特別企画 丸木位里・丸木俊「原爆の図」展に寄せて◆
「原爆の図展」と「戦争と平和の資料館 ピースあいち」
事務局長  赤澤 ゆかり



 先号の本メールマガジンで、1950年代は「原爆の図展」開催そのものが反戦・反核運動であったこと、そして今回の「原爆の図展」(7月21日(火)~9月5日(土))では当時のチラシやポスターなどの資料も展示しますとお知らせしました。今号では、「原爆の図展」と「ピースあいち」の関りについてご紹介したいと思います。

 再び「原爆の図展」開催が注目を集めるようになったのは、1985年の戦後40年・被爆40年を前にした頃。1982年に札幌市で、84年には京都市などで開催され、それぞれを市民の力で成功させたことから、「名古屋でも原爆の図展開催を」という機運が生まれたのです。
 『記録集 丸木依里 丸木俊 原爆の図 愛知展(1987)』には、「『核兵器禁止・軍縮と平和をめざす愛知県センター』を核に、にわかづくりの賛同者の集まりである『原爆の図をみる会』がそれを支える形で(形式的には合同で事務局を作るという形で)準備され、開催された。」とあります。
 その事務局長にピースあいちの初代館長・野間美喜子が就き、事務局には現理事長・鈴木秀幸、現館長・宮原大輔、現理事・竹内宏一らもいました。

 「原爆の図」は傷みが激しく、相応の施設でなければ開催がむずかしかったことから、愛知県美術館を会場と決め、1985年の夏休み2週間の開催を希望しました。しかし、空き時間が少ない、生存中の画家の「個展」的なものに許可した前例がないなどの理由で、使用不許可の回答。粘り強い交渉と市民の後押しで、翌86年の2月28日~3月8日の9日間の開催が決まりました。オープニングの朝は雪でした。
 丸木美術館には原爆の図(8点)、沖縄の図(連作8点)、原爆の図デッサン(50点)、絵本『ひろしまのピカ』原画(24点)、絵本『おきなわ海のこえ』原画(26点)、アウシュビッツのためのデッサン(12点)、中国の風景画(60点)他を貸し出していただいています。

 

 また記録集からは、開催に向けて実に多くの市民が参加したことがわかります。1年間の準備期間に県内各地で勉強会や講演会、スライド会、パネル展、ビデオ会が開かれました。メールやSNSのない時代ですから、「宣伝行動隊」が大量のチラシやポスターを持ってあちこちに走り、お手製の宣伝カーも繰り出し…といった具合。会場レイアウトも設営も自分たちの手で。丸木夫妻ご出席の「前夜祭」で盛り上げ、「書籍係」「折り鶴係」もあって、文化祭みたい。
 結果、9日間で21,405人が来場する大盛況に終わりました。覚悟していた大赤字も、会計報告は大黒字。「名古屋には平和運動は育たないと聞いていたが…開催と成功を支えたボランティアの人々に頭が下がる思いがした。」と、某新聞社の記者が書いています。


 この成功体験が、その後の愛知の平和運動に活力と連帯感をもたらしたのは確かでしょう。「みる会」代表・島田麗子さんのご挨拶に希望が託されています。
「愛知における今回の原爆の図展の特色は、かなり異なる立場、考え方の個人や団体が、図展成功というこの一点に結集し、ともに担ったということであると思います。それ故に、一つのことを決めるにも事務局ではたえずホットなディスカッションが続きました。終了した現在もまだ、その終わり方をめぐって、真剣な討論が続いています。人間一人一人がかくも違い、相手を尊重し共に生きることのむずかしさを体験しえたことはすばらしいことではないかと考えます。ねがわくばこのことがテコとなって、今後の地域における平和運動が一層成長し前進することを祈っています。」

 今から40年前の「原爆の図 愛知展」開催でつながった個々人の平和に対する思いが結集して、1993年「戦争メモリアルセンターの建設を呼びかける会」が結成されました。そして2007年、その流れをくむ「戦争と平和の資料館 ピースあいち」が生まれます。開館5周年記念を祝して2012年に第1回「原爆の図」展を開催。「原爆の図 愛知展」の関係者は感無量だったと思います。
 ピースあいちでの「原爆の図展」開催は6回目となります。展示作品第3部《水》、第14部《からす》、そして丸木スマさんの作品に、私たちの思いを込めています。ぜひご来館ください。