギラギラ光る太陽を仰ぐことができ、「死ぬまでこの光の中で生きたい」「これが平和だ!」と思ったそうです。
 死ぬのを待っていたような父を看病し、いっしょにガマの外に連れ出してくれた糸数の人たち。父は亡くなるまで100回以上沖縄を訪れ交流を続けていました。父は「戦争は怖いよ」と言いつづけ、「戦争は国と国がすること」「戦争がはじまったら逃げられない」「自分の夢や希望を大切に」と、「平和への努力のバトン」を私たち娘に託しました。「そのバトンを今日聞いてくれたみなさんにも渡します」と、中村さんは話しました。(東野)



8月13日(木)
青木正雄さん 「父の戦場(ペリリュー島)体験」

 父は、ペリリュー島で戦死。遺骨も帰ってきませんでした。3歳で戦争遺児となりました。「父との記憶は一度、膝に抱かれたことだけ」。15年前、日章旗が青木さんのもとに返ってきました。この日章旗は、お父さんが召集され、出征するとき持っていった寄せ書きの入った日の丸。ぺリリュー島で戦死した日本兵が持っていたたくさんの日章旗を持ち帰ったアメリカ兵。その中の1枚が、たどりたどって青木さんのもとに帰ってきました。
 この日章旗といっしょに60回以上父の戦争体験を語り継いできた青木さん。ペリリュー島にも訪問し、現地の人々との出会い、二度と戦争をおこすまいという思いが活動の原動力です。「憲法9条は戦没者からの遺言だ」という青木さん。死者は語ることができない、とすれば生者である私たちが語り続ければよいと、感じました。(小林)



8月14日(金)
松下哲子さん 「満州 ― 奉天からの引き揚げ」

 松下さんは1934(昭和9)年、旧満州国奉天市生まれ。お父さんは満州鉄道勤務でした。ガスも水洗トイレもある恵まれた暮らしで、「東亜の盟主たれ」「日本人は一等国民」「神の国だから戦争には負けない」と教育されてきました。しかし44年になると石炭不足で極寒のなか暖房がつかなくなり、戦争が身近に迫ってきたのを感じました。45年8月平壌に疎開、そこで終戦を迎えます。奉天に戻ると10月頃から、満蒙開拓団の人たちがソ連兵に追われて逃げてきました。葫蘆島経由で佐世保に帰ってきたのは46年8月末でした。
 最後に松下さんは、「なぜ日本は侵略し、無謀な戦争を始めたのか。お互いを知らないと差別が生まれる。都合の悪いこともしっかり学んで、80年続いた平和を90年、100年続いていくように、若い人たちには頑張ってほしい」と、語りました。(赤澤)



8月15日(土)
大橋麻由さん 「満蒙開拓を語り継ぐ~岩見鈴子さんの戦争~」

 満蒙開拓は昭和恐慌の下で主に農村経済の拡大を目的に敗戦まで、“国策”として推進された満洲(現在の中国東北部)への大規模な移住事業。およそ27万人が移住したが、そのうち8万人が亡くなりました。大橋さんは満蒙開拓団の語り継ぎをしていた平田和香さんに岩見鈴子さんを紹介され、体験の語り継ぎをすることに決めました。
 満州で父親を軍隊に召集され、母親も妹も弟も亡くし、自分もいろいろな差別で苦労した岩見さん。自殺まで考えましたが、日本に帰りたいという思いで耐えることができました。「自分の国を失うことは、命を失うことと同じ」「戦争は何もしなかった人を傷つける」と岩見さんは話していました。
 戦争が一人の人生をどれだけ翻弄するか、平和がいかに大事なことなのかを改めて感じる時間になった。また、どうしてこのようなことが起きたのかを考え、戦争という過ちを繰り返さないよう取り組むべきだと考えた。(イ・ソンジン)