私の戦争体験◆戦死した軍医の父、遺された母
藤田 綾子(フジタアヤコ/1945年生・京都市中京区在住)

                                           
 

 私は、昭和20年1月1日に、この世に生を受けました。お正月と誕生日が重なり二重の喜びに、皆が湧き立った事でしょう。しかし一番喜ぶであろう父親は、近くには居ませんでした。フィリピンの戦場で軍医としてお国の為に働く為、前年の19年9月に和歌山県の加太岬から日本を離れていました。
 私の名前は、父が出征する前に、男子なら一男、女子なら綾子、と書き置いて行った事により名付けられました。私が8ヶ月になった頃、日本は終戦(敗戦)を迎えました。父はその時も居ませんでした。母は、父の消息が分からないまま幼い私を抱え、母の実家(大津市石山)に身を寄せていました。2年位経ったある日、婚家先から「父の戦死の公報が届いたから帰って来る様に」と、知らせがありました。
 母は婚家先で戦死の公報を目の当たりにして、辛い現実が一挙に襲いかかって来たのだと思います。父と結婚して輝かしい未来が来る事を確信していた思いが、音を立てて崩れたのです。実家に報告に帰る途中、最寄り駅に着いた途端、周りの目もはばからず、家までの道のりを泣き叫びながら走って帰ってきたそうです。当時一緒に暮らしていた、まだ幼く物心がついたばかりだった従兄弟が、数十年経ってからその事を私に話してくれました。
 それからの母の人生は、父の忘れ形見の私を無事に育てること、父の遺してくれた家、屋敷を守ること、その二点の為に一生懸命に生きてくれました。幸い晩年は穏やかに過ごす事が出来、94歳で天寿を全う致しました。
 私が50歳になった時、フィリピンの戦場を慰霊する旅に参加しました。今も印象に残っていることは、日本の野戦病院は、洞窟の中にありましたが、アメリカの野戦病院は、もちろん廃墟になってはいましたが、日本のものと比べると立派な建物でした。これでは日本が負けるのは、当たり前だと思いました。
 今、家には父が出征する前に在籍していた大学に提出した論文と、亡くなってから3年ほど経って大学から授与された医学博士の学位記が飾ってあります。
 あれから80年近く経ちましたが、確かに父が生きていた証として、大事に残していきたいと思います。