夏企画「原爆の図」展によせて◆1950年代の全国巡回展と愛知~発見された新資料~
運営委員 浅井 和子
今年の夏、ピースあいちでは特別企画 第6回 丸木位里・丸木俊「原爆の図展」を開催します。(7月21日~9月5日)
≪原爆の図≫第3部「水」第14部「からす」と丸木スマ「ピカのとき」「内海の魚」「花と猫」が展示されます。あわせて展示される資料があります。それは、1950年代全国で展開された「原爆の図巡回展」で使われたチラシやパンフレット。2025年4月丸木美術館の改築作業の中で発見された、黒い鞄に保存されていたものです。今回はその中から愛知の展示会に関する当時の資料を展示します。
愛知では1952年に豊橋市・名古屋市・岡崎市・碧南市、53年に名古屋市で開催されました。1952年6月岡崎市のタカハシ百貨店で開催された≪原爆の図≫展のチラシには「この絵はすでに全国各地を廻り、その観覧人数は250万人に達していると言われています。」とあります。
チラシやパンフレットから詳しい当時の開催の様子がわかりました。
1952年4月26日~29日/豊橋市/豊橋中央公民館・名古屋商工会館ホール/17,000人来館
1952年5月3日~7日/名古屋市/商工館ホール/14,000人来館
1952年6月7日~11日/岡崎市/タカハシ百貨店/10,700人来館
1952年7月11日~13日/碧南市/大浜上区公民館/12,000人来館
1953年5月29日~6月7日/名古屋市/廣小路名寶ホール/25,000人来館
占領下の日本では、原爆の写真や報道が検閲を受け、一般の人は何も知らされていませんでした。初めて≪原爆の図≫が発表されたのは、そんな時代、1950年2月上野の東京美術館で開催された第三回日本アンデパンダン展でした。発表時の題名は「八月六日」でした。≪原爆の図≫として発表したかったものの占領軍の圧力を恐れる仲間から頼まれて、題名を変えました。3月には日本橋丸善画廊で、≪原爆の図≫の名を表に出して展覧会を開催しました。
1952年4月サンフランシスコ講和条約発効後占領から解放されると原爆報道も解禁となりました。巡回展はこの年にピークを迎えます。朝鮮戦争下の緊張とともに二人の画家は≪原爆の図≫を描き、絵を背負って日本各地を巡回しながら被爆の実相を人びとに伝えました。日本のみならず、1953年1月世界平和評議会によって世界平和のゴールドメダルに選ばれると6月にはデンマーク、ハンガリー、中国、ルーマニア、デンマーク、イギリスなどを世界巡回していきます。
1950年~1953年にかけて全国各地を巡回する展覧会として広まりました。
≪原爆の図≫は、まず第1部の「幽霊」から始まり、第2部「火」、第3部「水」と続く初期3部作が制作されました(いずれも1950年)。
≪原爆の図≫巡回展は、当時はしばしば「原爆展」と呼ばれていました。
その先駆けとなった1951年7月京都大学の学生たちが、京都の丸物百貨店で開催した「総合原爆展」は、画期的なものでした。学生が専門的な視点から原爆を検証したのです。
3部作に加え、第4部「虹」、第5部「少年少女」を発表します。
丸木夫妻が帯同した巡回の旅は、やがてヨシダ・野々下ら若者たちに引き継がれます。愛知県の巡回展は彼らによる巡回展でした。