夏の特別企画展「丸木位里・丸木俊の原爆の図展」によせて
◆韓国・朝鮮人原爆死に目を向けた丸木位里・丸木俊
運営委員 𠮷岡 由紀夫
今回ピースあいちで展示する原爆の図第14部『からす』(1972年制作)は、韓国・朝鮮の人たちの原爆被害に目を向けた作品です。
「一番最後まで死骸が残ったのは朝鮮人だったとよ。日本人はたくさん生き残ったが、朝鮮人はちっとしか生き残らんじゃったけん。…朝鮮人たちの死骸の頭の目ん玉ば、からすがきて食うとよ、からすが目ん玉食らいよる」(石牟礼道子さんの文章より)
1945年当時日本在住の韓国・朝鮮人は、1910年の『韓国併合』~1939年からの「徴用」「強制連行」などで約200万人、広島・長崎には約4万人近くが住み、軍需・民間工場などで働き、原爆被爆死者は1万人にのぼるといわれています。
韓国人被爆者の呉 鳳寿(オ・ボンス、1932年韓国生、広島市在住94歳)さんは、「痛うて痛うてたまらんようになって『早う助けて!』って叫んだんじゃ。すると兵隊がわしをにらみつけて『貴様、朝鮮人のくせしてギャアギャア言うな!』って怒鳴りつけた。奈落に吸い込まれるような気がして目がくらんだよ。頭ん中、熱いもんがぐるぐるして、こんな目に遭うても・・・力が抜けたよ。今でもあの言葉は忘れん」(『原爆棄民」韓国・朝鮮人被爆者の証言』)
韓国のハプチョン郡(プサン北西100キロメートル)は「韓国のヒロシマ」と呼ばれ、現在も被爆者や2世、3世が多数暮らし、2017年には原爆資料館が設立され原爆・被爆の記憶を伝えています。
アメリカの原子爆弾投下は日本人だけではなく、日本が植民地支配していた韓国・朝鮮の人たちにも多大な辛苦をもたらしています。
原爆の図 第14部 『からす』(1972年制作)